其の伍 《劔》

 晴天。江戸の町は相も変わらず賑やかだ。

 酒屋が軒を連ねる通りには真昼から酔っぱらった若衆が屯しており、白昼堂々喧嘩が勃発していた。見物人がそれを囃したて、ずいぶんなとんちき騒ぎになっている。遠巻きに眺めながら、いやあねと噂をするのが女衆だ。

 火事と喧嘩は江戸の華とはよくいったものだ。

 前に焼け落ちた町はずれの橋は、すでに改修が始まっている。幸い、橋の半分が無事だったので、短期間で元通りになるだろうということだった。


「橋と言えば、巷を騒がせていた辻斬りがめっきり姿をみせなくなったらしいねぇ。お奉行さまがとっ捕まえてくれたのかねえ」


 女衆のひとりが辻斬りの話題に触れると、他の女が「ああ、そのことだったら」と声をあげた。


「御徒町のお侍さんが刺し違えて成敗したって噂だよ。ほら、あの刀鍛冶の。なんでも辻斬りを追い詰めたら、恨まれて屋敷までついてこられちまったとか。それで奥さんと娘さんを殺されて、お侍さんも斬られたが、最期に渾身のちからを振り絞って辻斬りにも深手を負わせたとか」

「辻斬りの消息は知れず……かあ、だったらまだどっかに潜伏しているかもしれないじゃないかい」

「おおこわい」

「まあ、日が暮れたら町を歩きまわらないことだね」


 女衆の横を通り掛かった派手な羽織が、はたと振りかえる。

 津雲は真新しい紅の羽織をなびかせ、片手に瓢箪を提げていた。辻斬りの顛末は気懸りだったのだが、これ以上は係わらないと決めたかぎりは、事の終始を探ることもしていなかった。だが女衆の噂話から、最悪の結果に終わったのだと察して、かれは重いため息をついた。

 

「ですから、呪物に喰われぬように……と警告したのに」


 叢雨はけっきょく、あの呪物を遣い続けたのだろう。津雲を殺せなかったという飢渇を満たすには、よほどの犠牲を捧げなければならなかったはずだ。辻斬りだけではとうてい満たせない。飢えて渇いた刀が叢雨の意に反して暴れだすであろうことは、想像に難くなかった。

 他人などどうなっても構わないと、叢雨は本音を吐露した。それは誰もがそうではないのかと。実に、その通りだ。非常に利己的ではあるが、綺麗事をすべて排した後に残る現実でもある。誰しも家族の死は悼んでも、逢ったこともない他人の死などたいしたことではない。極端に言えば、殺されようが、不幸になろうが、預かり知らぬことなのだ。

 そうしてそれは、あの根子の首にとっても同様だ。

 叢雨は護り神と言っていたが、あれは神でもなければ物でもない。他ならぬ、人の、なれのはてだ。どれくらいの時を遡るかはわからないが、かつては我らと変わらぬように生き、あたりまえの暮らしを営んでいた。飯を食らい、仕事に精をだし、家族もいたであろう。だが製鉄の神の生贄として選ばれ、無残に殺され、死後も縛られ続けた。

 故に呪物まがものは、生魑なのだ。

 あの干乾びた頭蓋のなかには、いまだ生きた情念が残っている――。

 叢雨の言葉は、最悪のかたちでみずからに還ってきた、というわけだ。

 

 津雲は歩きながら瓢箪にそそがれた酒で喉を潤し、やるせないきもちを飲みくだす。堀に架けられた小橋に差し掛かったところで背後から声を掛けられた。


「おやまあ、また逢いましたねェ」


 振りかえると、白髪頭の呪物屋まがものやがたたずんでいた。

 予想に反して、呪物屋は若かった。あの晩はそれどころではなく、津雲もさして呪物屋のことを気にとめていなかったが、あらためて見れば異様な風体だった。白い肌に白い髪、黒い喪服、唇には乗せられた紅だけが際立っている。双眸は細くつりあがり、見えているのかいないのか。

 呪物屋はひらりと丈の長い袖を振り、津雲を側にまねいた。さほど背の低い男でもないのに、喪服の袖からは指の先端がちょいと覗いているだけで、腕をさげるとそれすら見て取れなくなる。

 津雲は一瞬どうするべきか思案したが、おそらくは害を加えられることはないだろうと呪物屋の側に近寄った。


「貴方が、あのようにやっかいな物を叢雨殿に貸したのですか」

「それがぼくの生業なんですわ。あんたさんかて、ずいぶんと変わった生業をなさってるみたいやないですか」


 呪物屋が親しげに笑い掛けてきた。真意が読めず、津雲は目をすがめる。


「おお、こわいこわい。そないなめぇをせんといてください。ぼくはただ助けをもとめている御仁おひとにその欲を満たしてくれるもんを貸しだしてるだけ。身の丈にあわへんもんを欲しがったのは相手さん。代償を飲んだんも相手さんや。ぼくはきっちり、代償についてもお話しして貸してるさかいに。

 ええ刀を造るには人を仰山ぎょうさん殺さなあかんことをゆうても、あのお侍さんは楽して刀を打てるほうを選んだんや。ぼくが騙したわけやない。それはあんたさんかて、よゥわかってはるやろ」


 確かに、偽りはない。かれはあらかじめ、客側に選択権を委ねていた。人を殺めてでも富を得るか、地道に修行を積むか。そうして前者を選んだのは紛れもなく、叢雨だ。呪物屋を責めることはできない。だがあのようなものを扱っている段階で、津雲からすれば嫌悪感があった。《生魑》を物と扱い、貸しだすなど、まっとうな者の所業ではない。


「あれだけの呪物を抱えていて、貴方はよく気が触れませんね。いえ、すでに触れているんでしょうか」


 唇のを持ちあげ、津雲がめずらしく毒づく。

 呪物屋はからからと笑い、それを受け流す。


「昔から呪いやら祟りやら、そうゆう類のもんに脅かされたことがないんですわ。頓着するもんがないからやろね。せやからよけいに魅かれる、いいますか。人が欲やら情やらで転がり落ちていくんが、実に滑稽で……愛おしいんですわ」


「悪趣味なことだ」


 津雲が吐き棄てる。

 津雲は他人の不幸をいっさい関知しない。同情もせず、まして私情を寄せることはなかった。事の経緯を静観するのみだ。

 だが娯楽とすることもない。

 故に、この呪物屋のように他人の不幸を見物し、享楽する精神は理解し難かった。


「えらい嫌われてしもうて、悲しいことやわァ。ぼくは、あんたさんのことを結構気にいったゆうのに」


 津雲が怪訝に思って、眉を顰める。

 呪物屋は津雲を凝視し、紅の乗った唇に笑みをたたえる。


「あんたさんはあのお侍さんを助けへんかったやないですか」


 ざあああと一陣の風が吹き渡り、細波が堀のみなもを走り抜けた。柳の枝が触れあい、潮騒のように騒ぐ。雑踏の音が急激に遠のいた。晴れた空に土埃が巻きあがる。

 津雲は肯定も否定もせず、黙って相手を見かえす。


「あんたさんやったら、どんな結末になるかはわかってたやろに。あのひとがあれを手放して、いちから刀鍛冶の修行を始めるなんて、ほんまに信じてたわけやないんやろ」

「それが、かれの選択です」


 いかに惨かろうと、いかに悲しかろうと。


「あたしは誰も救いやしませんよ」

 

 他人の業など、救えるものではないのだ。


 町の喧騒が戻ってくる。喧嘩はいまだに勝敗が決まらぬままに続いており、女衆は際限なく噂話に花を咲かせている。侍鍛冶の一家がいかに悲惨な最後を迎えても、町は変わらず廻り続ける。他人の死など頓着せず、騒然と賑やかに。


「やっぱ、ぼくはあんたさんのこと、結構気に入ったみたいやわ」


 呪物屋は真意のわからない微笑をたたえる。

 たいする津雲は、じっと呪物屋を睨みつける。かれは理をゆがめているわけではない。されどあるべきではない選択肢を差しだして、道を誤るように、唆している。その段階で津雲とは相容れぬ。もはや係わりたくないとばかりに、津雲は羽織のすそをひるがして呪物屋に背をむけた。


「せや、最後にひとつ。お伝えせんとあかんことがあったんですわ」


 足早に立ち去ろうとする羽織の背に、呪物屋は不穏な言葉を投げつけてきた。


「都のお偉いさんが、あんたさんのこと捜してましたよ。ぼくは知らんゆうときましたけど。あんたさんは目立つ御仁おひとやから、すぐにばれてまうんやないですか」


 津雲が狼狽えて、振りかえった。だが丁度人の群が橋に流れ込んできたところで、呪物屋の姿は雑踏に紛れ、すぐに見えなくなってしまった。立ちどまっているわけもいかず、津雲は背を押されるように橋を渡る。渡り終えてから再度振りかえったが、すでに橋に喪服の影はなかった。

 

「……」


 津雲がなにごとかを思案するようにうつむいた。


 晩夏の強い風が、柳を傾がせる。青い葉が縺れあい、細い影がみなもに散った。風は早くも秋のにおいをはらんでいる。この様子では青紅葉が赤く染まるのもそう遠くはない。

 胸に不穏な陰りを残して、夏が、去ろうとしていた。 

 

 

 

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