《本筋之参》
其の壱 《大暑の候》
明日知らぬ 我が身と思へど 暮れぬまの 今日は人こそかなしかりけれ
紀貫之 838番
猛暑が続いていた。
こう暑いと蝉も騒いではいられないのか、眩暈がするほどの喧騒はなりを潜めていた。屋根の
庵から細い煙があがる。
続けて、飯の炊けるよい香りが漂いはじめた。
ふたつの木具膳にはそれぞれ箸と茶碗と湯呑、
「箸がとまっているね。朝餉を食べないともたないよ」
「食欲がないんですよ」
「なおのこと、君はしっかりと食事を取るべきだね。君が雑穀や黒米は好まないと言っていたから、今朝は白米を炊いたんだ。食べてもらわなければこまる。あと、摘んだばかりの
津雲はちらりと小鉢のなかをのぞいた。
「畑のへりにある雑草ですよね」
「僕の祖国でも昔から食べられている植物だ。実に栄養があるんだよ。
うながされて、津雲は箸をつけたものの、味見程度につまんだだけでまた箸を置いてしまった。
「噛むほどにねばねばと糸を引くんですがね。傷んでいるんじゃないですか?」
「これはこういうものなんだよ。納豆も長芋もねばりがあるだろう。ねばりがあるものは健康にいいのさ」
「あァ、残念ながらあたしは、納豆も長芋も食べられませんので。なんか、厭なんですよ。腐ってるモンを食べているようで」
はあとため息をつき、朧は津雲に食べさせることを諦めて、黙々と食事を進めた。無理強いして食べさせても、津雲の体調がよくなるとはかぎらない。
いつにも増して青ざめた津雲は、痩せた指で湯呑をつかんで、白湯を喉に通す。暫くは白湯を飲むばかりだったが、さすがになにも食べないのは用意してくれた朧に悪いと思ったのか、ぼそぼそと飯を口に運びはじめた。津雲が茶碗によそわれた飯と二枚の沢庵をなんとか食べ終わる頃に、朧は釜の飯をさらえる。
「ご馳走さまでした」
からになった茶碗を置いたのが早いか。
ぱきんと、津雲の茶碗が真ふたつに割れた。
乱暴に扱ったわけでもなく、唐突に割れてしまったので、津雲も一瞬呆気に取られて割れた茶碗を見詰める。すぐに朧が寄ってきて、茶碗の片側をつまんだ。
「ついに割れたか」
「古くなっていたのですか?」
「ああ、薄らとだが、罅がね」
津雲の茶碗は素焼きのかわらけだった。焼物とくらべれば、壊れやすい。しかしながらこれでは、夕餉の時に飯が食べられない。
「久し振りに町にいくか」
「夕餉は抜くので構いませんよ」
「そうはいかないね」
ぴしゃりと言い放って、朧は出掛ける準備を始める。いまから出発すれば、昼頃には江戸の町に着く。津雲の体調がよくないのを察して、「君は待っていてくれ」と朧は言ったのだが、津雲は首を横に振った。
「出掛けたほうが気も紛れますので」
食事の片づけを終え、津雲が下駄を履く。すでに草履を履き、津雲を待っていた朧が姿を確かめて歩きはじめる。草の繁る小道を進んでいくふたりの姿が、夏のかげろうに霞んでは揺れた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
焼けるような暑さにもかかわらず、町は大勢の人に賑わっていた。あちらこちらから人寄せの声があがっているが、重なりすぎて、近寄らなければそれぞれの言葉を聞き取ることはできない。醤油の荷桶を担いだ振り売りが叫んだと思えば、
江戸の往来は暑夏だろうと賑やかだ。
「蝉も群衆もさしたる違いはありませんね」
黒に緑の横縞が織りこまれた紗の羽織を肩に掛けた津雲が、混雑をすり抜けながらつぶやいた。隣をいく朧は肩を窄めて、騒々しい雑踏に視線を投げる。
「これだけ暑いと、蝉も鳴かないよ」
「違いないですね」
売り物を担いで歩きまわる棒手振りが取り扱う物は多岐に渡り、油から野菜、鰹節に枝豆、薪や煙草と、普段の暮らしに必要な物は大抵が揃っていた。売るばかりではなく、廃品を買い受けてくれる商人もいる。使い終わった紙屑を引き取ってくれる商人が、さきほどから各店をまわっては荷を膨らませていた。ふるくなった紙を集めて、あらためて梳き、
ざっと眺めるかぎりでは、茶碗を扱っている棒手振りはいないようだった。ふたりは路地を曲がって、焼物屋に向かった。近頃は
「焼物でなくとも、かわらけで構いませんよ」
店番に聞こえないように、津雲が朧に耳打ちをする。
「あれは、長持ちしないからね」
「長持ちなんてせずとも、どうせあたしは」
「今時は焼継がいるからね。壊れても直せる物のほうが、後々得なのさ」
津雲の言葉を聞かずに、朧は近くの棚にあった茶碗を手に取る。
「これはなかなかにいいね。値も程々だ」
それは
精微な曼珠沙華の紋様が、青磁に映えている。
「ああ、それですかイ」
熱心に眺めていると、店番の若人が声を掛けてきた。
「それは、三度値下げがされているものでして」
「なぜかな。よい焼物だと思うのだがね」
「いやあ、
「ふうむ、そんなものか」
津雲はずいぶんと値が張る
「それにするんですか?」
「ああ、そのつもりだが」
「ほんとうに?」
「君のものだからね。他に気にいったものがあったら、そちらにするが」
「いえ、それはよい茶碗ですよ」
くすりと津雲が笑った。
それはどこか幼い童が悪ふざけするような様相で、朧は背に不穏なものを感じ取ったのだが、他によいものがなかったというのもあり、波佐見焼の飯茶碗を店番に渡す。銭を払い、茶碗を受け取った。焼物屋を後にし、路地から通りに戻ると朧が「そうそう、忘れるところだった」と声をあげた。
「米が今朝で最後だったんだ。米問屋に寄ってから帰るよ」
「あたしはさすがに疲れちまったので、お先に帰ります。茶碗は預かっておきますね」
茶碗は木箱におさめられ、風呂敷につつまれていた。朧は風呂敷ごと津雲に預け、分かれる。
数歩進んだところで、ごとんと焼物が転がるような音が聴こえて、朧が驚き、振りかえった。見れば、ちょうど長羽織の袖が、ひらりと人の群を抜けていくところだった。足許にはなにも落ちていない。よくよく考えれば、茶碗が落ちるはずはないのだ。このあたりは居酒屋も多い。誰かが徳利でも転がしたのだろうと考えなおして、朧はまた歩き出した。
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