《本筋之肆》

其の壱 《言霊禍ふ》

 かき曇りあやめも知らぬ大空に蟻通しをば思ふべしやは

     紀貫之 集 巻九



 楓の葉が緑から黄に移ろいはじめる新秋。しばしば暑さの名残はあるものの、吹き渡る風はすっかりと秋のにおいを漂わせ、晩になると単衣ひとえで出掛けるには肌寒さを感じることが増えてきた。蝉の喧騒はすっかりと途絶え、いまは百舌鳥もずさえずりが盛りを迎えている。鱗雲の浮かぶ晴天の午後は日差しも暖かく、川の流れは穏やかだった。

 十六尺を超えたあしのはざま、紅に染められた羽織の袖がはためく。

 川の中程にある大岩に腰かけて、津雲と朧はのんびりと釣り糸を垂らしていた。巻き物の解読が残り僅かとなり、根を詰めていた朧が少々息抜きをしたいと津雲を釣りに誘ったのだ。昼前頃からずっとこうしているが、魚がかかる様子はない。だがそれも当然の事だ。どちらの竹竿にも針がつけられていないのだから。魚を釣ることが目的なのではなく、川面を眺めつつ背中あわせに語らうのがふたりの楽しみなのだ。傍らに置かれた水桶には酒のそそがれた徳利とつまみの胡瓜きゅうりが浮かんでいる。


「随分と噂になっているようだね」


 ひょいと肩を竦めて、朧が言った。


「何がですか?」

「怪異をたちどころに解決する拝み屋、ならぬ審神司さにわだとさ」


 どう思うね、と振り向きざまに朧が津雲に流し目を送る。鋭い眼縁に切り取られた視線は呆れとも非難とも取れた。どちらにしても、その根本にあるのは津雲の身を案じる気持ちに他ならない。


 ただの生業ならば、評判が広まるのはよいことだ。

 されど津雲にはただならぬ事情がある。歴史から抹消された言司ことつかさの転身が審神司さにわなのだ。言司ことつかさにまつわる記録はあらゆる書物から隠滅された。しかしながら朝廷がなんらかのかたちで記録を保管し、言司ことつかさの一族の復活を恐れている可能性も拭いきれない。

 だとすれば、津雲の所在が知れれば、厄介なことになりかねない。


「それほど表だって名乗りをあげた覚えはないんですがねェ」

「巧妙に隠してもいなかったんだろう。おなじことだよ」


 流れが岩にぶつかって跳ねた飛沫しぶきが、水の際まで垂れた枝葉を濡らす。津雲がひとつ、乾いた咳をする。まだ緑を残した楓の葉の先端から雫が垂れた。


「構いやしませんよ。どうせ巻き物の解読が終われば、江戸から立ち去ります。もう余り時間は残されていないようなので。それに江戸の空気はどうにも性に合いません」


 後ろ手にまわされた朧の指が一升徳利を手繰り寄せた。傾いた徳利の口から少量の酒が零れたが、気に止めない。水に浸けておいたので、酒は適度な冷たさを保っていた。徳利を傾けて、喉に流し込む。

 唇を乱暴に拭い、朧は背後の津雲へと徳利を手渡した。


「江戸の酒も性に合わないかい」

「いえ、あんたが選ぶ酒はどれもうまい。文句無しですよ」

 

 昼間から酒をあおるのはえもいわれぬ贅沢だ。充分に喉が潤うと、次は津雲が後ろ手に徳利をまわす。片方が一度満足すれば酒は再びもう片方の手に渡り、徳利が空になるまで行き来を繰りかえした。果たして幾度、徳利が互いの間を巡ったのだろうか。

 最期の一滴を飲み干した朧がぽつり、独り言じみた呟きを落とした。


「あの巻物を解読しても、君の寿命は延びないのだね」


 諦めが滲んだそれは、問い掛けにもならずに落ちて川面を乱す。

 津雲は黙って、微笑を浮かべていた。かれは呪いを解く為に手掛かりを欲しているわけではない。捜すつもりすらない。死にむかう後ろ姿にいっさいの悲哀はない。ただ、僅かな物寂しさのようなものだけが見え隠れしていた。朧はそれを見透かしている。友であるがゆえに。

 

「巻物を解読していて、気がついたことがあってね。ここでならば、川の音が喧しく、誰かにぬすみ聞かれる懸念もいらない。話していいか」

「無論です」


 津雲が真剣な表情になる。

 蜻蛉が竹竿の先端が止まった。追いはらずにいると、蜻蛉は薄い翅を寝かして落ち着く。


「巻物が先秦漢字で綴られていることは前にいった通りだよ。加えてこれが地図であることは、僕と君の総意だったね。その後、解読を進めていくにつれて、これが書かれた時代と用途が推定できた。

 これは君の先祖――言司ことつかさの一族が虐殺された当時のものだ」

 

 津雲の背が微かに震えたのを、朧は背中越しに感じ取った。


「この巻物を持ち、朝廷の征伐隊は言司ことつかさの隠れ里にむかったんだ。朝廷直々の密勅書。それがこの巻物だ」


 朧は断言する。

 津雲もまた「確かなんですか」とは尋ねず、確かな信頼をもって耳を傾けている。


「ただ、ひとつ、引っ掛かるところがあるんだ。この巻物が朝廷による密勅書ならば、先秦漢字で綴られているのはどうにも腑に落ちない。これは大陸の文字言語だ。こちらの朝廷がもちいるには相応しくない」

「外部の者に渡っても解読できぬよう、他国の言語をもちいたのでは?」

「だが密書である以前に勅書だ。勅書に他国の文字言語をもちいるだろうか。事実、倭にも数多の神代文字があるんだ。倭の権威を表すならば、阿比留草文字あひるくさもじ天名地鎮あないちや豊国文字を選ぶはずだ。いや、そもそも、この倭で漢字が普及し、誰も彼もがそれを当然の如く受けいれている段階で異様とも言える。なぜ、この倭に旧来からある文字言語ではなく、大陸から渡来した漢字を採択したのか。僕からすれば、遥々海を渡ってやってきた異境の地で、祖国とおなじ文字がつかわれているんだ。これに違和を感じないほうが愚鈍だよ」


 朧は唐人からびとだ。唐国からくにから渡来した者だからこその観点というものがある。


「なるほど、確かに。平仮名も所詮は、漢字を崩して創作されたものですからね。故意に旧来の言語を封じ、渡来した言語にすり替えたと考えることもできます。いつの時代かはわかりませんが……漢字が渡来したのは三韓征伐の後、応神天皇の治世でしたか」

「気が遠くなるね。その時代は丁度、僕の祖国の文献からも倭の記述が欠落している。実に不自然な一致だよ。もっとも、いまはそこまで遡るつもりはない」


 ぱしゃんと、なにかが跳ねた。ふたりはいったん、会話を取りやめ、振りかえる。大岩魚おおいわな飛沫しぶきを巻きあげて跳ね、紅葉の映るみなもを割って、悠々と泳いでいった。

 魚影を見送り、朧が話を戻す。


「大陸から渡来した民族が、倭朝廷に根差した。これは間違いない。知識か、技術か。そうしたものと引き換えに権力を得、政の中枢にまで介入したと考えられる。或いはもっと……ここからは、僕の勝手な推測だけれどね」


 声が一段と低くなる。背中あわせに耳を欹てればかろうじて聞き取れるくらいまで声を落として、朧は続けた。


「言霊を封じることによって、この島國しまぐにの根の部分を乗っ取ったんじゃないか?」


 津雲は驚いたのか、おおよそ想像がついていたのか。視線を彷徨わせるだけの数秒の沈黙を挿んで、慎重に言葉を落とす。


「それは……ずいぶんと、大掛かりな陰謀説ですね」

「長らく気に掛けてもいなかった一族の生き残りを、急に根絶やしにせよと勅令をくだしたのは何故か。ただの気紛れ、或いは朝廷がかかえていた呪司のろいつかさの衰退に不安を覚えたのだとも考えられるが、もしや朝廷に裏から進言するものがいたんじゃないか。

 蝦夷えみし熊襲くまそと蔑まれた《まつろわぬ民》は、そのほとんどが土着の民族だったそうじゃないか。古来からこのくにに暮らす一族の血脈を絶やすことが、蝦夷征討えみしせいとうの真の狙いだった。

 先秦漢字そのものもそうだがね、言語とは土着の民族より発祥し、残るものだ。言語を殺すならば、土着の民族ごと根絶やすのがいい。まして、筆言霊ふでことだまなど神にも等しい能力ならばなおさらだ。言霊幸ふくにから言霊を絶やすにあたって、決して残っていてはならない血脈だよ。故に僅かに生き残っていた隠れ里のものまで皆殺しにした。

 そう考えれば、辻褄が合わないか」


 津雲はしばらく沈黙し、考えをまとめてから喋る。

 

「ふむ、確かに有り得ない話ではありませんね。だとすれば、後世には神代文字の実存そのものが隠滅されることも考えられます。もとよりまつろわぬ民の遺物だ。破壊することはさほど難しくはない。破壊し損ねた遺物が発見されても、偽物ぎぶつだと言い張れば、失われた言語の実存性を論ずることはできない」

「そうして、漢字伝来まで、この地には文字言語などなかったことにすれば」

「誰も疑うものはいませんね」


 津雲の言葉に頷いてから、朧は改まる。


「もちろん、これらはあくまでも僕の考察にすぎない。しかしながら、これが真実だとすれば、君はどうするんだね」


 真実を確かめ、言霊幸ふくにを奪還し、先祖の復讐を遂げるのか。

 暗に、そう尋ねる。一族の最後の生き残りである津雲には、報復する権利が、ある。復讐を選んだとて、無謀だと苦言を呈しはすれども止めるつもりはない。ただ純粋に、津雲の真意を理解しておきたかった。


「あたしですか」


 津雲が重い息をついた。

 それきり、時がとまったような、静寂が落ちる。緊張と、言葉にして尋ねるべきではなかったという後悔が、朧の脈を速めた。呼吸すらとめて、津雲が繰りだす言葉を待った。

 ふっ。と息を洩らして、津雲が唇の端を緩める。


「あたしには、係わりのないことですよ」


 彼は普段の調子で笑った。

 骨張った肩を竦めて、なんでもないことのように。


 かれはやはり、かれの先祖とおなじ選択をするのだと。


 朧は張り詰めていた緊張を解いて、どこか傷ましげに目の端を垂らした。

 それもそうか。輪廻転生というものがあるのだとすれば、惨劇のなかで筆を敵の血に穢すことなく息絶えることを選んだ《かれ》も、いまのかれとひとつ繋がりの《かれそのもの》である。

 

「それにしてもだ、何故このようなものが残っていたんだろうね」


 気を取りなおして、朧がもとの話を続けた。


「まっさきに焼却されるべき書だよ、これは。呪司のろいつかさにも生き残りがいて、呵責にたえかねて隠し持っていたか。或いは言司ことつかさ一族の復活を恐れる朝廷が記録を保管していたのか。巻物の裏にはとくという印章いんしょうしてあったが。

 どちらにしても、だ。君がどうやってこれを持ちだしたのかなどは知らないが、捕まったら百遍殺されてもおかしくはないね。京の都から江戸の町に渡ってくるのに、中山道でも東海道でもなく甲州街道を経由してきた段階で、何者かの追跡を振りきってきたのだと察してはいたがね。ああ、ずいぶんと物騒な物の解読を頼んでくれたものだよ」

「ええ、貴方にも危険が及ぶことは承知していました」


 津雲が静かに頷く。


「ですが、他にいなかった」


 朧が微かに息を呑んだ。

 なにかを言い掛けたが、歯擦音のようなものが洩れただけで言葉にはならない。竹竿の先端にいた蜻蛉がゆくえもなく飛んでいった。幾度かの逡巡を挿んでから、朧はふうと息を吐いた。


「…………そうか」


 僅かに目許を歪める。


「僕は、君との約束を護ったね。変わらずここにいて、変わらず軽口を叩いているよ」

「ええ、貴方は約束を護ってくれました」


 時にあらがうのは容易いことではない。激流にもまれても、滝から流れ落ちぬ木の葉のようなものだ。三年経ってもそこにあり続ける木の葉など、果たしてあるだろうか。ない。あるはずがない。

 あったとしても、それは奇跡のようなものだ。


「ならば――」


 ためらいがちに朧が言い掛けたのが早いか。


 ざっと、葦のしげみが割れた。旋風ではない。不穏なものを感じ取ったのか、魚影が逃げまどう。

 葦をなぎ払い、黒装束の集団が現れた。

 見まわすかぎりでも十人はいる。鼻から顎まで黒い布を巻きつけ、頭巾を被っている。まるで影法師だ。いっさいの感情を殺した、濁った眼球だけが覗いていた。通りすがりの旅人などではないことは明らかである。

 黒装束のひとりが口を開いた。


審神司さにわ――改め、言司ことつかさの一族と御見受け致す」


 津雲はすっと眸を細める。

 既に立ちあがって身構えている朧とは違い、津雲はまったく動じない。竹竿の糸を垂らしたままで、ただ静かに黒装束を睨みつける。一考の後に津雲が何事かを答えようとしたのを遮り、朧がかわりに吐き捨てた。


「ひとに素性を尋ねるときにはまず、自身から名乗るのが礼儀じゃあないのかな? すくなくとも、僕の祖国ではそう教わっていたよ」


 怒涛のように殺気が押し寄せ、また退いていった。


「失儀を詫びよう」

かれど、我らに称は無し」

「こころならずも《影》と名乗りず」


 複数人の男が言葉を継ぎ合わせて、語る。

 喋りかたひとつ取っても個性はない。声質には些少の際があれど、全員が男なので、個人を識別できるようなものではなかった。その無個性さは異様だ。言葉を重ねれば重ねるだけ不気味さが増す。それは彼らが全員あわせて、ひとつの影であることを暗に語っていた。


 ざわりと、影が動く。

 

「御命、頂戴致す」

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