其の肆 《断》

 宵も深まる辰の下刻。

 雨は降りやんだが、雲は相変わらず屋根に覆い被さるように垂れこめていた。雨粒の群が瓦を打つ喧騒もすっかりと途絶え、いまは重い沈黙ばかりが渦を巻いている。

 この屋敷には客室というものがないらしく、居間の端にふとんを用意され、客である津雲はそれを借りて眠っていた。みなが寝静まるのを待って、津雲はのっそりと起きあがる。足音を偲ばせて、板張りの廊下を進み、玄関から下駄を履いて鍛冶場にむかった。

 戸に耳をつけ、鍛冶場に誰もいないことを確めてから、津雲はゆっくりと戸を滑らせ、するりとなかに消えていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 鍛冶場から母屋に戻り、玄関から東側の廊下を進もうとしたところで、はたと津雲が立ちどまった。音もなく板を蹴っていた足指の先端が、ぴくりと止まる。廊下の西側から声が聴こえてきたのだ。津雲は壁に背をつけて、横歩きで曲がり角の際までにじり寄る。


「…………ほんで、ぼくにどうにかしてくれと」

「なんとかなりませんか。ほんとはここに連れてくるまでに殺すつもりだったんですが、どうにも隙がねぇもんで。そうこうしているうちに屋敷にまであげちまって」


 ひとりは明らかに叢雨の声だった。語尾の震えから、怯えていることがわかる。

 もうひとりは関西訛のある、津雲には聞き覚えのない男の声だった。上擦ったような、粘つくような、癖の強い声質だ。

 津雲の処遇を巡る不穏な会話の端を捕まえて、津雲がやはりかと目を細める。


「あれは、あきませんねェ」

「そんな……へへ、冗談がきついですよ、呪物屋まがものやさん」


 叢雨がすり寄ったのか、袖の擦れる音が洩れた。

 壁際から覗きこめば、廊下の左側にはぴたりと襖の閉められた座敷があり、右側が縁側になっていた。廊下と庭を繋ぐ障子戸は開けっ放しになっていて、叢雨と呪物屋は縁側に腰かけて話しこんでいる。

 ふたりともこちらに背をむける姿勢になっており、津雲には気がつかない。


「残念やけど、世のなかには決して手ェを出したあかんもんがあるんですわ。呪物まがものにもそうゆうもんはある。ぼくみたいな難儀な商いをやってて、長生きできるかどうかは、ぜェんぶ物の見極めに懸かってるんですわ。ほんで、あんたさんには、それができかったゆうわけですねェ。わかりますやろ」


「け、けれど、いったん逃がしちまうと、刀がいうことを利かんのです。渇いて渇いて……なんとか、お知恵を貸してはいただけませんかぃ」


 叢雨が縋りつく。


「情けないやっちゃねェ。楽して刀を打ちたいの後は、楽して人を殺したいやて……呆れてまうわァ」


 たいする関西訛の商人――呪物屋といわれた男はひょいと肩を竦めた。白髪頭に喪服を着た、奇妙な風体だ。津雲のいるところからでは顔貌は窺えない。老いているのかとも思われたが、声はずいぶんと若かった。

 かれに頼めばなんとかなるだろうと踏んでいたのか、叢雨の声がいよいよ焦燥を帯びる。


「呪物屋さんは、あの護り神のような、便利な物をたくさん持っておられるのでしょう!? どうか助けてください」


 頃合いだ――津雲が廊下の曲がり角から踏みだした。

 叢雨が驚いて振りかえる。呪物屋もまた、津雲のほうに視線をむけた。呪物屋は薄々と気がついていたのか、細い眉の端を軽く持ちあげただけだった。

 津雲は叢雨がなにかをいうのを待たずに、提げていたものを差しだす。


「護り神というのはのことでしょうか」


 は、なんとも異様なふんいきを漂わせていた。


 ふるびた麻布を幾重にも巻きつけ、厳重に紐で括られたは、いびつなまるみを帯びていた。布のあまった部分がだらりと垂れさがったそのかたちは、《てり雛》《てり法師》といわれる晴れ祈願の人形ひとがたを想像させた。布の表にはなにやら呪詛のようなものが綴られている。


 叢雨が目を剥いて、叫んだ。


「かえせッ!」


 跳ねるように立ちあがり、叢雨は腰に帯びていた刀を抜く。

 抜き放たれたのは、脈打つ鉄の塊だった。

 研磨などもっての他、鍛造もほとんどされていないような無骨なそれは、どくりどくりと脈動しながら獲物を喰らう好機を待ちわびている。血を浴びる、その時を渇望している。


 津雲は表情ひとつ変えず。 


「ええ、構いませんよ」


 あろうことか、を無造作に放り投げた。

 まさか投げて寄越されるなど予想だにしていなかった叢雨はあ然となる。


 ごとん……と重い音をともなっては縁側に落ちて、板張りの床を転げまわる。朽ちかけていた紐がちぎれ、ごろりごろりと転がるごとに汚れた布が解けていった。呪詛の書かれた布によって封じられていたものが、何十年、或いは何百年もの時を経て、人の眼に曝される。


 は、干乾びた首だった。


「ひっ」


 叢雨が悲鳴をあげて、のけぞった。


「なな、なんで、こんなものが」


 縮んで皺々になった皮膚。剥きだしの前歯は黄ばんで、欠け、崩れ、がたがたになっている。頭部には僅かばかりの毛髪が残っていた。鼻は朽ちてごぽりと窪み、眼窩からもあるべきものが欠損している。ただ黒い深淵だけが、その孔からは覗いていた。


「ご存知なかったのですか。これは、俗に根子ねこの首と言われる物です」

「ね、こ……けど、こりゃ、あきらかに人の」

「ええ、猫ではなく、根子。鉱脈の採掘と製鉄に優れた古民族の通称です。製鉄の神は穢れを好みますからね。昔はこうして生贄の首を乾かしてから、蹈鞴たたら場の柱から提げて奉りあげたのですよ。そうすれば、よい鉄が取れ、鍛造もうまくいった」


 津雲は干乾びた根子の首を見おろして、かぶりを横に振るった。


「ですが、所詮は人道から外れた呪物だ。当然ながら、祟る。或いは恩恵を授けるかわりに、さらなる犠牲を欲するのです。それはあなたも承知のとおりですよねェ?」


「それ、は」


 叢雨の言葉が濁る。

 落ち着かない視線が、縁側の板をなぞるように漂った。それは後ろめたさの表れだ。護り神の中身には驚愕していたが、恩恵のかわりに犠牲を欲するという津雲の言葉には、かれはいっさい動じていない。


「なるほど。それでは辻斬りも無意識ではなかったのですね」


 他人を贄にせねばならぬと承知して、呪物を奉っていたわけだ。なにも知らずに他人の生魑に操られているのであれば、説得のしようもあった。だが欲に目が眩んで、このような禁じられた物に頼ったのであれば。


「通報、する、おつもりですかぃ」


 津雲は唇の端を引き結んで数秒沈黙し、再度首を振る。


「いえ、は質が悪い。あたしは、係わるのはやめておきましょう。あなたが騙されて、或いはに操られて、毎晩辻斬りをさせられているのであれば手助けもできますが、紛れもないあなたがそれを選んだのならば、あたしから言えることはありません」


 津雲はそれだけいって、きびすをかえそうとする。

 ぎりりと歯をかみ締めて、叢雨が津雲に斬り掛かった。津雲はそれを見越していたのか、いつの間にか握っていた筆を走らせ、攻撃を払いのける。流れる墨が鉄を斥け、叢雨は勢いあまって蹈鞴を踏む。

 だが踏ん張り、転ばずに体勢を持ちなおした。

 

「これだけのことを知られて、帰すわけにはいかないんでさ。家族の為にも」


 叢雨が再度鉄の塊を振るってきた。

 津雲は裸足で縁側から跳びおりる。下駄脱ぎに刀があたり、爆ぜるように石が砕けた。叢雨の刀剣は相変わらず凄まじい斬れ味だったが、いかに斬れる刀であれど、当たらなければどうということはない。ひらりひらりと袖を揺らして、津雲が攻撃をかわす。筆を振るうまでもなかった。

 叢雨の太刀筋は荒い。碌に修行を積んでいなかったのだろう。刀に振りまわされているだけで、まるで素人の動きだ。回避するのもたやすい。

 分が悪いことは気づいているのだろう。叢雨が鼻に皺を寄せる。


「どうか斬られてはくれやせんかぃ」


 懇願するように叢雨が言った。


「いいでしょうと、頷くものがいますか?」


 津雲が言えば、叢雨が頬をゆがめた。毛深い眉が目の縁まで垂れる。めくりあがった唇からくつくつと息が洩れる。鼠のような前歯を剥きだして、かれは笑っていた。


「そうですねぃ。そんなもんはいやしません。一撃で殺せた者以外はみな、事切れるまで逃げ惑っていました。助けてくれ、死にたくはないと。血がどばどば流れているのに、最後まで這いずって」


 だが、かれは、単に他人の死にざまを喜んでいるわけではない。

 極度の緊張と興奮と恐怖がないまぜになって、表情がゆがんでいるのだ。故に叢雨は笑いながら涙を滲ませ、嗚咽を零していた。かれは狂人ではない。ただの小心者にすぎなかった。それが救いになることはないけれども。


「貴方はなぜ、辻斬りなどを」


 津雲は尋ねずにはいられなかった。


「売れる刀を造る為でさぁ。実のことを言えば、俺は碌に鍛冶の修行もしてなかったんだ。まさか親父が急死するなんて。気づいたらなんも教わってねぇで、がく然としたんでさ。俺ひとりだったらまだよかった。けど、妻と娘がいるじゃないですか。俺が養ってやらねぇといけないじゃないですか。

 打っても、打っても、できあがる刀は屑ばっかりで……そんな時に呪物屋さんと出逢ったんでさ。すぐにでも、名刀を造れるようになると」


 そんなうまい話があるわけがないと津雲は言いかけたが、敢えて黙った。かれは、それをうまい話だと思った。いまも思っているに違いない。幾人幾人も斬り殺しながら。


「そうしてあの護り神を借りました。すると、刀の声が聴こえるようになったんでさぁ。刀の、肉に飢え、血に渇く声が……! 鍛造する前に血を吸わせてほしい。そうすりゃ、立派な刀に打ちあがると。ですが鍛造していない刀剣なんて鉄の塊でさ、どうすりゃ血を吸わせられるのかとなやんでいたら……あろうことか、塊鉄の段階でも俺が振るえば恐ろしく斬れやがる。たっぷりと血を吸わせた刀は、そりゃあ見事に打ちあがりました。修行なんて碌に積んでねぇもんで、かたちは不格好ですがねぃ。けど、まあ、いまみたいな平穏な時代に刀を欲する御仁つーうのは、かたちなんかどうでもいいんでさ。――ただ、殺せればいいんでい」


「貴方はそれでよいのですか」


 他人を殺し、更に他者の手に渡った先でも、殺戮のかぎりを尽くす。そのような血塗られた武器を造りあげることになんのためらいもないのか。


「他人がいくら殺されたって構いはしやせんよ。そんなことにいちいち頓着していたら、身が持たねぇ。誰だってそうじゃないですかぃ」


 叢雨は平然と言ってのけた。

 かれが震え、涙を流すのはただ、かれの恐れからなのだと、津雲は悟った。


「それにね、旅の御仁。どんな綺麗事をいったって、刀なんて所詮は人殺しの道具じゃあないですかぃ」

「それは違いないですね。あたしも綺麗事をいうつもりはありませんよ」

「そりゃあ、助かりまさ。綺麗事でままは食えませんからねぇ」


 叢雨が鉄の塊を構えなおす。


「悪りぃが、あんたには死んでもらわないと。そうじゃないと、刀の渇きが収まらないんでさ。怨まないでくださいねぇ――!」


 勢いよく、叢雨が斬り掛かってきた。津雲はすかさず、松の木の裏に逃げる。渇いた刀は松の木を真横に両断し、津雲を強襲する。そうなるだろうと予測していた津雲は慌てずに、両断された松の木のあいまに踏み込んだ。相手がいったん横に薙いだ刀の軌跡を無理矢理にねじり、津雲を斬る寸前。


「――おう


 津雲は漢字の最後のはらいを書き終えた。


 不可視の文字は、腰を落として斬りつけていた叢雨の額に張りついた。

 叢雨はがっくりと崩れ落ちる。雨の名残で泥濘む地に膝をついて、続けてごろりと横倒しになった。跳ねた泥水がまともに鼻か喉に入ったのか、激しく堰きこんだが、かれには顎を閉じることすらできない。泥に溺れそうになりながら懸命に呼吸をする様は、血海の地獄にずぶずぶと沈んでいくようでもあった。

 身動きひとつ取れず、いったいなにをしたのかと目線だけで津雲に縋りつく叢雨に、津雲は「明朝には解けます」と言った。

 あたりを見まわすが、呪物屋はとうに姿を晦ましていた。戦いに巻き込まれたら面倒だと退却したのだろう。要領のいい男だ。

 津雲はひょいと縁側にあがる。預けていた着物と羽織は玄関にあったはずだ。泥によごれた足で廊下を歩きまわるのは気がひけるが、それくらいは掃除をしてもらえば済むことだ。

 

 津雲は泥に沈む叢雨を振りかえり、最後にこう言い残す。


「あたしを殺せなかった段階で、もはや貴方に鍛刀はできません。その根子の首を呪物屋に返却し、刀鍛冶を辞めるか。まっとうに修行を積んで刀匠の道を歩みなおすか。潔く、どちらかを選ぶことです。

 さもなければ、貴方は、決して犠牲にしてはならないものを贄とせねばならなくなるでしょう」


 程よく静かに。

 憐れみさえ漂わせず、津雲は言った。


「くれぐれもその呪物に喰われることのないように」


 ぱたぱたと、暗い廊下の奥から誰かが走ってきた。騒ぎを聞きつけたお峰とお鞘に違いない。津雲は二度と振りかえらず、ひっそりと廊下の闇に紛れた。後から、屋敷中に反響するようなふたりの悲鳴が津雲の背を追い掛けてきたが、構わずに着物を着換え、屋敷を後にする。

 

 またも雨が降り始めたところだった。

 雷鳴はまだ遠く、されどじきに稲光と轟音の間隔が狭まってくるのだろうと思われた。一筋二筋と垂れるだけだった雨も瞬くうちに群だって、滝の真下を通っているかのような有様だ。夜の雨垂れは鋭く、針のように地に突き刺さり、泥を飛散させる。まだ乾いてもいなかった着物がさらに重くなることにため息をつきながら、津雲は傘も差さずにあかりのない林道を帰っていく。纏わりつくような泥の感触だけが確かで、どこまでも不快だった。 

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