其の参 《死候とも》

 朝餉夕餉と何事もなく終わり、普段ならば就寝するところだが、あかりを落として暖簾の隙から米櫃を見張る。

 いつにも増して蒸暑い晩だ。障子を開け放っていても、微風すら流れてはこない。蒸れて澱んだ草のにおいだけが座敷に充満していた。このような晩は、暑さにうなされるばかりでたいして眠れないのだから、一晩寝ずの晩をするくらいはなんともない。

 朧は頬杖をついて寝そべり、津雲は脚を投げだして壁にもたれている。互いに黙って、じっと米櫃を凝視していた。

 

 夜が更け、朧がうつらうつらとし掛けた頃に、――ごとりと。

 なにかが落ちる音がした。

 

 瞬時に目蓋を持ちあげ、朧が身構える。津雲はすっと人差し指を立てて、朧にまだ動いてはいけないと示し、かわりにご覧なさいと指を差した。

 落ちてきたのはあの飯茶碗だった。茶碗は寝がえりでも打つように、ごろりごろりと土間を転がりはじめる。

 朧は目を見張ったものの、以前うさぎの根つけが脱走して町中を走りまわるはめになった時のことを想いだしたのか、声をあげて驚くようなことはなかった。波佐見焼の飯茶碗は米櫃にぶつかって止まった。それなりに勢いがあったのだが、割れることもなく制止する。だが怪異は、それだけには留まらなかった。


 茶碗からぬっと、なにかが這い出してきた。

 ひとつ、またひとつ。茶碗から湧いたそれは、蛞蝓なめくじかと思われた。

 浅黒い蛞蝓。それが五を数えた時に、蛞蝓などではないことが判った。

 浮腫むくみ、浅黒く変わり果てているが、それは紛れもなくだった。

 

 飯茶碗から死人の腕が生えてきた。

 

 おそらくは男のものだが、もとの形がわからないほどに浮腫んでいる。異様なほどに腫れた指が、血の気のない腕ごと茶碗から這いだして、米櫃を這いあがる。既にひじあたりまで抜けだしていたが、腕は伸び続け、ついに米櫃の蓋を開けた。

 飢えたようにうごめく五指が、中の米をすくう。

 握れるだけ、米を握り締めて、腕が茶碗のなかに這い戻る。


 ぞうっと暑さが薄れるような、おぞましい光景だった。


 黒ずんだ指が蟹のように床を這いずりまわる。腕は繰りかえし米櫃に侵入しては、むずりと米を握り、茶碗はそれを喰らい続けた。


 津雲はまだ人差し指を立てている。


 飯茶碗は、米櫃をからにするまで米を貪った。

 最後のひとすくいまで茶碗におさめて、ようやっと満たされたのか、米櫃に蓋を乗せた。腕はずるずると壁を這いあがり、茶碗ごと棚に戻る。腕が縮み、最後に残った中指が茶碗の縁からなかにすべり落ちる。

 後は、夕餉の時となにひとつ変わらない、変哲もない飯茶碗になった。


 あたりが静まりかえってから、津雲が指をさげる。


「君は、買った段階から気がついていたんだろう。なぜ言わなかったんだ」

 

 朧が不満げに言い募る。

 あのようなものが憑いているとわかっていれば、あの飯茶碗を選ばなかった。値が張っても、他の焼物にしたのに、と抗議するのをさえぎって、津雲は微笑んだ。


「まあ、これもなにかの縁かと思いましてね」

「なにかの縁で、これだけの米を喰われてたまるものか。これならば、伊万里のほうが安あがりじゃないか」

「なるほど、貴方が怒っているのはそちらなのですね」


 朧はずいぶんと気を害していたが、悔んでも後の祭りだとため息をついて、「それで」と話を切り替える。


「あれは付喪神とかいうものか?」

「いえ、神の類ではありません」


 棚に戻った飯茶碗を眺める。

 青磁の表は沈黙を保っていた。いまの光景は真夏の悪い夢だったのではないかと疑えるほどに静かだ。この綺麗な焼物から、あのようにおぞましく浮腫んだ指が這いだしてきたなど、努々ゆめゆめ想像がつかない。


「ならば、亡霊か」

「ええ、どちらかと言えば、その類ですね」

「類というと?」


 曖昧な物言いに朧が首を傾げる。


「死後もなお、彼岸の際からこちらに影響を及ぼす《存在》を亡霊と定義するのならば、此岸に魂を縛りつける《業念》を亡霊と言っていいものか。あたしには解りかねます」

「ふん、君の物言いはまどろこしくてこまるね。つまりはどういうことなんだ。そもそもが、亡霊というものは、業念の産物じゃないのか。晴らさずにおけない怨みや妄執が、死後も魂を現に留まらせるのだろう?」

「仰るとおりです。ようはどちらが主体か、という違いですよ。霊魂が主体で、それが情念を滾らせているのか。あるいは情念が主体で、霊魂を縛りつけているのか」

「よく違いがわからないが、これは後者だということか」


 津雲は首肯する。


「そもそもの話。死後、魂が現に留まることそのものが、理からはずれた《現象》だ。この現象を巻き起こしているのが生前の人の《業念》だとすれば、あたしはそれを《生魑いきすだま》と定義しても構わないと考えています」

「死んでいるのに、生魑とはなんとも妙だね」

「ええ、ですが、それは後者にかぎります。前者は、そこに霊魂の意が乗る。質からすれば、呪いの類だ。後者はそうではない。募りすぎた情念が、霊魂の本意を無視して地に縛りつける。故に、あたしは、これを生魑の一種だと考えるのですよ」

「理窟は理解できたよ。それで、これをどうすればいいんだね」


 極力触れたくないのか、朧は指差すものの、茶碗を棚から取ろうとはしなかった。かわりに津雲がひょいと茶碗を持ちあげる。


「ここに残っているのは、この茶碗を焼いた陶工の霊魂です。米だけを喰らうところから想像するに、飢えているわけではなく、それが陶工の願望だったのでしょうね。よくいうではありませんか。浮世絵師は画で、咄家は咄で」


 津雲が憐れむように眸を細める。


「陶工は焼物で。飯を、食っていきたかったのでしょうね」


 ですが、現実はきびしく、それはかなわなかった。

 津雲が嘆息する。


「……よい、焼物なんですがねェ」


 曼珠沙華を意匠とした波佐見焼など他にはない。

 桜に菊、麻の葉や縞などの茶碗はごまんとあるが、曼珠沙華は忌み花だ。よりによって墓場に咲き群れる死人華を絵づけする陶工など、そうはいない。陶芸を生業とするならば、当たり障りのなく、大衆に好まれる意匠を選ぶ。それが聡い。――青い曼珠沙華が、いかに美しかろうと。

 加えて、この茶碗は昨今ではめずらしい青磁製だった。

 この頃は波佐見焼と言えば、ほとんどが白磁になってしまったが、もとは青磁からはじまった焼物だったのだ。焼物の源流を汲んでいるところが、津雲も大層気にいった。


 波佐見焼は大衆の焼物だ。

 ひと昔前までは、磁器は大層高直こうじきな品物であり、旗元の屋敷ならばともかく、庶民の食卓にならべられるものではなかった。それを覆したのが波佐見焼の普及だ。大衆の焼物であるがゆえに大量生産され、段々と陶工の本旨から離れていった。数を焼くには、ひとつひとつに細かな意匠をこらしているわけにはいかない。絵づけは簡略化され、誤解を恐れずにいうのならば雑になっていった。

 だがこの波佐見焼はどうだ。


「見事なものです」


 けれど質がよければ、それだけで生き抜けるわけではない。

 手を掛ければ掛けるほど、報われるものではもないのだ。

 それはどのような業界でも変わりはなく、強いて言うなれば、この現が浮世と称される由縁でもあった。


「彼は、食い逸れた。妻子がいたか、身寄りがあったかはさだかではありませんが、彼は遂にとむらわれず、最後に焼いた茶碗に魂を留めた。留めてしまった」

「葬儀がなされなかったのか」

「ふ、違いますよ」


 津雲が渇いた微笑を湛えて、朧を振りかえる。


「儀式は、あくまでも遺された生者の為のものだ。あるいは魂が抜けた後の亡骸の処理にすぎません。埋めようが埋めまいが、焼こうが焼くまいが。読経しようが無言だろうが、墓があろうが、野ざらしだろうが、変わりませんよ。とむらわれる魂はとむらわれ、そうでないものは業に縛られ、彷徨い続ける」


 津雲がうつむいた。青い肌に落ちた影は睫毛のものなのか。あるいはかれを縛りつける死の影なのか。

 憂いながら、津雲は茶碗を見つめ続ける。


「されど、かれは」


 驚くほどに薄い響きを残して。

 飯茶碗が、崩れた。


「ほら、解けた」


 津雲の指のすきまを、さらさらと細かなかけらがすり抜けた。

 青磁のかけらが積もり、ふたつの腕が現れる。浮腫んでもおらず、死斑もない、職人らしい指を持った、男の腕だ。この指が器を形づくり、絵づけをし、釉薬をかけ、茶碗を焼いたのだ。

 腕は語らない。ただ、掌をあわせて、ありがとう――と。

 指を組んだ腕は、どこか、あの青い曼珠沙華を想わせる。

 

「おやすみなさい」


 津雲が語り掛けると、腕は青磁のかけらになり、散った。

 萎み、すがれるだけで、決して散ることのできない曼珠沙華が、散る。それは、ひどくやすらかな光景だった。磁器のかけらは霜のように搔き消え、後にはなにひとつ、残らなかった。

 とむらわれた魂を見送り、津雲が重い息をついた。


「……とむらいね。なるほど、望みを果たして、未練をなくすことが、業念のとむらいになるということか」


 納得できたとばかりに頷いたが、津雲は首を真横に振った。


「いえ、そうではありません。それならば、怨む者がおれば殺さねばならず、好く者がおれば道連れにせねばなりません。死後には、いえ、寿命がつきるまで生きていたとしても、決してかなわない望みもあります」

「ふうむ、それもそうか。人の欲望にはかぎりがないからね」


 なにひとつの未練もなく、去れる者など、そうはいない。

 津雲は下駄を履き、ふらりと表に踏みだす。夏草が揺れる野に立ち、津雲は煙管を燻らせた。細く昇る煙は崩れることなく、蜘蛛の糸のように月まで至る。

 

「とむらうとはね、呪いを解くことですよ」


 津雲はひとつ、呼吸を挿んでから、さらに語り続けた。


「呪いと断言してしまうと、語弊がありますかね。無意識のうちに掛けているもの、掛けられているものもあるのですから。

 なれば、生魑に為りかねない、素の業念とでも言いましょうか。生きているうちに知らずまとわりつく、蜘蛛の糸の如き観念。そこからの解放がすなわち、とむらいだと。……私はそう考えています」


「かれの場合は、焼物で飯を食う、か」

「それは職人ならば誰もが持ちうる当然の望みですが、かれはそれに執着しすぎた。死んでもなお、焼物で飯を食らわなければならないと、急きたてられるほどに」

「ならば、菊か、桜でも絵つけしておけばよかったものをね」

「それでは、意味がなかったのでしょう。身をやつした、入魂の焼物でなければ、食い繋げても意味がない。それが、真の職人というものです」


 陶工がどのような経験を積み、いかにして呪に縛られたかは知らず、知ることとてなけれども、津雲にはその矜持を察することができた。職人の矜持と情念を。

 あの無骨な指を見れば、理解できる。 


「茶碗を、褒めてもらえた。みとめてもらえた。重ねて、鱈腹たらふく、飯が食えた。望みはかなえられ、かれはみずからに掛けられた呪いを解くことができたのです。焼物で食い繋いでいけなかった現実を、かれは許すことができた」


 故に陶工は最後に、手をあわせたのだ。

 みずからが綺麗だと想うものを創り続けた一生が、報われた。その感謝を込めて。

 津雲の眸に微かではあるが、眩しく羨むような影がよぎる。


「呪いとはみずからで掛けることもあれば、他者に掛けられることもある。怨まずとも、悔まずとも、いかに潔くとも、とむらわれぬ魂はある」


 痩せた頬に落ちる影が黒さを増す。

 ざわりと、胸のうちが騒いで、朧は唇の端を震わせた。


「君は」


 何故にとむらわれぬ魂が憑いた茶碗を持ち帰ったのか。縁もゆかりもない陶工の魂がとむらわれたことになぜ、これほどまでに心を動かされているのか。いったい何者を重ね、なにを想って、感傷に耽るのか。


 そう尋ねかけて、朧は黙る。

 想像がつかぬわけではなく、まして気がつかないはずもない。曲がりなりにも、友だ。

 嘆く津雲の横顔が、紫煙に遮られる。

 

「……憂鬱なものですね」


 津雲が振りかえらずに言葉だけを落とす。

 静まりかえった野に、下駄の音が響いた。草や枝まで息を潜める無風の宵は、夜の帳からも暑さがしたたり、肌に浸みる。葉煙草のにおいと草いきれが雑ざりあい、肺が重かった。


 なにが憂鬱なのか。

 世の情か。人の業か。


 あるいは津雲がひとり、憂いているだけなのか。


 朧は黙り、津雲もまたそれ以上はなにも語らなかった。煙管が燃えつきるまで、ふたりは沈黙に身を委ね続けた。

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