《夫婦鑑之噺》

其の壱 《浦》

 銘々膳めいめいぜんごと吹き飛んだ朝餉あさげが、畳をよごす。焼き魚は勢いよく襖にあたって落ち、茶碗からこぼれた米粒があちらこちらに散乱し、味噌汁は湯気をあげながら畳に浸み込んでいく。綺麗にならべられていた漬物は、割れた皿の破片にまみれ、箸をつけることはできそうにもない

 膳を蹴り飛ばした男はなおも怒りがおさまらないのか、顔を赤らめ、怒鳴り散らす。

 

「薄味は好かんと幾度も言っておろうが!」


 無残に散らばった朝餉を片づけようと、畳に這いつくばっていた女性が顔をあげた。頬には痣。怯えきった瞳をしている。言葉を詰まらせ、されど堪えきれずといった様子で唇を震わせる。


「ですが、先日は濃い味は御嫌いだと……」

「口答えをする気か!」


 男の硬い拳が女性の頬を打つ。余程よほどに興奮しているのか、男はしきりに唾をまき散らした。一度殴っただけでは腹の虫がおさまらなかったようで、女の髪を乱暴につかみ、再び腕を振りあげた。


「いやぁ、あなたさま! どうかお許しを!」


 涙に濡れた女の面が恐怖に歪む。


「わたくしが悪うございます……どうか、どうかこれ以上は殴らないで! ああっ」


 懇願もむなしく、またも暴力を振るわれて、嗚咽おえつ混じりの悲鳴が大きくなった。頬は赤く腫れあがり、倒れた時に皿の破片でも当たったのか、額からは血が滲んでいる。幾度かの殴打の後、投げるように髪を放され、女性は身ごと崩れ落ちた。畳を這いずり起きあがろうとするものの、横腹を蹴られて、うずくまった。身体を硬くまるめて、女性がなにを考えているのか、ぎゅっと瞑られた瞳から察することはできない。


 男が続けて拳を振るうのが早いか、座敷の襖が開かれた。声は掛けられていたのかもしれないが、男は気がつかなかった。

 少々驚いた様子で襖の前に立っていたのは、昨晩から屋敷に滞在している審神司さにわだった。男自身が、とある依頼をして、屋敷に招いたのだ。依頼についての話があり、食事の後に、と呼び寄せていたことを思いだす。まさかこんなことになっているとは思わなかったのか、案内してきた女中が慌てている。

 場を取り繕うように男がひとつ、咳払いをした。


「不出来な妻なものでな」


 顎をしゃくって、女に掃除を促す。

 片づけが済んでから、男は改めて審神司さにわを座敷に招き、自身は敷いてあった布団の上に胡坐を掻いた。


「昨晩は遥々、江戸の城下からご苦労であったな」

「とんでもございません。駕籠かごまで御用意していただき、感謝致します」


 昨晩審神司が到着した時には日が暮れて久しく、依頼の話は翌朝ということになった。

 名は確か――、津雲つくもといったはずだ。

 ふり仰ぐような身の丈に不健康に痩せた腕と足。鋭いながらも人好きのする眼差しからは、静かな知性を漂わせていた。派手な羽織がどうにも胡散臭い印象だったが、その奇抜な風体は数々の奇怪な事件を解決したとの噂に信憑性を持たせた。

 ずいぶんと物騒な場面を目撃しても審神司に動じた様子はない。座敷を去っていく女の後ろ姿をみて、微かに目を細めたものの、さきほどのことについて言い及ぶことはなかった。男には審神司の思考は読めないが、職業柄、こうした揉め事と遭遇することに慣れているのだろう。


「こうして、貴公を屋敷に招き入れたのは他でもない。実は半月程前から、夜ごと両足に激痛が走り、昼には腕を斬り落としたくなるほどの疼きに襲われるのだ。解放されるのは朝と夕の一刻のみ。まともに睡眠も取れず、日に日に衰えていくばかり。これでは命にも係わる。否、今晩にも気が触れそうなのだ」


 男は喋りながら、頭を抱えた。深々と刻まれた眉間の皺が連日襲い来る苦痛を如実に表している。齢の上ではそれほど老いてはいないはずだが、疲れきった表情は早くも壮齢の辛労を滲ませていた。


如何いかな名医を呼んでも、みなが口を揃えて江戸患いだと言い捨てる。だがそのようなものが原因ならば、朝と夕にだけ疼痛とうつうが止むはずがなかろうて。どうにも合点がてんがいかぬ」


 病状を聞いたかぎりでは、男を苦しめているそれは江戸患い――所謂いわゆる脚気かっけの症状と似ていた。

 脚気とは原因不明の流行り病であり、年々死者を出していながら、いまだに確かな治療法が見つかっていない。民間では蕎麦が脚気に効くという噂が広まり、江戸の町に蕎麦処が軒を連ねる大きな一因となった。だがあくまでも民間療法に過ぎず、確実とは言えない。この脚気が江戸患いと呼ばれる所以は、多数の患者が江戸を離れることで治癒したところにあった。


「噂によれば、こうした奇病は誰かの怨み辛みによって引き起こされるというではないか。儂は誰かに怨まれるようなことをした覚えはないが、我が東条家は他のどのような御家人ごけにんの家系より秀でているが為、それを妬むものとて多く居よう」


 北登ほくとみなみ西郡にしごおりと指を折り、男が苦虫を噛み潰したような表情になる。ならべた名称はどれも六浦むつうらの家中に仕えし御家人のものだ。東条家を妬んでいるに違いない、と男が推測する者の代表格なのだろう。


「貴公にはその元凶を突きとめて頂きたい」


 審神司さにわが恭しく頷く。

 腰まで掛かる長い総髪がさらりと、痩せぎすの肩に流れた。前髪と睫毛の間から窺うようにして、審神司は心の裏まで見透かすように男を見やる。


「御当主、いえ東条弥惣治やそうじ殿。既に使いの御方にはお伝え致しておりますが、改めて申しあげます。あたしは誰も救いません。ただ真実を暴き出すのみにてございます。事の真相を暴くまでが、あたしの請け負った依頼です。それだけは何卒、お忘れなきように」


 男改め、弥惣治は得体の知れぬ寒気を覚え、眉を顰めた。

 真相をあきらかにする。それはお約束しましょう。されども、その後のことまでは責任を負いかねます。というのがあらかじめ、使いの者を通じて、伝えられていたことだった。弥惣治はそれを承諾した。故にそれは、いっこうに構わないことなのだ。ならば何故、このような悪寒が走ったのか、みずからのことながら弥惣治には理解ができなかった。

 弥惣治がはたと、窓に視線を投げる。

 ぼんやりとした朝焼けが段々と青に移りかえるところだった。間もなく日が昇る。月代を剃った額にぶわりと汗が浮かんだ。ごほんと咳払いをしてから、弥惣治は言った。


「事情も問わずにかくまってやっているのだ。それに見合う働きは為せよ、審神司」


 深々と一礼し、審神司――津雲が座敷から立ち去る。

 津雲が襖を閉めるなり、座敷からは疼きに悶絶する野太い悲鳴が聞こえてきた。だが津雲は構わずに廊下を進んでいく。悲鳴を聞き、座敷に急ぐ女性とすれ違った。御家人の妻とは思えぬような、殆ど女中と変わらない身なりだったが、腫れあがった頬と痣に縁取られた片目をみれば、先ほどの――弥惣治の妻であることがわかる。

 弥惣治の妻は津雲に気づき、みすぼらしい着物の裾をひるがえして頭をさげる。そうして慌ただしく、夫のもとに走っていった。

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