其の肆 《九死に一生》

 手術は無事に終わったが、なおも津雲は意識を取りもどさなかった。微かな寝息だけが、かれをこちらに繋ぎとめるよすがだ。悪い夢の淵を彷徨っているのか、時折うなされるように喉が震える。されど一晩、また一晩と夜を越えるごとに息が細くなっていった。


「死ぬなよ」


 医者とは言えど、後は声を掛け続ける他になにもできない。


「君はこんな道なかばで息絶えるべきじゃない」


 幾晩経っただろうか。骨だけのようにやせ細った指が、ぴくりと動いた。津雲の意識を手繰り寄せるように手を取れば、頼りないちからではあるが、朧の手を握りかえしてきた。


「津雲、生きろ」


 睫毛の先端が震え、重い目蓋が持ちあげられた。

 黒檀の眸は濁り、焦点がさだまっていない。あたりの様子を確かめるように視線はふらふらと漂っていたが、側にすわっていた朧の人影を捉え、微かに目許が緩んだ。


「やっと戻ってきたのか、津雲」


 震えそうになる声を律して言葉を掛けると、痺れているであろう頬を持ちあげ、津雲が苦笑する。


「あたしは案外、しぶといんですよ、朧さん」


 かすれてはいたが、声はちゃんと喉を震わせた。


「知ってたよ」

 信じていたとも言える。

 津雲は死ぬときにはあっさりと逝くだろう、なんの未練も残さずに。けれどいまはその時ではないと。


「これを」


 筆を渡す。

 津雲はいまだに思うようには動かないはずの指でそれを受け取り、ありがとうございますと微笑んだ。確かめるように筆の軸に触れ、毛髪の穂を撫ぜる。家族の髪に触れるような慈しみが、指から滲む。


「言司の一族は、血縁者の髪を結わえて筆にするのだと、言っていたね。母親の形見なのだとも。ならば、軸は母親の骨か」


 朧はこれまで津雲の筆に触れたことはなかった。だが実際に触れ、そこから死の重みを感じた。死と、終わった生の重み。それは、遺髪だけでは到底及ばぬ、凄みのようなものだ。


 津雲はひとつ、頷いた。


「母は、齢十七で、その短い人生を終えました」


 かれが親のことを語るのははじめてだった。朧は驚きつつも、じっと津雲の昔語りに耳を傾ける。津雲の声は普段の張りがなく、言葉を発するのも億劫そうだったが、ぽつりぽつりと語り始めた。


したたかな、女性でした。誰に頼ることもなく、女の細腕ひとつであたしを育ててくれた。父親が誰かはわかりません。一族の者だったのかどうかさえ。ただ、物心ついた時にはかのじょは幼いあたしを連れて、各地を転々としていました。誰かから逃げていたのか、或いはなにかを捜していたのか。いまとなっては確かめるすべはありません。女ひとり、幼子ひとりでは難儀な旅だったろうと思うのですが、つらかったという記憶は何故か残っていません。豊かではなくとも、食うにこまるでもなし。後に思いかえせば、母もまた、審神司さにわを生業としていたのでしょう。

 もっとも強く覚えているのは……そう、赤い袖です。母はいつ何時も美しかった。どれほど苛酷な旅路の途上でも黒髪を綺麗に結いあげ、華やかな紅の振袖を纏い、惨めさを僅かも滲ませずに凛としていた。あたしは、それが誇らしかった」


 時々舌が縺れる。乾いた咳を挿みながら、それでもかれは喋り続けた。うつつのよすがを手繰り寄せるかのように、津雲は饒舌に語る。


「母もまた、一族の呪いを引き継ぐ身。短命のさだめです。されど二十歳までは生きられるはずでした」

「殺されたのか」

「いいえ、かのじょは残された寿命を、息子に捧げた」


 津雲はぎゅっと筆を握り締めた。呪いの浮かんだ遺骨。麻痺していて、ちからのこもらない指だったが、それでも精一杯に強く。それを眺めるにつけ、津雲の骨もまた赤いのだろうかと朧は想像せずにはいられないのだ。


「そんなことが、可能なのか」

「いいえ、昔ならばともかく、現在の言司のちからでは不可能です」


 津雲は言いきった。


「おそらくは、母の情念が生魑いきすだまをひき起こしたのだと」


 一族を縛る呪が生魑に依るものならば、それをやわらげるのもまた、情念か。


「救いだとは、あたしには云えません」


 幼い頃に背負わされるには、母の命は重すぎた。否、いまだってそうだろう。救いというにはあまりにも悲惨だ。生魑は誰も救わない。そう津雲が語る真髄には、かれ自身の経験が根を張っているのだと、朧は今更ながらに気がついた。


「ただ、母の命を貰い受けて、為すべきをまだ為していません。預かった命ならば、最後まで燃やして報いなければ」


 津雲は枕もとの親友に視線を移す。


「ありがとうございます、あたしを引き戻してくださって」


 それだけいって、津雲は静かに目蓋をおろす。まだあちらこちらに激痛が走るはずだ。休息を経て、津雲が尋ねた。


「あれから幾夜経ったんでしょうか」

「三日三晩眠り続けていたね」

「そんなに長くですか」


 津雲がまわりを見まわす。


「ここはどこかの旅籠ですね。庵は」

「あそこは、奴らに張られている危険がある。巻物だけでも回収したいが、しばらくは戻らないほうが賢明だね。この旅籠もいつ、奴らの襲撃を受けるか」

「あたしも取りあえず、旅籠を移動することくらいならばできると思いますが……敵に襲撃を受けても、しばらく戦えません。われながら不甲斐ないとは思いますが」

「当然だね。そんな重傷で戦ったら、今度こそ死ぬよ」


 次はない。ただでさえ寿命は刻々と縮んでいるのだ。今度深い傷を負ったら、どれほど手厚く治療を施されたとしても生還は望めまい。むざと、奴らに殺されるわけにはいかなかった。

 思案するふたりの沈黙を割ったのは、襖の向こう側から掛けられた旅籠の女中の呼び掛けだった。


「お客様がお越しなのですが、お通ししてもよろしいでしょうか」


 津雲と朧は顔を見あわせる。

 この旅籠が刺客に気づかれてしまったのか? 朧は津雲を護るように立ちあがり、構えた。


審神司さにわさん。ここにいはるんやろ」


 続けて、関西訛のある声。鼓膜に残る、粘つくような声質には聞き覚えがあった。先程とは異なる意味で身構える。朧は首を横に振り、入室を断るべきだと無言のうちに津雲に訴えた。津雲は数秒考え、ゆっくりと身体を起こし「どうぞ」と促す。


 喪服の呪物屋が入室してきた。


「いやァ、吃驚やわ。ほんまに生きてはるんやねェ」


 朧は嫌悪に満ちた目で呪物屋を睨んでいる。「津雲、なにがあっても筆を渡すなよ」耳打ちするが、筒抜けだったのか、呪物屋は苦笑して袖を振った。


「もう、そないなこと、企んでませんて」


 津雲はそれでおおよその事態を察したのか、瞳を細めた。


「残念ですが、これは呪物まがものではありませんよ。あなたの蒐集物に加えるには荷が重すぎます。それよりも」


 津雲は嗄れた喉で本題を催促する。


「用件はなんですか。単なる見舞い、ではないでしょう」


 呪物屋がにたりと、細い眸をさらに細める。

 畳にあがり、かれは勝手に座布団を手繰り寄せて座った。改まってなにを言いだすのかと思えば、呪物屋は突拍子もないことを口にした。


「依頼を持ってきたんですわ。審神司さんに」


 真に考えの読めない男だ。騒動に紛れて津雲の筆を騙し取ろうとしておいて、今度は依頼を持ってきたなどと言われても、まともに取りあえるはずがない。朧は露骨に眉根を顰めた。


「君からの依頼など受けられるはずがないね。頭が沸いているんじゃないのか」

「まァ、信頼してくださいゆうても無理なんはわかりますわ。そやけど、えェ話なんですわ。なんでも依頼を解決してくれるんやったら、かくもうてくれはるとか。聞くだけ聞いたってくださいな。依頼人も連れてきてるさかいに」

「勝手なことを……!」


 朧が断るのを遮り、津雲が頷いた。


「わかりました。依頼だけでも聞きましょう」

「だが、津雲……!」

「旅籠を移るのも、依頼人にかくまわれるのも、さして変わりませんよ。宿賃だけで客に軒を貸している旅籠の者か、訳ありの審神司に頼ってでも解決してほしい難題を抱えた依頼人か。どちらのほうが信頼がおけるかと言えば、後者のほうがちょいとはましだ」


 いま意識が戻ったばかりだというのに、津雲は実に冷静だった。

 呪物屋が頷き、襖の裏に待たせていた人物を呼び寄せる。

 現れたのは半裃はんかみしもを装った武士だった。風貌から察するに御家人ごけにん並、それも抱席かかえせきといったところだろうか。武士は座敷にあがるなり帯刀を右にまわし、敵意がないことを示してから畳に座る。


それがし六浦むつうら家中かちゅう臣属しんぞく東条家とうじょうけのものにてそうろう審神司さにわ殿の御助力を賜りたく、こうして馳せ参じた次第。して、審神司殿は」

「このような格好で失礼致します。あたしがその審神司ですが、依頼というのはいったい」


 依頼人が深々と頭をさげる。


「東条家の御当主が半月前より謎の奇病に苦しめられておりまする。そが病の元凶を解明して下さるのならば、貴殿に安全なる隠れ宿を提供致しましょう……――」

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