其の弐 《餓》

 とっぷりと暮れた山間さんかんに下駄と草履の足音が響いていく。垂れた枝を払い、草を踏みしめただけの道ともいえない道を進む。雑草は枯れはじめているものの、落ち葉が積もり、足許が覚束ない。新月の晩ではないはずだが、伸び放題に育った枝葉が鬱蒼と覆い被さっているせいであたりは暗く、時折繁みから飛びだしてくる鹿や狐の目ばかりが光っていた。野生の動物と遭遇する度に先頭を歩く朧が警戒を強め、無害な動物だとわかって気を緩めた。後ろに並ぶ津雲は、背後に絶えず注意を払っている。


 その晩、ふたりは素晴らしい馳走を振る舞われ、丁重にもてなされた。取れたばかりの岩魚に、大根に茄子に牛蒡。百姓が米を食べられぬというのは俗説、というよりは如何に搾取されているかを誇張する常套句のようなものだが、食卓に白飯はなく、かわりに蒸かした芋がならんだ。

 風呂にも浸かり、これからゆったりと休息を取るはずだったのに、何故にこのようなところを歩いているのか。熊や狼に遭遇する危険を冒してまで、夜の森に踏み入ったのには理由があった。


「平介さんはどのようなつもりなんでしょうね。なにやら切羽詰せっぱつまった様子でしたが」

「さあね。だが、平介とやらは名主の弟なんだろう? 兄の尋常ならざる様子を君に目撃されて、このことが他のものに洩れないかと案じているに違いないよ」

「やはり、そのことでしょうかね」

「他には考えられないね。口封じか。或いは助けを求めているのか」

「助け、ねえ。いまは《審神司さにわ》だとは名乗っていませんよ」


 骨を貪り続ける名主の様子はまさに異様だったが、津雲は単に食事に居合わせてしまったていを装い、平然と振る舞った。後々から誰かに、名主の様子について尋ねるようなこともせず、敢えて係わりを持たないように努めていたのだ。

 津雲は昔から生魑を引き寄せる。母親の生魑によって寿命を長らえたが故なのか、それとも他の因縁があるのかはわからないが、津雲のゆく先々ではかならず生魑が巻き起こる。長旅はただでさえ身体に負担を掛けるのだ。生魑と係わり、体力を浪費するのは避けたかった。それに無闇に噂を残しては、影の集団に追跡されかねない。

 しかしながら因縁とは避けようのないものなのか、平介という男がなにかに勘づき、一書を送りつけてきた。大事な話しがあるので、森の社に来て欲しい――地図を添えた簡潔な文章からは、悪意も善意も感じ取れない。無視することもできたが、逆に寝入ったところを襲われたり、村での滞在に支障をきたすようなことになってはこまる。笹子峠という難所が待ち構えているのだ。一晩くらいはゆっくりと屋根のあるところで眠りたい。

 例えば、「誰にも言わないでください」と頼まれるだけならば、「もちろんですとも」と頷けばいい。面倒ながらもふたりが足を運んだのには、そのような考えがあった。


 小川に渡された丸太橋を越えれば、地図に描かれていた社らしきものが見えてきた。社とはいっても、朱塗りの鳥居が建てられた神社ではなく、小屋ほどの規模の祠だった。ずいぶんと昔に建てられたものなのか、板張りの壁は朽ちかけ、屋根も傾いでいる。土台は石で組まれており、木造の部分をかろうじて支えていた。古めかしい祠の正面で立ちつくしていた人影が、足音に気づいて振りかえった。

 やや張ったえら骨。ぼてっとした鼻。屋敷で案内してくれた男――平介に相違なかった。平介はふたりに辞儀をして、丁寧に詫びる。


「こげな夜半に社さ呼び出しちまって、お詫びのしようもねーべさ」


 だが昼のように愛想よく笑いかけてくることはなかった。日に焼けた頬は強張っており、緊張が窺える。ふたりの沈黙を催促と受け取ったのか、平介が間を持たせずに本題に移った。


「時にお前さんら、名主さまの奇行を見なすったか?」

「……はい」


 誤魔化しは利かないだろうと判断し、津雲が頷く。


「あれは見てはならないものだったのでしょうね」


 村人の何割が知っているのかは判らない。だが少なくとも、津雲らを村に案内してくれたあの農夫は知っていたのだろう。他所者よそものに目撃されないよう、さきんじて伝達にむかったのだとすれば、名主の屋敷に送り届けてくれなかったことにも納得がいく。

 津雲の予測に反して、平介は「いんや」と首を真横に振るった。


「見られちまったもんは仕方がねーべ。んなことより、旅人さんはあのような病、もしくは憑きものについてご存じないかよ? 旅人さんは斯様かような場面に遭遇しても眉を持ちあげるべーでたまげとらんかったべ。なんぞ知りおるのではねーか」

 

 敬語はたどたどしいが、思いの他、勘が鋭いようだ。

 津雲が記憶しているかぎりでは、平介はあの場にはいなかったはずだ。だが座敷に同席しておらずとも、廊下から様子を窺っていたのかもしれない。かれは、旅人が訪れた時点でこうなる事を予測していたのだろう。或いは敢えて名主が骨を貪る場面を見せ、なにかを知っている様子ならば、問い詰める算段だったのか。津雲が忘れものをすることは滅多にない。そこから仕組まれていたのだとすれば、なんとも癪に障る話しだ。


「人に物を尋ねるには説明が足らないね。現段階で僕らが知っていることは骨を喰らっていた、という一点のみだよ。何故骨なのか、いつから始まったのか。知っていることだけでも説明するのが、人に意見を求める際の礼儀だと思うがね」


 苛立ちを隠しもせず、朧が平介に尋ねかえす。


「や、骨を喰ろうておるわけではねえで。飢えてえて辛抱ならんのを、骨を齧ることでやりすごしておられるんでさ。飢えが始まったのはひと月前。前触れもなくひでえ飢餓感に襲われて、それ以来何を喰らっても腹が満たされんそうだべ。米を一升喰おうが、山ほどの芋を喰おうが、飢えを満たすこったあできなんだ。食らっても喰らっても、腹にゃあ溜まらず、そんで満たすことは諦めたんでさ」

「ふむ、施餓鬼の類ではなさそうですね。施餓鬼せがきならばひとしきり喰らえば、満足して剥がれるはず。それに霊障だと、喰らっても喰らっても痩せていく。そうではないということは――さて、なんでしょうかね」


 考えるまでもなく、津雲は飢えの元凶がなんであるかを悟っていた。

 施餓鬼は浮遊霊の一種であるが、故に長く取り憑くことはない。実際には飢餓が満たされることはないが、いったん飢えが満たされれば、そのものから離れていく。ひとりに執着するように留まり続けるのは生者の想念、すなわち生魑に他ならない。


「何ぞか知りおるんならば、どうぞ教えてくんな。旅人さん、あんたがただもんじゃあねーこったあ見てりゃ分かることでさあ。あんたらなら名主さまを……」


 涙を滲ませて、かれは深々と腰を曲げた。


「兄者を救ってやってくんろ」


 懇願は真のものだ。兄を案じる気持ちにも嘘偽りはない。悪意はなかった。

 津雲は審神司の面差しになり、緩やかに首を振るった。


「残念ですが、あたしには名主殿を救うことはできません」

 

 静かな語調だった。それでいて有無を言わせない厳しさがあった。

 期待を裏切られた平介は頬を張られたように目を剥き、ぎゅっと拳を握り締めた。鍬を握る無骨な手がわなわなと震える。拳はけっきょく振りあげられることなく、項垂れた。

 平介が助けを求めた相手は正しかった。ならば、なにが間違っていたのか。

 うつむきがちにこちらを睨む目が「何故だ」と糾弾していることに気がついて、津雲がため息を落とす。


「あたしには名主殿を助けることは出来ないんですよ。如何にしてその現象が起こったのかを解明し、理が崩れているのであればそれを質す。その程度のことならば可能ですが、……その必要はないでしょう。貴方は既に、それをご存知のようだ」

 

 思い当たる節があったのか、平介が息を呑んだ。


「真にそれは、前触れもなく訪れたものなのですか?」


 乾いた田圃たんぼ、やたらと植えられた薩摩芋、背の低い茄子、小規模な集落の割に多い村人の数。村から絶えた童らの姿。津雲が疑いを持ったそれらの事柄が、おそらくは真相に繋がっている。

 平介は罪に気づきながら、なにも知らない振りをして救いを求めている――それは泥まみれの掌で水を求める愚行だ。綺麗な水をそそがれたとて、泥が溶けだして飲めるものではない。真にそれを求めるのならば、かれは目を背けるべきではないのだ。

 求めているのが逃げ道ではなく、助けならば、なおさらのことだった。


「なにか、話すことはありますか」


 平介は言葉を呑んで、うんともすんとも言わない。


「……ならば、あたしはなにも問いませんよ。なにも、応えません」


 沈黙に対して応えられることなどないのだ。


 木々の隙間を駆け抜ける風は寒く、早くも冬の気配を漂わせていた。吹き荒ぶ北風に長い総髪をなびかせて、津雲は踵をかえす。津雲が歩きだせば、朧もまた歩調を合わせて立ち去った。


 ふたつの影が森に紛れて見えなくなってから、平介がその場に膝をつく。腐葉土が爪のあいだに侵入し、たちまち男の手は真っ黒に汚れた。遂に振りあげた拳で殴りつけるものを捜して、そんなものは何処にもないのだと、平介はあらためて気がつく。このやるせなさを捨てられる場所は何処にもない。

 谷の底にも、この痛みだけは決して捨てられないのだ。


「ああどうか許してくんろ、許してくんな、なあ許して、許し」


 涙で潰れた声が、誰にでもなく訴える。徐々にそれは慟哭に変わり、涙が枯れてもなお、かれは額を地面にこすりつけた。傾いだ頭は罪の重さか。或いはそれですら、かれらが犯した罪の、村が重ねた業の重積には足りぬのやもしれなかった。

 許されることではない。それと知りつつ、許しを乞う。

 当然ながら、答える声は何処にもなかった。

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