其の参 《喰》

 一晩経ち、翌日になっても平介は接触してくることはなく、村を散歩している時に偶然会うと、逃げるように立ち去ってしまった。どちらにしても、あと一晩休んで、明朝には村を発つ。村でのことは気掛りではあるが、縁もないものが首を突っ込んでもろくなことはない。

 夕餉には野菜をたっぷりとつかった鍋が振る舞われた。前日の夕餉もそうだったが米のかわりに芋が食卓にならび、津雲はおおよそみずからの想像が的中していることを知る。

 就寝前の一服を済まして、津雲が布団にもぐり込んだ。

 朧は既に横たわり、瞼をつむっていた。起きているか寝ているのか、津雲には判別がつかない。唐突に目が開いて、驚かされたことも一度や二度ではなかった。かと思えば、気まぐれで話しかけたら「眠っていたのに」と怒られた経験もあり、眠っている可能性がある時にはなるべく干渉しないよう、心掛けていた。

 庵で眠っていた頃ほどに深く心地のよい睡眠は取れないが、津雲はこの頃寝つきが早い。すとんと眠りに落ち、なにか物音がすれば、瞬時に意識が浮上するのだ。だがこの夜は異様なほどの静けさが胸をざわめかせ、ひどく寝苦しかった。蟋蟀も松虫もじいっと息を潜めている。穏やかならざる静寂が胸を押さえつけ、錘が乗っているかのようだ。津雲が何度目かの寝返りを打つと、見計らったように朧が声を掛けてきた。


「奇妙だよ。感じているかい」


 ぱちりと、津雲が目蓋を押しあげた。


「ええ、虫も獣も異様に静かですね。なにかに怯えているんでしょうか」

「胸騒ぎがするね。虫も鳴かぬ宵というのは大抵、何事かが起こるよ」


 両者、にわかに上半身を起こす。朧は眼鏡を掛け、津雲が素早く羽織を手繰り寄せた。布団を蹴りつけて、すぐにでも動けるように身構える。


 静寂が破られる。怒涛のような轟きをともなって、なにかが、近づいてきた。

 近い。それに凄まじい速度である。

 人ではなく、獣でもない、異様な気配を感じ取って、息を殺す。外に面した障子戸を睨みつけて、近づいてくるものの正体を見極めようとした。されど障子紙に影が映ったのが早いか、それは一寸の迷いすらなく、座敷に飛び込んできた。


 おぎゃあ。


 甲高い産声が、障子の倒れる轟音を掻き消す。

 濡れ音を立てて、板の間に這いあがってきたそれは想像を絶する異形であった。

 母胎から滑り落ちた赤ん坊の姿を模していながら、体長はひぐまほどもある。堕胎された胚子はいしいびつな成長を遂げたかのようだった。身体の細部は未だ育ちきっておらず、異様に膨らんだ腹からは引きちぎられたへその緒が垂れていた。血を滴らせるそれは、裂けた腹から溢れだした臓物のようでもある。短い四肢の先に並ぶ指は数が不揃いであり、右手には指が七本、左手からは三本の親指が伸びていた。

 胴体と比べて大きすぎる頭がぬっと持ちあげられ、血に塗れた顔が露わとなった。だが、それを顔面と称して良いのかはいささか疑問である。

 眼窩は薄い目蓋に覆われ、皮膚に張りめぐらされた血管を透かして、眼球めだまが映っていた。だが眼球めだまは黒いばかりで、耳があるべきところもつるりとしていて、五感が備わっているのかどうか。鼻もほとんど成長しておらず、僅かな膨らみがあるだけだった。

 朧はあまりのおぞましさに絶句し、津雲ですら吐き気を抑えるように手をやった。如何なる悪意を寄り集めれば、これほどの奇形児を生みだせるのか。

 首が据わっていないのか、揺らぐ頭は再びに項垂れた。


「……なるほど。そう言うことだったんですね」


 空気を蓄えたような赤子の腹を見詰めて、津雲が納得したような声をあげる。

 飢え、かつえていたのはひとりではなかったのか。田舎の罪深き因習は聞き及んでいたが、まさか今なお続いていたとはついぞ思いもしなかった。なにかわかったのか、と朧が視線で問いかけてきたが、津雲にはいま、返事をする余裕がない。


 赤ん坊がかぱりと、口を割った。

 肉厚な舌がいびつに伸びた四つの乳歯をなぞった。熟れた歯茎から頭を出すそれは、肉を食いちぎるのに適したかたちをしていた。喉奥の肉びらが蠕動ぜんどうして、その向こう側に底知れぬ闇が覗く。

 喰われる、と直感した。生臭い息が津雲の鼻腔を刺す。赤ん坊は餓え、それ以上に強い怨みの念に突き動かされている。

 四肢をうごめかせて、赤ん坊は一気に距離を詰めた。

 避ける暇はない。限界まで広げられた両顎が、津雲の頭部に齧りつこうと。


「立ち去りなさい、ここは


 赤ん坊がその首を食いちぎる寸前に、津雲が静かに語りかけた。

 

「ここにはあなたが怨む相手はいません」


 津雲は片手をあげ、赤ん坊の額を蹴りあげようと構えていた朧を制止する。津雲の穏やかな語り掛けは穴だけの耳にも届いたようだ。津雲に覆いかぶさった状態で、赤子は動きをとめている。


「あなたには、分かるはずですよ」


 相手に知能があるのかどうかはわからない。赤ん坊とは現象の一種であり、念に突き動かされる肉の塊でしかないのかも知れなかった。だが語りかける声に敵意や恐怖がないことを感じ取ったのか、赤ん坊から害意が消え失せた。

 おもむろに赤ん坊は振りむき、恐ろしい速度で外に飛び出していく。

 津雲が手をおろす。津雲の指にはいつの間にか、筆が握られていた。朧は如何なる化け物が相手だろうと戦うつもりでいたが、遠ざかる気配と音に肩から力を抜く。


「久し振りだよ、あのようなものに遭ったのは。反応が鈍くなっているね」

「今度ばかりはそれが幸いしましたよ。あの場で攻撃を仕掛けたら、あれを止める術はなくなったでしょう。ふたりとも喰われていたかもしれません」

「不幸中の幸いということか」

「ええ、巻き込まれてしまったものは仕方がありません。最後まで見届けなければ目覚めが悪い。あの生魑には《目》をつけて置きましたので」


 回転させた筆の先から、血の墨が飛ぶ。津雲は羽織の紐を結んで、下駄脱ぎから転げ落ちていた下駄を履いた。 


「いきましょう。《目》が利く範囲はそれほど広くはありません」

「あれが、どこに向かうのかは薄々予想がつくね」


 木端こっぱとなった障子を踏みつけて、ふたりは赤ん坊の後を追いかける。

 走りつつ津雲が筆の穂先ほさきを撫ぜつけた。指に移った血墨を右の目蓋に乗せれば、その裏側に風景が広がっていく。どちらも夜道なので違いは分かりづらいが、目蓋の裏に浮かぶ映像は見開いた右目が映すものとは異なっていた。

 地べたに落ちた視線。左右で揺れる草の茎に逃げ惑う蟋蟀こおろぎ、いぼ蛙。前に前にと土くれを押しひさぐ腕。これは、あの赤ん坊の視界に他ならない。

 掌で左目を覆うと、風景はより鮮明なものとなった。



(枯れ尾花の群が、恐るべき速度で後ろに流れていく。暗いのは瞼越しの風景だからと言うだけではない。村は既に眠りの淵へと落ち、暖かなあかりはひとつも見当たらなかった。闇に沈んだ草場には果てがなく、徐々に数を減らしていく尾花だけが進んでいるという実感をもたらす。振り仰げば、月盤がどこまでも後を追ってきていた。それに恐怖を覚えたのか、歩調が乱れ、ますます加速していく。

 視界を満たしていた草の群れが途切れた。しげみから飛びだした身体は勢いを落とすことなく、一直線に農村でもっとも立派な屋敷を目指す。他の民家と孤立して建てられた屋敷には生垣や塀はなく、赤ん坊の侵入を阻むものはなにもなかった。

 橙色に浮かぶ障子紙、隙間から洩れた光。映しだされた人影が異様な音に気づいて面をあげた。かれが慌てて障子窓から離れたのは賢明な判断であった。赤ん坊は躊躇ためらいなく、障子目掛けて突進していく。

 障子窓が吹き飛んだ。

 一瞬の暗転の後、座敷のなかの景色が広がった。板の間には障子の残骸と、土壁も一緒に崩れたのか割れた壁の破片が散乱していた。後は、骨。鶏のものにまざって、鹿か猪の骨もあった。

 呆然と立ちつくす名主が、驚愕と恐怖に顔を歪ませる。

 夜の静けさを破った異形はかれの理解を超えていたのか、名主は幾度も首を振り乱す。髭に覆われた口がぱくぱくと動いた。壁を破り、襲いかかってきた血塗れの赤ん坊は、まさに悪夢の権化だ。現実だと認められないに違いない。発狂してもおかしくはなかった。されど奇妙なことに、名主は赤ん坊を振り仰ぎ、微かに笑った。頬はまだ強張っているが、目許が柔らかく綻んでいる。

 かれは涙ぐんで、なにかをつぶやいていた。

 気でも触れたのだろうか。

 赤ん坊が呱々ここの声を上げた。濡れた七本の指が床板を掻く。ぐるりぐるりと据わらない首を回して赤子が舌舐めずりをした。


 


 一拍の間を開けて、赤ん坊が駆けだす。名主は両手を広げ、何事かを叫んだ。命乞いだろうか。書物机は腕を掛けただけで二つに割れ、筆や書物が宙を舞った。身体をうんと伸ばして、赤ん坊は名主の首を噛みちぎろうとし、)



 ぶつり、左目の映像が途切れた。

 石につまづき、津雲が蹈鞴たたらを踏む。前方を進んでいた朧がそれに気づいて、歩調を緩めた。よろけた拍子に肩の傷がずきりと痛んだ。津雲は肩の傷が開いていないことを確認すると、再び走りだす。


 視野を失ったのは距離を離されたからか、或いは別の理由があるのか。


 誰も救いたいとは思わない。救えるともおごらない。

 されど他者の死を娯楽とするほどには、享楽的に生きてもいなかった。

 どのような物事も因があり、果を結ぶのならば、こうして巻き込まれる因果もあったのかもしれない。最後まで見届けなければならない、という気持ちが、歩を進めるごとに増す。


 屋敷に到達し、不気味なほどの静けさに肌が粟立あわだった。

 恐慌どころか、声ひとつない。名主が殺されていたとしても、赤ん坊の産声くらいはするはずなのだ。虫の音が絶えているせいか、余計に静寂が鼓膜に突き刺さった。

 破壊された障子窓から侵入することは憚られ、正面から戸をくぐって廊下を進む。

 先頭を切る朧が襖に手を掛けて、乱暴に開け放った。


 座敷は惨憺さんたんたる有様だった。

 板の間は赤に沈み、座敷一帯が血の噴きだす沼と変わり果てている。うずたかく積み上がった肉塊にくかいとも泥ともつかぬ物体が、家財道具の大半を押し潰していた。泥の被害は行燈にも及んでいたが、泥が湿っていた為か最悪の事態には陥っていない。

 ぼうと立ち尽くしていた年老いた男が、緩慢な動作で振り向く。

 かれはすっかりとやつれていた。落ち窪んだ目は絶望に濁り、一筋の光すら差さない。二日前に会った物腰穏やかな老人とは、まるで別人のようだった。

 何故にかれが生きているのか。何故に赤ん坊の餓鬼がきは復讐を果たさなかったのか。何故にかれは怨まれることとなったのか。何故にいま、へその緒を握り締めて泣いているのか。


「娘が」


 しなびた肌を幾筋もの涙が伝った。かみ締めるように呟く。


「娘は、わたくしを喰らいませんでした」


 繋がる先を持たぬ無縁の尾が、指の間から垂れ下がり、漂う。


「あれほどに飢え、かつえていたというのに」


 それが望みであったのかのように。

 それだけが、償いであったかのように。


「結局、あの子にはなにもしてやれなかった……」


 憔悴した老父の涙は、夜明けまで尽きることはなかった。

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