其の弐 《傷》

 晩夏に差し掛かり、いまだに猛暑の日はあるものの、町から離れた平野の草庵には段々と涼風が吹き渡るようになり、曇った日の朝晩に至っては薄物の羽織でも肩に掛けねば肌寒いほどになっていた。林では朝から名残の蝉が騒いでいるが、盛夏の勢いはすでにない。あと数日もすれば蝉の熱唱はすっかりと途絶えるのだろうと考えると、あの喧騒も懐かしくなるから奇妙なものだ。

 津雲はふらふらと覚束ない足取りで野草を踏んで、庵の戸を開ける。

 土間で飯の準備をしていたロウがぱっと顔をあげ、津雲の姿をみて安堵するように頬を緩めた。だがすぐに着物の肩が裂けていることに気づき、表情を険しくする。


「ただいま帰りましたよ」


 何事もなかったかのように、津雲がへらりと笑った。

 朧は数秒黙っていたが、ふうとため息をついて力を抜き「ああ、おかえり」とかえす。下駄を脱いで畳にあがる津雲を振りかえらず、朧がつけ加えた。


「朝餉の前に傷をみせろ。刀傷は化膿したらあぶないからね。羽織と着物はそのあたりに置いておけば、今晩中に縫っておくよ」

 

 ひらりと手を振り、津雲が羽織を脱いだ。

 畳には解読中の巻物と暗号のようなものが書かれた紙が散らばっている。津雲はそれらを跨いで移動すると、壁にもたれてすわった。薬草のにおいが染みついた座敷は、いつからか津雲の帰る場所になっている。

 橋が落ちたので、ずいぶんと遠まわりをすることになってしまい、昨晩はけっきょく一睡もできていない。うつらうつらとしていると、朧が座敷に戻ってきた。朧は箪笥からいくつか傷の治療に必要な物を取りだし、津雲の側にすわる。津雲が着物をはだけさせると、不健康に痩せた肩には斜めに斬られた傷があった。血はとまっていたが、濡れた布で拭き取るとまた赤いものが滲んできた。それほど深くは斬れていないことを確かめてから、朧は薬草をあてて晒布さらしぬのを巻きつけていく。手際よく治療を施しながら、朧が話し掛けてきた。


「巷では辻斬りのことが噂になっているね」

「ほお、辻斬りですか」


「物騒なことだ。町はずれの橋に出没するとか。これまでは橋のたもとにたむろする提重さげじゅう夜鷹よたかが襲われていたが、一昨日は大川の橋を通り掛かった侍までもが斬られた。目撃した者はすべて殺されているから、素性はおろか、姿を見掛けた者もいなくてね……町奉行が頭を抱えているそうだよ」


「ああ、橋の辻斬りならば、昨晩遇いましたよ」


 朧が眉を持ちあげて驚いたのは一瞬で、津雲の刀傷からおおよそ予想はついていたのか、驚きをため息に変える。言いたいことはあるものの、津雲にはなにをいっても暖簾に袖押しだと長いつきあいから理解してもいるので、朧はすぐに気を取りなおした。


「ならば、辻斬りの素顔もみたのだね」

「侍の身なりをしていましたが、実際に武家のものかはわかりません。暗かったことに加えて、覆面をしていたので。ですが異様な刀を持っていましたよ。碌に鍛造たんぞうしていない塊鉄かいてつでした。しかしながら斬れ味は凄まじく……信じられますか、一振りで木橋を両断したのですよ」


 津雲の証言に朧が目を見張る。

 津雲は現実にそれを目撃したが、そうでなければ信じ難かったろう。朧とて津雲に信頼をおいているが故、そのような荒唐無稽な話でも信じるに足ると判断するのだ。


大和守安定やまとのかみやすさだ会津兼定あいづかねさだ、或いは――近頃江戸の武家で評判になっているという刀匠叢雨むらさめの刀であっても、斬撃で橋を斬り落とすなどということはあり得ないね」


 名だたる刀匠の名に連なる、耳慣れない名称に津雲が首を傾げる。


「刀匠叢雨ですか?」

「ああ、君は各地を転々としていたから知らないか。一年程前だったか。前触れもなく現れた刀鍛冶でね、凄まじい斬れ味の刀を造るとあって、いまや江戸の町にかれを知らない侍はいないよ。なんでも武士の身分で刀鍛冶をやっているのだとか」

「ほお、それはめずらしいですね」

「叢雨の刀剣に斬れぬものはない――そうだが、まあ、あくまでもそのような触れこみだ。さすがに橋は斬り落とせないよ」

「ふむ」


 津雲はその話を記憶に留めるように、頷いた。


「いずれせよ」


 脈動する刀身といい、異常な斬れ味といい、あれはただの刀剣ではなかったと、津雲は断ずる。


「なにかがことは明らかです」


 現実には起こりえないことをひき起こす――それは。


「憑いているとすれば、《生魑いきすだま》だね?」

「詳細はわかりませんが」


 津雲は頷いて肯定しつつも、曖昧に言葉を濁す。


「辻斬りそのものが生魑をひき起こしているのか。あるいは他人の生魑に影響されているのか。どちらなのかに依りますね。後者ならばまだ解決のしようがあります」

「影響されているというと」

「物が生魑を巻き起こしている、という例です」


 さきの茶碗の騒動を思いかえしているのか、朧の眉間に皺が寄る。

 あの騒動はひどかった。茶碗に生魑が憑いていたせいで、白米五升と買い替えたばかりの茶碗が無駄になったのだ。怨霊に祟られるなどの被害はなかったものの、朧は懐に打撃を受け、あれからずっと五穀米と玄米の食事が続いている。さすがの津雲も観念して、朝餉は茶碗に半分、夕餉の時には茶碗一杯の玄米を食べるようになっていた。生魑が憑いていることを知りながら、朧に言わなかった詫びのかわりでもある。


「俗にいう妖刀と称される物です」


 津雲が人差し指を立てる。


「女ならば、櫛や鏡、簪、着物にのこる。男は生業の道具……侍ならば、刀でしょう。刀は魂だ。刀剣の需要が衰退し始めている、いまの時代においてもね」


 刀に操られているだけだとすれば、そこから解放することも、あるいは不可能ではない。

 

「この辻斬り騒動に係わるつもりかい」

「いえ、あたしはそんなつもりはありませんよ。このような時くらいは、お奉行さまに働いてもらわないと」


 津雲はさらりと笑った。


「……ですが奇妙なもので、憑き物というのは獣の本能に似る。熊がひと度仕留めた獲物を執拗に取りかえそうとするように、刀もまたひと度獲物の血を吸えばその獲物を殺すまで執着するということは、充分に考えられます。相手が、あたしを放っておいてくれるかどうかはわかりません。かといって、辻斬りごときに行動を制限されちまうのはあたしは嫌ですね」


 津雲の言葉に朧があからさまに顔を顰める。黙ってはいても「もとから健康体ではないのだ。とうぶん町に出掛けず、厄介事を避ければいいのに」と眉根の皺が如実に語っている。津雲は朧の言いたいことをわかっていながらも、それには触れずに「しばし眠りますね。朝餉はその後に」と言った。


「……君が起きる頃には夕餉だよ」


 朧が呆れ気味に肩を竦め、それでもふとんを持ってきて、壁にもたれながら舟を漕いでいる津雲に掛けてやる。

 旅を続けてきた津雲は基本どこでも眠れるが、眠りそのものは浅く、眠っていてもあたりへの警戒は怠らない。微かな音にも意識は浮かびあがる。安眠には程遠い眠りだ。

 だがここに滞在するようになってからは、ずいぶんと落ち着いて眠っている。朧が飯の準備をしていても気づかずに眠りこけていることもあるくらいだ。

 それが、かれなりの信頼なのだと、わかっている。

 故に朧はため息ばかりが増えるのであった。

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