其の弐 《血嵐吹き荒れる》

 張り詰めていた琴線が切れるような神経質な音が、ふたりの鼓膜を逆撫ぜた。一拍の間を置いて、それらが幻聴の類ではなく、敵が一斉に忍刀しのびがたなを抜き放った音だということに気づく。

 その頃には黒装束のひとりが、津雲と朧のいる岩に足を掛けていた。刺客が乗りあげてくる直前で、朧が蹴りを繰りだす。腹を狙ったが、草履の先端はあえなく宙を掻いた。寸でのところで相手が岩から跳びすさったのだ。あの体勢からよくも避けられたものだと、朧が感心半分苛立ち半分に舌打ちをした。

 よほどの手練れだ。


 戦うにしても逃げるにしても、川の真中の狭い足場では心許ない。

 津雲が「朧さん、陸地に」と声を掛ける。判断は迅速かつ的確だったが、両岸を包囲されているので敵をしりぞけないかぎりは陸地には移動できない。ふたりは背中あわせに身構える。

 

 黒装束が再びに斬り掛かってきた。

 津雲がすかさず筆を抜き、血潮の墨を散らす。


「――しつ


 迫る斬撃を払いのけ、息も接がずに綴る。冷静に敵との距離を見極め、多勢の刀を順にさばく。一度でもはねかえす順番を見誤れば、斬られる。極限まで集中して、筆を振るい続ける。深紅の袖が戦旗のようにひるがえった。


 影は朧にも容赦なく襲いかかる。

 敵は刀を構えており、朧の手にあるのは竹竿のみ。されどかれは恐れず、竹竿を強く握り、刺客に挑む。

 敵の刀が吼える。続けて竹が折れる裂音。胸を狙った突きが竹竿を裂いたのだ。

 竹に刺さって勢いを失った刀は、朧の身に達すことなく制止する。敵は得物を無理に抜こうとはせず、あっさりと柄から手を放す。かわりに太股に隠していた匕首あいくちを抜き放ち、勢いよく斬り掛かってきた。

 敵の行動を先読みしていた朧は、素早く竹竿を回転させた。竹に刺さったやいばをもって、刺客の攻撃をはねかえす。さすがにそれほど素早く反応するとは予想外だったのか、黒装束の男が焦る。一瞬の隙を逃さず、朧のまわし蹴りが敵の頭部にさく裂。敵が足場から転落する。

 続けて、真横からせまっていた敵にむかい、竹竿を振るった。竹竿に刺さったままだった刀の柄が、敵のこめかみを強打する。

 この衝撃で竹が完璧に裂け、すぽんと忍刀が抜けた。刃は回転しながら真上に飛び、落下。落ちてきた柄を危うげもなく取り、朧はやっと対等に戦える武器を得る。


「どこからでも掛かってくるといいよ」


 刺客の刀を構え、朧が周囲に睨みを利かす。

 思いがけぬふたりの強さに、敵が緊張しているのが感じ取れる。だがこの程度では撤退する気はないようだ。


 続々と刺客が襲来する。

 きりがない。


 背中あわせで戦いながら、ふたりは徐々に東側の岸に移動する。

 陸地に足がついた。葦のなかに逃げ込むべきか。川沿いに走り、町までいくべきか。葦の繁みにどれだけの敵が身を潜めているかはわからない。さらに視界が悪いのはこちらも同様で、死角から斬られる危険もある。かといって、町までは三里ほどある。庵ならば、さほど距離もないが、逃げ込んだところで火を放たれて終わりだ。

 

「森に身を隠すぞ」


 朧が振りかえりざまに津雲に囁いた。津雲の返事を待たずに、朧は葦の繁みから飛びだしてきた刺客に反撃する。

 

 津雲は川を渡り、追いついてきた刺客の相手にまわる。敵の攻撃をぎりぎりまでひきつけてから避け、首筋を狙って、墨を落とす。《おう》は直接素肌に綴らねばならない。刺客は執拗に黒い布を巻きつけており、央の文字を綴る隙はない。かといって、《しち》で攻撃をさばくだけでは防戦一方だ。


「――


 墨が爆ぜ、敵の頭部を殴りつけた。激しい衝撃に敵が昏倒する。

 津雲はするりするりと刺客の攻撃をかわし、懐に潜りこんでは墨の打撃を加えていった。沢の濡れた砂利を蹴って、津雲は走る。ざっと着物のすそがめくれあがり、素足に飛沫が巻きあがった。敵はなおも増え続ける。


 かあんと、鉄が啼いた。

 朧の握っていた刀が、折れたのだ。


 朧が舌打ちをする。折れたやいばの先端は旋回して川面を割り、清流に呑まれた。刺客は好機とばかりに、朧へと一斉に襲い掛かる。

 津雲は振りかえりそうになって、されど森にむかって突き進む。葦には紛れず、道なりに坂を走っていく津雲の後ろ姿を見送り、朧はそれでいいと胸中で頷いた。朧は打撃のみで敵の猛襲をさばいていく。跳躍し敵の肩に乗りあげ、頭部をねらい、意識ごと川に沈めて確実に数を減らしていく。

 

 されど多勢に無勢だ。

 着地するところに足払いを掛けられ、朧が重心を崩す。


「――っ」


 受け身を取って転倒は避けたが、ひと息に距離を詰めてきた人影が視界の端に映る。心の臓に狙いをさだめて、刃が突き出された。それを斜めから捉えた朧の眼差しは静寂を保ち、微塵も揺れ動かない。

 黒い布から僅かに覗く無機質な目が、見開かれる。


「な……っ」


 朧が素手で刀撃を受けとめたのだ。掌を犠牲にして胸を護ったわけではない。

 薬草のにおいが浸みついた指が、砥がれた刃をしかと握っていた。肌が裂け、最悪指が落ちていてもおかしくはないというのに、絶妙な力加減を心得た朧の手からは、一滴の血も流れてはいなかった。

 真剣白刃取りと言えば、さして珍しい技ではない。

 だがあれは実際に刀身を取るわけではない。持つのは柄や鍔の部分だ。稀に両手で刀身を挟み込む手法もあるが、それは頭部を狙った上段からの斬りにかぎられていた。あれだけ勢いがついた直刀を無傷で受けとめられるものなのか。まして、斬りではなく突きの型を差しとめられるものなのか。


 黒装束が動揺した一秒たらずのうちに、朧は体勢を立て直した。

 刀を奪い、間髪入れず、敵を蹴りつけた。足技は容赦なく、相手の顔面を穿つ。鼻の折れる音は流れに呑まれて搔き消えた。


 敵はまだいる。だが、限りなく増え続けるようだった刺客も、段々と数を減らしていた。

 朧が敵にむかって走りだす。朧を迎え撃たんと、敵が順に刀を振るった。鈍い銀光が風を断つ。朧は素早く膝を曲げ、上半身を斜めにねじった。避けきれず、鋭い先端が頬を裂く。男の頬には似合わぬ牡丹が咲く。されど朧は怖気づいた様子ひとつなく、肉を斬らせて懐に飛びこみ、敵を斬りふせていった。

 命を奪うことはせず、腕や足が動かないよう、的確に筋を斬る。凄まじい精度だ。

 最後列にいた刺客は刀を振らずに跳び退いた。皮足袋を履いたつま先が背後の岩を蹴り、その反動を利用して勢いよく斬り掛かってくる。振りおろされた刀撃を、刀で受けとめる。

 火花を散らして、互いに睨みあった。

 剣戟の間の、みじかな制止。刺客が低く喉を震わせた。


「貴様、只者ではないな」


 夜叉の如き戦いぶりに、敵が訝るのも当然と言えよう。


「同業か」

「とんでもないね。ただの町医者だよ」


 朧は唇の端を歪めて、笑った。


 言葉をかわしたのは一瞬。反撃の隙など与えず、朧が相手の腕を蹴りあげた。さすがにこれを避けることはできなかったのか、敵は得物を取り落としてよろめいた。続けて、握っていた刀の柄で肋骨に鋭い一撃を加える。

 されど朧に追撃を許しながらも、黒装束の手は不穏に動いていた。音もなく取り出された苦無クナイが黒装束の手中に収まり――。


「ぐっ……」


 気がついて、後ろにすさった朧の太股を貫く。

 膝をつくことさえしなかったものの、焼けるような痛みによろめいた。顔をあげ、敵を睨みつける朧の眸はぞっとするほど暗い。憤怒に燃える眼光に怯んだのか、黒装束の刺客は追撃に転じる機会を見誤った。


 朧が一息に肉薄にくはく。刀を放り投げ、腕を伸ばす。

 刀に気を取られ、刺客は逃げ遅れる。鷹の如き五指が喉に喰い込む。殺意しか感じさせない加減なしの握力が、相手の喉仏を握り潰す。ざりざりと、地から離れた黒装束のつま先が砂を掻いた。

 程なくして、抵抗はなくなった。相手が意識を失ったのを確認して、弛緩した身体を激流に投じる。

 津雲のほうに視線をむけた朧が眼を剥き、叫んだ。


「津雲ッ、弓兵だ!」


 葦にひそんでいた刺客が弓を振り絞り、津雲を狙っていた。

 津雲は追ってきた刺客を振りきり、坂を越えたところだった。雑木林のあいまで赤い袖がはためいている。あれでは恰好の的だ。


 放たれた矢のひとつが、津雲の肩に刺さる。

 ぐらりと重心が傾いだものの、津雲は倒れずに踏みとどまる。紅の羽織を脱ぎ捨て、かれは残りの矢を払い落とす。津雲は咳込み、よろめきながらも走り続けた。数人の刺客がかれの後を追い、後ろから斬り掛かる。

 避けられない攻撃ではなかった。

 だが津雲は咳がとまらず、動きが鈍っていた。振りおろされた刀が、津雲の背を走り抜ける。

 

 時が、急に緩やかになった。

 飛び散る血飛沫が、ほどけた数珠のように旋風のなかを転がる。喉に詰まった絶叫が背骨を震わせたのが、遠くからでも見て取れた。


 


 時が動きだす。

 朧は声にならない叫びをあげた。

 

「……朧さん……すみま、せん」


 蝋燭を吹き消すような声が、何故か朧には聴こえた。

 津雲が膝から崩れ、ぐらりと傾いで道の彼方に倒れていく。道を挿んで、あちらは草木の繁る崖だ。意識を失ったのか、津雲は無抵抗に崖の下まで転がり落ちていく。


「津雲!」


 朧がすぐさま津雲のところにむかおうとするが、残りの刺客に遮られる。

 津雲を斬った刺客はかれの死亡を確認するべく崖をおりようと試みたものの、ここからではさすがに難しいと判断したのか、迂回路を捜し、走り去っていった。


審神司さにわは死んだ」


 黒装束の男が静かに言った。


「次は貴様だ」


 呆然としていた朧の視線が、ゆらりと動く。

 異境の眸は暗澹とした殺意に満ちていた。世辞にも眼つきがいいとは言えない普段の眼差しでもまだ、穏やかなものなのだと感じるほどに、刺客の群を睨みつける眼光は鋭かった。憤怒などと表現するにはなまぬるい。凄まじい憎悪が、黒い焔になって開ききった瞳孔から立ちのぼっている。熱を帯びない、凍てつく焔だ。

 かれは敵を睨みつけながら、おもむろに地に刺さっていた刀を抜いた。

 喉から低い声が洩れる。


不容许許さない――」


 刺客たちがどよめいた。感情を殺す訓練を積んできたであろう隠密の者でさえも、恐怖に震えあがらせるほどの殺気だった。取りかえしのつかないことをしたのだと、刺客は本能で悟る。だが既に遅い。恐慌をきたした数人の刺客が、無謀にも朧に攻撃を仕掛ける。三方から襲いくる斬撃を、朧はたった一振りで弾きかえす。相手が衝撃によろめいた隙に、横薙ぎに斬りつけた。

 

 竜巻かと思った。あるいは嵐かと。


 朧が繰りだした斬撃により、黒装束の群が吹き飛んだ。

 木の幹に背を強かに打ちつけ、男が肺の萎む音を喉から洩らす。なにが起こったのか、理解できないうちに、ぼろりと黒頭巾の頭が転がった。椿の首でも落とすような易さで、ひとつは砂地を転がり、ひとつは葦の繁みに紛れ、ひとつは遠くまではね飛ばされ飛沫をあげてから川底に沈む。

 いまだ緑を残した紅葉が、錦秋を待たずして紅に染まった。


 血潮の旋風を帯びて、朧は残る刺客のもとに踏みだす。


从这里不宽恕もはや容赦はしない杀你殺す请在地狱后悔自己愚蠢己の愚かさを地獄で悔いればいい


 黒装束の集団からすれば、なんらかの呪詛としか聞き取れなかったに違いない。赤い舌を蠢かせて朧が並べたてたそれらは、かれの祖国の言語だった。しかしながら言語の意味するところは解せずとも、声に乗せられた殺意を察するのはたやすい。


 友を傷つけた罪は重い。死を持って償えと。

 かれの眼がどんな言葉よりも重く告げていた。


 風が逆巻く。土煙を蹴立て、朧は軽々と跳びあがった。

 夜叉か、鬼か。或いはもっとまがしい魍魎もうりょうをも彷彿とさせる酷薄こくはくな表情を張りつけて、かれは敵に斬り掛かった。敵は恐怖に縛られ、身動きひとつ取れない。戦場に慣れていないものならば、硬直するどころか、殺気にあてられて発狂していてもおかしくはなかった。


「――去死吧死ね


 後は鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうたる血の旋風つむじかぜだけが、吹き荒れた。

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