与太噺 《情念のなかった侍の噺》

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 こんなはずじゃねぇんだ。

 ぜんぶ、うまくいっていたはずなんだ。


 お鞘を抱き締めて部屋の角に蹲り、がたがたと震えるお峰に迫りながら、俺は懸命に頭のなかで叫び続ける。お峰が息も絶え絶えになにを叫んでいるが、俺にはなにを言っているのか、まったく聞き取れない。鼓膜を震わせるのは「殺せ」「飢えた」「渇いた」「殺せ」「殺せ」という刀の声だけ。耳が裂けそうだ。いや、これは真に刀の声なのか。しゃがれて、干乾びた声。頭が割れそうだ。


 旅人を殺せずに逃がしちまってから、幾ら斬っても渇きがおさまらなかった。殺しても殺してもきりがない。これでは刀が造れない。塊鉄の段階を扱えるのは俺だけだ。凄まじい斬れ味だと他の者に試し斬りをさせたことがあるが、斬れるどころか、かんたんに折れてしまった。血を吸わせないかぎり、俺には鍛刀ができない。これじゃ食いっぱぐれちまう。

 呪物屋さんともあれきり逢えず、焦燥ばかりが募っていた。

 

 そうして草木も眠る丑三つ時。

 はたと気づけば、俺は刀を抜いて、お峰に襲い掛かっていた。

 

 腹を斬られたお峰は、それでも隣に眠っていた娘を護ろうとした。お峰は血塗れで、俺も返り血を浴びて真っ赤で、お鞘はなにが起こっているのかわからずに泣きわめいていて。抱きあげてなだめてやりたいのに、喉を裂いて黙らせたい。助けないと、最愛の妻が死んでしまうと思うのに、はらわたを引きずりだして殺したい。相反する衝動が俺のなかで渦を巻く。どうしようもなく渇く。ああ、違う、渇いているのは俺じゃない。ああ、でも渇いてしかたがない。血が。血が。殺さないと。この激情は誰のもので、俺は誰で。


「ああああああああぁぁあああぁぁあああぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁッ」


 重なった母娘の身体を、頭から腰までふたつに裂いた。

 断末魔もなく、ずるりと、ずれて崩れる。最愛の妻と娘と。


 吼えた。気が振れるほどの絶望と恐怖に絶叫する。

 そうしているあいだにも刀はぼこぼこと脈打って、流れる鮮血を啜りあげる。とっさに刀を棄てようとしたが、血管のような鉄の管が腕に巻きつき、刺さり、取れなかった。それでも叫びながら半狂乱で腕を振り続けていると、喉からごぽりと血が溢れた。叫びすぎて喉がやられたのかと思ったが、違った。

 無意識に、俺はみずからの喉に刀を突き刺していた。


「ぐっ、はっ」


 赤い濁流のなかに倒れる。呼吸ができない。妻と娘の血に塗れて足掻き続けた。くるしい。くるしいよぉ。けど、妻と娘の恐怖と苦痛は如何ほどだっただろうか。ごめんなと言いたくても声がでねぇ。抱き締めようとしても、腕は鉄の塊みたいになって動かなかった。


 幸せに、してやりたかったのに。

 楽をして、とか。手っ取り早く、とか。そういう欲も、あったけれど。俺みたいな下級武士のところに嫁いできたおまえに、貧しい武家に産まれちまったおまえに、楽をさせてやりたかった。それだけは、ほんとだった。ほんとだったのに。


 最後に、暗くなる視界にごろりと割り込んできたのは。

 干乾びた首ひとつ。

 

 護り神は、あんぐりと顎をあけて、笑っていた。

 それをみて、気がついた。刀鍛冶に恩恵をもたらしてくれるこの神さんは、刀を好いているものとばかり思っていたが、真は、刀に係わるすべてを憎んでいたのだ。まして刀鍛冶などは、縊り殺したいほどに怨んでいたのだ、と。

 それならば、血を、欲しがっていたのは。

 渇いて、乾いて、いた、のは。


「あァ、呆気ないなァ。愛する家族の為やのに。情念を燃やす気概もあらへん癖に、半端に情やら欲やらを抱えてるから、こないなことになるんやで」


 やっと静かになった白紙の鼓膜に墨を落とすように、耳馴染んだ声が響いた。だが普段とは違って、声に抑揚はない。たんたんと、静かに囁かれる。視界には罅割れた肌の、神の首だけがあって。


「せやけど、まァ、それが大抵のひと、ゆうもんやねェ」


 ほんなら、おやすみ――視界に緞帳が落ちる。目蓋をおろされたのだ。なにかを言いかけたが、声は裂けた喉を震わせることなく、懸命に差しだす手もまた妻の体温も娘の呼吸もつかむことができずに項垂れる。


 あ、けど、これで楽になれる。


 それが、最後の意識で。


 蝋燭を吹き消すようにすべてが、絶えた。

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