其の参 《葬頭河渡るべからず》

 徐々に日が陰り始めた林を走り、坂をくだる。

 朧は崖から転落していった津雲を捜していた。


「死んだ、はずがない。そうだろう、津雲……?」


 津雲を捜しにいった数人の刺客がまだ一帯をうろうろとしている。敵に発見される前に津雲を見つけ、助けなければ。確かにこのあたりに落ちたはずだというのに、津雲の姿はない。

 あちらこちらに視線を張りめぐらせながら、走り続けていた朧が急に立ちどまる。


「あれは」


 秋に差し掛かったとは言えども、いまだに緑が勢う風景のなかで、やけに紅葉が進んだ繁みがあった。真っ赤に染まる草叢をみて、気がつく。紅葉ではない。夥しい量の血に葉が濡れているのだ。

 近づき、確かめる。

 草叢は丁度、崖の真下にあたる。津雲がここまで転がり落ちてきたことは確かだ。だが津雲の姿がない。考えられることはふたつ。刺客がすでに津雲を発見し、どこかに連れ去っていったか。あるいは意識を取りもどして、みずからどこかに逃げ、身を隠したか。前者だとすれば、津雲が生きているのか死んでいるのかはさだかではない。骸を持ち帰ることも考えられるからだ。

 息があったとしても、これだけの血潮が流れているのだ。急がねば、命に係わる。

 草履がなにかを踏みかける。草に埋もれて、あるものが落ちていた。拾いあげる。津雲の筆だ。赤い呪の紋様が浮かんだ軸と頭髪の質感。慣れない感触に朧は一瞬だけ怯み、されど取り落とすことはなく懐にしまった。

 落としたのか。隠したのか。津雲の意を確かめる術はない。ただ、託されたのだと、思った。偶然でも故意でも。

 顔をあげ、あらためて見れば、血痕は草叢からずるずると北側にむかっていた。慎重に、だが急いで血の跡をたどる。


 血痕をたどって進むと、川まで繋がっていた。

 緩やかな流れに身を投じたようだ。

 亡骸を棄てた? いや持ち帰るならばまだしも、遺棄するなど考えられない。水のなかを進むことで追い掛けてくる敵を撒こうとしたのだ。

 だとすれば、津雲は生きている。生きているのだ。

 安堵しかけて、いや、まだ命の危機に曝されていることに変わりはないのだと考えなおす。

 川を渡り、繁みから岩陰まで、懸命に捜した。それほど遠くにはいっていないはずなのに、津雲は見つからない。こうしているうちにも津雲の命の蝋燭が縮んでいっているのがわかる。焦燥に焼かれ、喉ばかり渇く。どれだけ歩きまわっても手掛かりひとつない。


 小枝の軋む微かな音がして、振りかえるや否や、背後から敵の残党が襲いかかってきた。

 朧は難なく奇襲を避け、勢いあまって蹈鞴を踏んだ刺客の腹を蹴りあげた。うめいて崩れ落ちる様を凍えた視線で睨み、一撃で頭蓋を踏み潰す。鬼のような戦いぶりだった。情けも容赦もない。情けをかけて見逃せば、襲われるのは津雲だ。事実、殺さずに戦っていたせいで津雲はいま死に掛けている。はじめからことごとく殺していれば、津雲が斬られることはなかったのだ。

 敵よりもさきに津雲を捜しださなければならないのに。

 

 ざわざわと、激しく葦が騒めいた。

 何者かが、近づいてくる。朧が身構えた。もっとも身を隠すつもりもない雑な物音が、刺客ではないことを表していた。いや、故意に葦の繁みを揺さぶり、敵ではないことをこちらに伝えているのだ。


 現れたのは見覚えのない、喪服。乾いた若白髪に、赤い紅だけが異様に鮮やかだ。狐か、蛇か。化生の類を想わせる顔に笑みを張りつけて、その男はたたずんでいた。


審神司さにわさんを捜してはるんやろ」


 朧は殺気を膨らませ、喪服の男をめつけた。


「津雲はどこだ」


 凍りつくような凄みを感じていないはずもないだろうに、喪服の男は若白髪を掻きまわして、ひょいと肩を竦めただけで微笑を崩すことはない。


「せっかちやねェ……まァ、確かに急がへんとなごうは持たへんやろね。あれ、背中から斬られて崖から落ちはったん? よう死なへんかったわ。えらい薄命そうやけど、ずいぶん頑丈な御仁おひとなんやね」


「うるさいね」


 いましがた殺したばかりの刺客の腕から刀を奪い、朧は喪服の男に突きつけた。距離はあるが、この程度ならば一瞬で接近できる。


「いまの僕は気がたっているんだ。津雲がどこにいるのかを言え」

「もちろん、教えましょ。せやけど、ぼくは商売人やさかい、ただでは教えられまへんわ」

「殺されたいのか」

「おお、怖ァ」


 喪服の男はわざとらしく身震いをしてみせる。


「あんたさん、お強いみたいやけど、こういうのにはあんま慣れてはらへんのちゃいますか?」


 男が前触れもなく、腰に帯びていた刀のようなものを抜き放った。柳が撓るような、あまりにもなめらかな動きだったので、朧は一瞬身構えるのが遅れる。刀、というよりは鉄の塊だった。竹編みの鞘から抜いたついでに、男は素振りをする。刹那、朧の側にあった木がぐらりと傾き、勢いよく倒れてきた。

 相手がなにをしたのか、理解できなかった。動きが鈍る。かろうじて避けられはしたものの、倒木の枝が頬をかすめた。痛みというほどのものではないが、脅威は覚える。


「あらら、これ案外重いもんやねェ」


 脈動する鉄の塊。これには覚えがある。


「……辻斬りの」


 だが津雲の話を凌駕する斬れ味だ。いや、これを斬れ味と言い表してよいものかどうか。例えるならば砲撃だ。刀に触れずとも、振った衝撃だけで木の幹が無残に割れ、喪服と木を結ぶように直線に土が抉れていた。

 まともに喰らったらどうなるか、考えるまでもない。


 辻斬りは死んだ。

 それならば、その妖刀を所持するこの男は。


呪物屋まがものやか」


 呪物屋は肯定のかわりに辞儀をしてみせた。


「これは所詮しょせん、副産物なんやけれど、刀鍛冶一家の血を吸うて呪物まがものになったんですわ。復讐やら絶望やらが足らへんでき損ないやよってに、長くは持たへんやろけど。脅された時の護身にはなりますやろ」


 呪物屋のことを語りながら、津雲がめずらしく眉根を寄せていた。直接に理を歪めこそせずとも、理の歪む悪因をばら撒く所業。さらに生魑を物と扱い、利を得る様は、津雲の流儀に反している。朧とて、話を聞くかぎりでも嫌悪が募った。いまは殺意すら湧いている。

 やっかいな奴に捕まった。悪態を口走りそうになるのをこらえ、朧は交渉を持ちかける。


「何両、いや何十両、積めばいい」

「あらま、掛けあってくれはるんですか。あんたさんはこういう取引はお嫌いやろに」

「嫌いだね。だけれど銭で解決するならば、それでも構わないね」


 されど朧の譲歩にも、呪物屋は首を横に振る。


「ちゃいます、ちゃいます。銭なんか腐るほどあるんですわ」


 長すぎる喪服の袖を振り、呪物屋は細い眸を微かに開ける。血を融かしたような赤い眸が覗いた。


「あんたさんが、預かってはるんとちゃいますか」


 背筋が凍る。動揺を禁じえなかった。


「なんのことだね」


 素知らぬふりをしたが、見抜かれているに違いない。現に視線を彷徨わせる朧のことを凝視して、呪物屋は唇の端を持ちあげた。


「ぼくが欲しいんは呪物まがものや。肌身離さずに持ってはるやろと思うてたのに、どこにもあらへんかった。託すんやったら、あんたさんやろ」


 懐に収めていた筆が急激に輪郭を帯びた。触れずとも、その感触が指に甦る。

 朧がなにかを言い掛けるのを待たず、呪物屋が言った。


「急がへんと、間にあわないんとちゃいますか」


 言われなくともわかっている。

 ただでさえ短い命の蝋燭が、刻一刻と減っていく。瞬きの度、目蓋の裏側にはその様子が浮かんでいるのだ。胸が焼けるような焦燥は絶えない。――されど、これは。

 筆に触れることはせず、朧は袖に隠れて震える拳だけを握り締めた。


「命か。魂か。そういうことだね」


 刀が、武士の魂であるように。或いはそれを遥かに超える重みをもって、毛髪で拵えられた筆は言司ことつかさの、否、津雲の魂である。それを渡せと。ましてや、朧の所有物ではない。朧が選択する権利などないのに、決めろと急かされる矛盾に頭が壊れそうになる。


「……僕は」


 言葉を吹きとばすように、木枯らしが押し寄せた。

 あたりに繁る葦はひとつ残らず、突風にひれ伏す。穂のついた頭を地につくほどに傾がせて、葦は秋の嵐に従うのみ。騒めく繁みを睨みつけ、朧は続けてみずからのつまさきに視線を落とす。僅かな沈黙にも頭は冷める。焦燥と憎悪の熱が、段々と落ちていく。

 風が去る。


 視線をあげ、朧が嘲笑する。


「貴様になど頼るものか」


 笑みをゆがめ、それきり踵をかえす。

 からからと背後で笑いだす声を蹴り、朧は前に進んでいく。後ろから斬り掛かられれば、避けられる警戒を残して、だか決して振りかえることはしなかった。


 そもそもこの男が津雲の居処を知っているからといって、何故教えてもらわなければならないのか。朧の頭にはまた違った怒りが産まれていた。一瞬でもこのような相手から教えてもらおうとしていたみずからにたいする怒りだ。焦燥が、思考の幅を狭めていたとしか考えられない。


「やみくもに捜しても、時ばっかりが経っていくんちゃいますか。秋の日は釣瓶落としや。帳が落ちたら、いよいよに見つからへんよってに、最悪死にめにも逢えへんよ」


 遠ざかる声を無視して、朧は瀬を渡ってひきかえす。

 後ろから追い掛けてくることもなければ、攻撃を仕掛けてくることもなかった。朧と戦う気概ははじめからなかったのだろう。津雲の話からするに、呪物屋は高みの見物を好む。漁夫の利が得られるようならばこれ幸いときたに違いない。そのような奴に構っている暇はなかった。

 考えろと、朧はようやっと冷静になった頭で思考をまわす。

 津雲ならば、どこに逃げ、身を隠すか。流れは緩いとは言えど、川の中程の水嵩は腰まである。刀傷があり、骨も折れているかもしれない状態で、腰まで流れに浸かって対岸まで渡る。朧ならばともかく、津雲にそれほど体力があるか。否。敵が追い掛けてこれないようにいったん浅瀬に浸かり、それから血痕が残らないよう、近場に身を隠す。何故それに気がつかなかったのか。


 もとの岸に戻り、瀬のなかを下流にくだり、捜索を続ける。

 ぬかるむ砂地を踏みしめて、波を掻き分けた。流れが足に絡みつく。夕焼けはすでにくすみはじめており、水は墨のように暗かった。死者が渡るという葬頭河そうずかが朧の脳裏をよぎる。まったく縁起でもない。津雲は、川を渡っていない。かれにはまだ、為すべきことがある。渡っているはずがないのだ。


「そうだろう、津雲……」


 呼び掛けながら、捜しまわる。いまにも燃えつきて、森の稜線に落ちていきそうな日だけが頼りだ。


 そうして遂に朧は、岩陰に倒れている津雲を発見した。

 着崩れた着物は血に染まり、剥きだしの脚からはいまだにだらだらと新しい血潮が流れ続けている。肩にはまだ、矢が刺さっていた。だが抜かなかったのは幸いだ。傷が触れ、血が損なわれていくほど、命も縮む。津雲はぐったりとしていたが、草履の音を聞いて目蓋を重そうに持ちあげる。


「津雲、遅くなったね」 


 朧が声を掛けた。

 津雲の唇は青かったが、それでも僅かに微笑みのようなものが宿る。


「見つけて、くれると……おもって、いましたよ」


 津雲はそれきり、目蓋を塞いで動かなくなった。頭の重みにたえかねるように首が傾き、濡れた髪が肌に張りつく。異様なほどの白皙は燃えつきた後の蝋燭を思わせ、朧の背筋を凍えさせた。


「死んでなどいないだろうな、津雲……!」


 情けないほどに声が震えた。

 腕を取り、脈を確かめる。かろうじて、脈拍はあった。されど時々とまりかけているのがわかる。取りあえず、傷の止血と消毒を済ませ、朧は気絶した津雲を背負った。津雲のほうが上背はあるものの痩せているので、運ぶのに難はない。ただ安全なところに運び終えるまで、津雲が持つかどうかだ。


「生きていてくれよ」


 胸中ではずっと願い続けてきた言葉を、喉から絞りだして、朧は一歩、また一歩と歩きはじめた。

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