《人斬之噺》

其の壱 《斬》

 雲が頭上に重く覆い被さる、暗い晩だった。

 渦を巻いた叢雲は鱗を模してめくれあがり、そのあいまから微かに月影が透けているものの、光はゆがんで濁っている。空に大蛇が横たわっているかのような、不穏な天候だ。柳の枝を揺らす風は晩夏といえども妙に寒々しく、嫌な湿りを帯びていた。

 

 刻は亥四つ時。

 神田のあたりは真昼からさほど賑やかな通りではない。この時刻だと、建ちならぶ武家屋敷もすでに寝静まっていた。

 木橋を渡る提燈ちょうちんのあかりがひとつ、闇中に揺れる。

 提燈を提げているのは銀糸刺繍ぎんしししゅうの羽織を纏った細身の人物だった。闇に銀糸刺繍の霞紋様がひるがえる。濡れた蜘蛛の糸で織られたかのような、見事なる羽織だ。羽織こそ女物だが、上背があることから痩せた男だとわかる。


「なんとも憂鬱な晩ですね」


 男――改め、津雲は誰に語りかけるでもなく、つぶやいた。

 新銀町しんしろがねちょうあたりで生魑いきすだまを巡る事件があった。津雲はその経緯を子細に眺め、いまから草庵そうあんに帰るところだった。番傘は持ち歩いておらず、いま雨に降られてはこまる。木橋の板を蹴る下駄の響きからは、それなりに急いでいることが窺えた。


 津雲は橋の中程に差し掛かり、急に立ちどまった。

 前方に人影がたたずんでいたからだ。

 

 袴に帯刀。侍だ。

 影は黙して、動かず。暗さと相まって、すれ違う手前まで橋に誰かがいることにすら気づけなかった。

 それにしても妙だ。このような晩に町はずれの橋にたたずんでなにをしているのだろうかと、津雲が訝しんだのが早いか。


 人影が、斬りかかってきた。

 津雲が跳びのく。提燈が橋に落ちて、ぼうと燃えあがった。

 

 距離を取り、津雲がぎゅっと眉を寄せて左肩に触れた。浅いが、肩から腕にかけて斬られている。だが傷に気を取られている暇はない。津雲は懐から筆を抜き、襲いかかってきた人影にむかい、振るった。


「――しつ


 迫る刀の攻撃を、墨で弾きかえす。

 相手が驚いて、よろめいた。まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。


「私を襲ったのは偶然ですね」


 敵は黙っている。

 橋が燃えているので、一帯はすでにあかるい。だが相手の素顔は見て取れなかった。鼻まで黒い布を巻きつけていたからだ。血管の際立った目だけが、せわしなく動き続けている。火の勢いに竦んでいるのか。あるいは津雲に恐れをなしているのか。


「辻斬りですか」


 相手は沈黙していたが、それは肯定に等しかった。

 正体を暴くのは後だ。木橋もじきに燃え落ちる。捕縛するか、それが無理ならば深追いせずに逃げるのが聡いと、津雲が筆を構えなおす。津雲の様子をみて、辻斬りもふたたび、刀を振りあげた。

 影に覆われてあきらかではなかった辻斬りの刀の全貌が、ごうごうと燃える炎を照りかえして、あらわになる。

 

 実に異様だった。

 耿然こうぜんたる焔のなかに浮かびあがったそれは、鉄の塊だ。

 焼いた鉄を捏ねてかためただけの疎放なる塊は、棍棒といったほうがまだ納得がいく。言うまでもなく、拵もつけられていない。されど乱雑ながら、鋒や反りが形づくられているところからすると、それは刀剣に相違なかった。加えて、鉄の塊の表には血管のような気味の悪いおうとつが刻まれており、どくどくと脈動するように収縮と弛緩を繰りかえしていた。


 いったいあれはなんなのだ。


 津雲が一瞬、気を取られたあいだに、辻斬りは刀を振りおろしていた。

 津雲に――ではなく、橋にむかって。


「ッ――――」


 橋が、両断された。

 凄まじい衝撃に橋が傾き、火の粉を散らして崩れだす。崩落に巻きこまれたら、無事では済まない。津雲は走り、橋が崩落する直前にもとの岸まで渡りきった。

 

 焼けた橋が落ちる。

 辻斬りはどうなったのか。巻きあがる黒煙に目を凝らせば、両断された橋の向こう側は無事だった。あちらは燃えてもいない。火の手がまわる前に分断したのか。

 火と煙が視界を遮り、人影は見つからなかった。もっともこちら側に渡るには泳ぐ他にない。追い掛けてくる危険はまずないだろう。


 柳の幹に背をつけて、津雲は荒い息をついた。

 呼吸に咳がまじる。ずいぶんと煙を吸った。ふらつきながらも、津雲は何事もなかったように帰り道を急ぐ。不規則な下駄の響きだけが、かれの容態を如実に語っていた。

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