其の壱 《飢》

 長閑のどかな田舎の道を荷車にぐるまく。

 牛がく荷車には大量のわらが積まれていた。男がふたり、荷台のへりに腰掛けている。ひとりは手毬模様の派手な羽織を纏い、ひとあたりのよい微笑みを浮かべていた。長身痩躯とあわさって、遠くからでもまわりの視線を集める風体だ。だが体調が優れないのか、肌が蝋のように蒼白く、時々だが咳をしていた。

 隣にすわっているのも若い男だったが、先述した男とはまるで真逆だ。地味な服装に眼鏡をかけた風貌は偏屈な町医者、或いは人嫌いな文豪を彷彿とさせた。人相はお世辞にも優しげとはいえず、つりあがった眸は絶えずあたりを睨みつけているようであった。さきほどから会話に加わることもなく、腕を組んで風景を眺めている。

 共通しているのは、どちらもこの田舎にはそぐわない風貌である、ということだ。

 このあたりに暮らしているのは鍬を持った農夫か、内職と家事に明け暮れる女、腰の曲がった老人くらいのものだ。後は牛と鶏か。


「いやァ、真に助かりましたよ。内藤新宿ないとうしんじゅくから甲州街道を通り、小仏峠を越えてきたんですが、街道沿いにある旅籠はたごは何処も満室だっていうんでこまり果てていたんです。 黒野田宿までいくにはさすがに距離がありすぎて。宿を紹介して頂けるだけでも有難いのに、送り届けてくださるとは感謝の言葉もございません」


 荷台に乗ったひとりが礼を述べると、牛の手綱を持つ農夫が「んなんな」と空いた左手を振ってみせた。


「こまった時はお互いさまでさあ」


 がらがらと、車輪が轍を刻む。車輪に踏まれない道の真中にだけ、雑草が根を張っている。砂利やかたまった牛糞を踏む度にがたんと荷車が跳ね、羽織の背中があやうげに傾く。


 農道の両側に広がる畑には様々な野菜が植えられていた。

 茄子は切りかえし剪定を終えたばかりなのか、やけに枝が短い。切り返し剪定とは育ちすぎて実りが少なくなった茄子の枝を一度半分ほどの高さに剪定することを指す。そうすることで美味な秋茄子が収穫できるようになるのだ。畑の茄子はぽつりぽつりと実がなっているものの、剪定の時期が遅かったのか、まるまるとした秋茄子が実るのはあとひと月ほど掛かりそうだ。農家としては、それまでに霜が降りないことを願うばかりであろう。

 他の畑はほとんどが芋を育てており、蔓に埋もれるようにして、朝顔や昼顔によく似た紫の花が咲いていた。秋が深まるのを待って掘りかえせば、さぞやいい薩摩芋が実っていることだろう。

 こうして眺めていても畑ばかりだ。田圃もあるにはあるが、稲は植わっておらず水も張られていなかった。既に収穫を終えたのだろうか。

 畑の至るところに人がおり、野菜を収穫したり雑草を抜いたりと、休む暇もなく働いている。


「農村に着いたら、まんず名主なぬしさまにご挨拶を。おらが先んずて、名主さまに伝えておくべさ。んで、おふたりさん、名前を教えてくんろ」

「津雲と申します」


 農夫に尋ねられ、まずは物腰穏やかな男が会釈した。

 続けて、もうひとりの男が表情ひとつ変えずに名乗った。


「ろうだよ。おぼろという字を書くね」


 ふうむと農夫が唸り、復唱した。《つくも》、それに《ろう》とはなんと耳に馴染まない響きだろうか。覚えにくいと農夫が内心で愚痴ったのが、眉間の皺から伝わってきた。

 農夫との会話が終わったのを見計らって、朧が津雲に声を掛けた。


「今晩もなんとか屋根のある場所で眠れそうだね。笹子峠は難所だし、しかと体調を整えておくといい」

「いまもそれほど、体調が優れない訳ではないのですがね。歩速が落ちているのは体調不良に陥らないためであって、身体に支障が出ているからではありませんよ」

「さあ、どうだかね。体調に関する君の発言は九分九厘、信用ならないよ」

「九分九厘とは……ずいぶんと、信用されていないんですね」

「素行が悪いんだよ。信頼して欲しいのならば、そう振る舞えばいいさ」


 言葉の表面上は喧嘩を売っているかのようだが、常に相手を睨みつけているような朧の目許めもとがふと緩み、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。目許を綻ばせただけだというのに、ずいぶんと様子が良い青年に早変わりしている。常にそうしていれば人好きもするだろうに、間もなくして仏頂面に戻ってしまった。


 両側を占めていた畑が徐々に減り、その合間に建てられた民家が目を引く。

 藁屋根に苔むした土壁。田舎にふさわしい粗末な家屋だったが、透けてみえる生活風景からは暖かさが滲む。戸が開け放たれている民家もあり、囲炉裏端で笠を編む老爺の姿がちらりと垣間見えた。赤ん坊を背負って掃除をする母親らしき女もいた。段々と民家が密集しはじめ、駆けまわる鶏を踏まないよう、牛が速度を落とす。

 大きな建物の前でやっと、荷車が停まった。


「ここが旅籠屋だべさ。つっても滅多にお客さまなんぞは来られんけんど」


 荷車から降りて、ふたりはそろって農村を見まわす。

 ふたりが風景についてあれこれと語っているあいだに、農夫は旅籠のなかに入って女将と掛けあってくれた。農夫の声は威勢がよく、鶏の朝一番の雄たけびのように外まで響いてきた。


「おう、おっかみさん、お客さんだべさ。そーけ、お江戸からの、おう。そんでよぉ、そうそう、ふたり連れだべ」


 話しはすぐに済んだのか、もんぺ姿をした初老の女が姿を現す。

 奇抜な格好をしたふたりの客人を見て「あらまあ」と一驚し、嬉しそうに迎え入れてくれた。だが農夫が先述したように来客など滅多にないらしく、宿の準備をしなくてはならないので暫く待っていてほしいと眉を垂らす。推測するに、ここは実際には旅籠屋などではなく、予想外の来客があった際のみ空き部屋を貸しているのだろう。驚くやら喜ぶやら謝るやら、忙しいことだと朧は肩をすくめ、津雲は嫌な顔ひとつせずに頷いた。

 先に名主への挨拶を済ませてしまえば、あとはゆっくり身体を休めるだけでいい。

 名主の屋敷がどこにあるのか分からないので、再び荷車に乗せてもらおうと考えたが、女将と話し終わった頃には農夫は荷車を牽いてその場から去ってしまっていた。名主に伝達をしに向かったのだろうが、それならば同乗させて欲しかった。


「挨拶ならば、僕がいけば充分だ。君は休むと良いよ」

「いえ、挨拶に向かうのに朧さんひとりでは心許ないのであたしも行きますよ。喧嘩を売りにいくのでしたら、朧さんほど適任な方はいないでしょうがね」

「それは先刻せんこくの仕返しのつもりかい」

 どうでしょうかね、と津雲が薄く微笑む。


 女将に尋ねると、懇切丁寧に屋敷の場所を教えてくれた。畑と家屋に挟まれた砂利の轍を道なりに進む。幾度も野良着姿の農夫や老婦とすれ違った。村の規模の割には人口が多いようだ。まだ日暮れは遠いはずだが、童子の賑やかな声は何処からも聴こえてこない。産まれたばかりの赤ん坊はいるのだが、童と言える齢の子どもがいなかった。田舎では年々出産率が減っているというのは騒がれているが、切実な現実問題のようだ。

 入り組んだ土地でもないので迷うことはなく、すんなりと屋敷に行き着く。

 屋敷は農村でもっとも立派な建物だったが、構造自体は他の民家と大差なかった。屋根に瓦はなく、縁側などという贅沢なものも存在しない。庭の隅には大樹があり、柿が生っていた。駒のようなかたちから想像するに渋柿だが、枝振りに反比例して実の数は少ない。


「おおう、やっとのことさ、来なすったか」


 障子が開かれ、三十代前半とおぼしき男性がひょっこりと頭を出した。だんごをつけたような鼻にえらの張った、なんとも無骨な顔かたちをしているが、人懐っこい表情は他の村人と変わらない。


「どうぞどうぞ、兄者あにじゃ――いんや名主さまがお待ちんなってますだ」


 案内されるがままに屋敷にあがる。昼間にも関わらず薄暗い廊下にはうっすらと埃が積もり、蜘蛛の巣が天井の端々に張っていた。掃除がおろそかになっているようだ。夏から秋に移り変わったこの季節、農家では屋内のことに構う暇などなく、日がな一日畑仕事に精を出す。

 小さな農村では名主ひとりが、地方三役じかたさんやくを努めることもあった。

 板張りの狭い座敷には書物机が置かれ、初老に差し掛かった名主が背筋を伸ばして待ち受けていた。白髪まじりの髭を蓄え、髪をきちんと結いあげている。目許の皺が深まり、名主は静かに歓迎の朗笑ろうしょうを湛えた。他の村人が振りまいていたような底抜けに明るい笑みではないが、それ故に穏やかな貫禄がある。それだけでも謹厚な人柄が窺えた。


「斯様な辺境の村によくぞいらっしゃいました。野菜以外は何もなき田舎ですが、どうかごゆるりとお過ごしになられ、旅の疲れを落としていかれますよう」

「お心遣い、痛み入ります」


 津雲は深々と頭を下げ、白紙に包んだ謝礼金をその場に置いた。宿代とは別に、誰かの領地に滞在する場合は税を収めねばならない。続けて滞在の日程を告げた。


「こちらには二泊三日滞在させて頂きたく存じます。宿と最低限の食事を頂ければ、他に入り用なものはございません。過分なる心配りはご無用にてございます」


「いえ、そのようなわけには参りません。大した歓待は致せぬなれど、出来得できうる範囲にて礼を尽くさせて頂きます。何か気がかりなことがございますれば、お申しつけくだされ。わたくしに直接仰って頂くのが一等よいですが、不在の際は平介……お二方を屋敷内にご案内した男に言伝ことづて頂けば幸いでございます」


 穏やかな語調には訛りらしきものはない。出身地が違う、ということはないはずだが、長く他の地方に暮らしていたのかもしれなかった。

 津雲は頷き、恭しく感謝の意を述べた。


「それではまた、旅立ちの前にご挨拶に参ります。執務の途中に失礼致しました」


 名主が素早く書物机に視線を走らせ、そこに散らばった書類を見て「ああ」と声をあげた。散らかっていて申し訳ないと頭を下げた名主に津雲は柔らかな微笑で応える。

 そうして座敷を退室し、戸口まで来たところで久し振りに朧が言葉を発した。


「君、座敷に荷物を忘れてきたんじゃないかい?」

「え……ああ、しまった」


 ずっと重い風呂敷を背負って歩いていたので、座布団に座して気が抜けてしまったようだ。そこには着替えの他にも多額の旅費が入っていた。些か面倒ではあるが、取りに戻るしかない。朧はその場に残り、津雲だけが座敷へと引きかえす。

 襖に手を掛けて、静かに滑らせた。


「すみません、忘れ物を――」


 ぼりぼりと嫌な音が、津雲の耳に障った。

 書物机に齧りつくように背をまるめていた名主が、びくりと肩を揺すり、緩慢な動作で顔をあげた。

 素手で握っているなにかに食らいつこうと、限界まで開かれた口。食べかすがあちらこちらに絡まった口髭。目には凄まじい飢えが浮かんでいる。皺だらけの手指に握られていたのは骨、だった。机に置かれた盆には食べ散らかした骨が無数に積みあげられており、肉が残っているものはない。

 津雲は驚いて目を見張り、硬直する。

 さきほどまでの振る舞いからはかけ離れた名主の行動に、度肝を抜かれたのだ。まして客人が去ってからものの数分のうちに、これほど夢中になってなにかを貪っているなどと、誰が想像しようか。

 しばしかたまっていたものの、津雲は「お食事中に失礼致しました」と愛想笑いをつくって荷物を手繰り寄せ、さっさと座敷を後にする。屋敷の外で待っていた朧は津雲の表情をみて、何事かがあったのだと察したようで眉根を寄せた。


「ここにはなにかがありますよ」


 津雲は目を細めた。


 名主が貪っていたものは鶏の骨だった。

 骨に齧りつく様からは尋常ならざる陰の気が漂っていたが、なにもおぞましいものを喰らっていたわけではないのだ。されど一瞬、津雲は盆に乗った無数の骨が他のものに見えていた。

 年端もいかぬ子どもの頭蓋骨だ。

 頬肉を削がれ、頭髪をむしられた頭蓋骨が山積みになり、恨みを、無念を訴えていた。まだ産まれたばかりの乳飲み子の、骨が重なりきっていない頭蓋骨もある。瞬きをするとそれらの映像は搔き消え、後には焼かれた鶏の骨があるばかりだった。あれらの映像がなにを暗示しているのかはわからないが、確かなことがひとつ。


「相変わらず、君は人の業に好かれているようだ。二晩の休息ものんびりとは取らせてくれないらしいね」


 朧が嫌味のようにため息をつければ、津雲もそれにあわせてこまったように苦笑する。

 業は業を引き寄せ、生魑は生魑を呼び集めるものだ。

 当人が望まざろうとも。

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