其の参 《刀》

 ぽつりと。

 蜘蛛の糸を切るがごとく雨垂が落ちてきたのをかわきりに、盥をかえしたような雨が降りはじめた。激しい稲妻が曇天を裂いて、間を置かずに祭の太鼓を思わせる雷鳴が轟く。雨滴が馬の蹄や草履に踏みかためられた地を叩くごとに泥が弾け、道の端に繁った草を汚す。

 ここは町のはずれ。この道をあとしばらく進めば、大川にぶつかる。道の北側は林に覆われ、南側は田圃たんぼだった。夏の猛暑を乗り越えた稲は順調に膨らみはじめているが、まだ穂は青い。実りの秋までは後ひと月ほどか。どちらもいまは雨にけぶり、風景そのものがぼんやりと蔭っている。

 あたりの茶屋は縁台を片づけて店仕舞いをしたところで、道ゆくのは派手な羽織を濡らして走る下駄ひとつ。茶屋の軒に逃げこんだものの、屋敷や旅籠とは違って軒が浅く横殴りの雨を避けるには心許なかった。


「こまりましたね……はて、どうしましょうか」


 昼間は晴れていたのもあり、荷物になる番傘は持って出掛けなかったのだ。

 季節も季節だ。急に降ることもあるとわかってはいたのだが、毎度うまく雨をすり抜けてきたので、まさかこれほど激しい雷雨に見舞われるとは。

 雲の切れ間がないかと空をふり仰いでいると、声を掛けられた。


「そこのお方、ずぶ濡れじゃあないですかぃ」


 振りかえれば、紺の着物に袴を履いた男がたたずんでいた。前歯の飛びだした色黒の顔は美男子とは程遠いが、どことなく愛嬌がある。齢は、わかりにくいが、三十手前か、すぎた頃だろうか。

 ひょいと片手を挙げ、人の好さげな笑顔で近寄ってきた。


「あァ、急に降られちまいまして」

「あちゃあ、そりゃ運がねぇこった」


 男は肩を落として、わが身のことのように嘆いた。


「もしや、旅の御仁ごじんですかぃ?」

「ええ、まァそんなところです」

「へえ、せっかく江戸の町までこられたのに、こんな嵐に遭っちまって気の毒だなぁ。このあたりにゃ旅籠もねぇですし……そうだ、よけりゃあ、俺の屋敷に泊まっていきませんかぃ」

「お宅様のお屋敷ですか」

 

 津雲が驚いて、首を傾げる。髪からぼたぼたと雫が滴った。


「屋敷つっても町はずれのちいさな屋敷ですがねえ、ここから近いんで、せめて雨があがるまで寄っていきませんかぃ」


 茶屋の軒は頼りなく、雨はやみそうにもない。帰るにしても、ずいぶんと距離がある。ましてこんな嵐のなかでは、さすがに身体が持ちそうになかった。


「それではお言葉にあまえて……すみませんねぇ」

「いやぁ、こまったときはお互いさまつってね。全然気にしないでくだせえ」


 男は頷き、歓迎の意を表すように傘を差し掛けてくれた。

 番傘を握る指には潰れたばかりの胼胝たこがあった。腰には刀を提げているが、拵に使いこまれた様子はなく、飾りもののようだった。それらのことから、内職をして稼いでいる下級武士か浪人だろうと津雲はあたりをつける。

 もっとも武士の家柄の者が、津雲のような素性の知れぬ旅人に敬語をつかうのは実にめずらしいことだ。武家の者にしては横柄なところがなく、非常に親しみやすい。かれらのような下級武士が衰退し始めてから、それなりの時が経っている。地位に執着して矜持ばかり持ち続けた武家もすくなくはないが、時の流れにあわせて多様に変わっていく武家もあるのか。


「俺ぁ、御徒町おかちまちのほうに暮らしてんでさぁ」

 

 大川橋にむかう道筋から林に逸れてちょいと進めば、すぐに御徒町だ。かれの屋敷は御徒町の端にあるそうだ。昔はぽつぽつと小規模な武家屋敷と御徒かちの暮らす長屋が建ちならんでいたが、いまはほとんどが取り潰しになっているのだとかれは語った。雨に負けじと男は声を張りあげて、喋り続ける。


「うちもあやうかったんですがねぇ、内職じゃどうにも立ちゆかないとなって、祖父の代から刀鍛冶をやり始めたんでさぁ」

「お武家さまが刀鍛冶ですか。それは凄い」


 男は増して笑顔になる。


「めずらしいでしょう、侍鍛冶というやつでさあ」

「ほお、各地を旅してきましたが、聞いたことがありません。ですが確かに、刀の良し悪しがもっとも判るお侍さまが鍛刀をするというのは理に適っていますね。さぞかし素晴らしい刀が打ちあがるのでしょう」


 刀鍛冶は基本、どのような身分のものがおこなっても構わないきまりだったはずだ。つまりは農夫が打っても、商人がよい鉄を仕入れてみずから鍛刀をしてもよいのである。平安の頃まで遡れば後鳥羽上皇ごとばじょうこうは刀を愛するあまり、栗田口久国あわたぐち ひさくに備前信房びぜん のぶふさの弟子となり、鍛刀たんとうをおこなったという記録もある。またこの頃は肥後のあたりに刀鍛冶をする侍がいるという噂も、津雲は旅の途上で耳に挿んでいた。

 もっともこの侍鍛冶の男は、みずからが武士の家柄でありながら刀剣を手掛けているという「他の者とは違う」ことに陶酔しているようなので、津雲は敢えてそれらの例に触れることはなかった。


「鍛冶を始められてどれくらい経っているのですか」

「いやあ、俺ぁまだまだでさ。本格的にやり始めたのは父親が急逝してからで」

「それでは研修はお父上のもとで積まれたのですね」

「あ、あぁ、まぁ……そんなところでさ」


 言葉の勢いが衰える。なにかおかしなことを尋ねてしまったのだろうかと津雲は戸惑ったが、さほど気分を害したわけではなかったようで、男はすぐに熱を取りもどす。


「昨今刀の需要が段々と減ってきちまってはいやすが、まだまだ戦がなくなったわけじゃあねぇ。藩と藩との小競りあい、賊の討伐、一揆だってあらぁ。栄枯盛衰を繰りかえしても、刀の出番がなくなる時代など来ねぇんじゃねぇかと、俺は思うんでさ」


 かれは喋りながら、腰に帯びた刀の柄をぎゅっと握った。

 確かめるように指を動かす。指の先端からは僅かだが、緊張が見て取れた。刀の衰退を憂いている為だろうか。

 津雲がすっと、眸を細める。


「いまのご時世に刀を欲する者が、真に望んでいるものはなにか。それを見極め、時代の需要にあった刀剣を打ちあげるのが、刀の衰退をとめる唯一の道じゃないですかね」


 柄を握り締めていた指が震え、ひしゃげるように曲がる。

 津雲はすかさず、言葉を挿んだ。


「平穏が続けばまた戦乱もある。時代というものは巡りますからねぇ、叢雨殿」


 男が驚いて振りかえった。

 ねずみのような顔に驚愕と動揺が広がる。


「な、なんで、俺のことを」

「なに、近時巷で噂になっておりましたので。凄まじい斬れ味の刀を造りあげる武家の刀匠がいると」

 

 津雲はにっこりと笑いかけた。

 強張っていた男の指が緩む。脱力した腕がだらりと垂れた。


「ああ、あぁ、なんでぃ、ご存知だったんですかぃ。いやだなぁ、旅の御仁にまで噂が広まっているだなんて」


 男がくしゃりと破顔する。まんざらでもない様子であった。津雲は「京の都から伊勢、越後越中、出雲まで、刀匠叢雨殿の噂は知れ渡っていますよ」とおおげさに褒めそやす。


「へへへ、そりゃあ照れちまうなぁ……えれぇ格好つけたことを言っちまいましたけど、けっきょくのところは、刀鍛冶だって生業なんですがね」


 首の裏を掻きながら叢雨は、はにかんだ。


「女房と娘がいるんでさ。俺にはもったいないくらいの気だてのいい女房と可愛い娘なんですが、ふたりとも生まれつき病に臥せりがちでして。薬を飲ませるにも町医者に診せるにも、銭が要るんで。なかなかに暮らしも楽じゃねぇでさ」


 世間話をしているうちにずいぶんときた。林のなかはまだ日も暮れていないというのに暗い。栗の群生林なのか、濡れて重くなった枝には膨らんだ青いいががこれまた重たそうに実っていた。

 栗の根方には雑草に埋もれかけた地蔵がある。頭に乗せられた竹編みの笠は苔むしていた。笠の縁から雨が滝のように流れ落ちていて、地蔵の表情は泣いているようにも、恨んでいるようにも見える。馬にも乗れぬ下級武士の執念のようなものが、この地蔵には浸みているのだろうか。

 濃い苔のにおいをまともに吸うと噎せてしまうので、津雲は濡れた袖を口許に当てて、地蔵の横を通り過ぎた。


「この地蔵を通りすぎたら、もうすぐでさ」


 林を抜けると、道の前方に屋敷が見えてきた。

 人気ひとけのない木造長屋に挿まれた、小規模な屋敷だ。建物そのものはまだ新しく、おそらくは長屋に暮らしていた下級武士の家柄が富を得て、ちかくの土地に屋敷を建てたのだろうと推察された。

 かたちだけ武家屋敷らしく整えられた木製の門構えをくぐると、殺風景な庭が広がった。季節折々に花を咲かせるような庭木はひとつもなく、あるのは松の木だけ。それも長らく剪定されていないのか、松葉がばらばらでそろっておらず、無造作に伸びた枝のせいで日陰になった若い枝が枯れはじめていた。


 ふと、背後に視線を感じて、津雲が振りかえる。

 人影はなく、庭の端にはふるぼけた小屋がぽつりと建てられていた。ならば小屋の窓から誰かが覗いているのだろうかとも一瞬考えたが、窓は木の板の雨戸で塞がれていた。なかに誰かがいたとしても、あれでは外を窺うことはできないはずだ。津雲はしばし眉根を寄せていたが、叢雨から不審がられる前に小屋に背をむけ、歩きはじめた。


「いま帰った」

「おかえりなさいませ、旦那様」


 叢雨が戸を開けるなり、妻と思しき女性が出迎えた。

 板張りの廊下にすわって、深々と頭をさげる。

 

「急に降って参りましたので、御身を案じておりました。ご無事でなによりでございます」


 決して美人ではなかったが、武家の妻にふさわしい奥ゆかしさを備えた女だ。木綿の小袖を着つけ、柔らかな黒髪を玉結びにしていた。妻の後ろには幼い娘がぴたりとくっついて、津雲のことを怖がるようにぎゅっと妻の袖を握り締めている。ただの客人ならばまだしも、道楽者のような羽織を着て、長い髪もびしょびしょに濡れているのだから、怖がられてもしかたがない。


「こちらは旅の御仁でい。雨に遭われてたいそうこまっておられた。今晩は泊まっていただく故、準備を頼む」

「かしこまりました」


 妻は続けて津雲にも丁重に辞儀をする。


「たいしたもてなしもできませぬが、歓迎致します」

「お気を遣わず。ちょいと軒を貸していただければ充分です」

「そのようなわけには参りませぬ。着替えをご用意させていただきますので、そちらにおあがりになってお待ちくださいませ」


 妻は客を迎える準備にいったん奥へと戻っていった。


 借りた布で濡れた髪を拭き取ってから、貸してもらった着流しに着替え、津雲は居間に通された。

 屋敷は玄関から東側と西側に分かれており、東側に囲炉裏のある居間があった。娘のものか、日に焼けた畳には鞠がひとつ転がっている。女中も雇われておらず、暮らしそのものが質素であることが窺えた。おそらくは西側が夫婦と娘の寝所になっているはずだ。


 妻はお峰と名乗った。娘はお鞘。病に臥せりがちだという叢雨の言葉のとおり、どちらも痩せており、肌も青みがかってくすんでいた。津雲とて健康など縁遠いが、お峰とお鞘ほどには青ざめてはいない。持病があるのか、それとも単に身体が弱いのか。


  暖かい茶を飲みながら、津雲は窓越しに小屋を眺めていた。なんの変哲もない、土壁の小屋だ。だがなにか、引っ掛かるものがあった。


「ああ、あれが鍛冶場でさぁ」


 叢雨が後ろから声を掛けてきた。


「ほお、左様ですか。それではあちらの鍛冶場で刀匠叢雨の刀剣が造られているのですね。叢雨殿の刀は凄まじい斬れ味を備えた、他に類をみない名刀だと聞き及んでおります。あたしは武家とは縁もゆかりもない生まれですが、幼い時分から刀に憧れがありましてね。噂を聴く度にどのような刀剣なのだろうと。

 是非一度、刀匠叢雨の刀剣を拝見したかったのですよ」


 津雲がそのように提案すると、叢雨は「あぁ」と声をあげて落胆したように頭に手をやる。ぱさついた頭髪を掻きまわして、かれは弱ったなあと言わんばかりに首を真横に振った。


「そりゃあ、残念でした。いまは手もとに打ちあがった刀がないんでさ」

「そうなのですか。ではせめて、鍛冶場のほうは拝見させていただくのは」


 叢雨の頬が、ぴくりと震える。

 

「あ、っと、それは……」


 ちょうど夕餉の膳を運んできたお峰が居間にやってきた。話のなりゆきを廊下から聞いていたのか、お峰は津雲と叢雨に配膳しながらこまったように笑った。


「旦那様は、どなたも鍛冶場には立ち入らせたことがないのです。鍛冶場は昔から女人禁制ですゆえ、私や娘が入れぬのはいうまでもございませんが、先月の中程に叢雨の評判を聞いて遥々越後より刀匠の御方がお越しになられた折も鍛冶場の見物だけはお断りさせていただいたのです。ですからどうぞ、お気を悪くなさらず」

「へえ、そういうわけでして。すみませんねぇ」


 お峰の言葉にひとつ頷いて、叢雨は申し訳なさそうに首の後ろを掻いた。

 津雲は「不躾なことを申しまして、謝らねばならぬのはこちらです」と丁重に謝罪しつつも、誰にも見せられぬというその鍛冶場になにやら不穏なものを感じ始めていた。

 あの鍛冶場にはなにかが、ある。

 津雲の勘がそう、報せていた。

 屋敷にまで招かれたからには、素知らぬ振りはできない。助けられるとは思わないが、辻斬りの真相を明らかにすることはできる。あの晩、橋で襲われたのもなにかの縁だと、津雲は考えていた。すべての物事は縁によって巡る。そうして津雲は幸か不幸か、生魑と縁が深かった。

 


 夜の帳が落ちて、段々と嵐が遠ざかっていく。

 また、どんよりと叢雲が渦を巻く不穏な空模様になる。ああ、だが今晩は辻斬りが橋を赤く濡らすことはないだろう。それならば、誰が、どこで血を流すのか。

 津雲は人知れず、憂いを帯びたため息をついた。 

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