其の伍 《蜎》

 墓前に手向けられた白菊が風に揺れる。

 人里離れた寺の墓地の片隅にその墓はあった。旅籠の夫婦には墓石を置くだけの額は用意できなかったのか、墓標は木の板一枚だ。ここは操の墓である。善吾を面影を乗せて、最期まで光り続けた蛍の墓でもあった。

 熱心に手をあわせていたふたりは、一礼の後、頭をあげた。

 西の空が暮れなずんでも、蝉の声は振りやまない。


「いつかは、善吾さんが墓前に立つ日もくるのでしょうか」


 津雲が言った。操を墓地に葬ってから五日経った。この墓に参ったのは津雲と朧、旅籠の夫婦と女中数人、あとは近隣に暮らす童だ。操が息を引き取ったことを知り、朧は筆を取った。六日限四日以内の特別便にて飛脚に頼んだので、今頃は善吾のもとに報せがいっているはずだが、転居していればそのかぎりではない。

 操の死を、善吾は知っているのだろうか。


「ああ、まだ君は知らなかったのだね。今朝……というか、正午に近かったかな。ともかく、まだ君が眠っている時刻に善吾から便りがあったんだよ。僕と旅籠の両方にね。手紙だけではなく、滞納していた二カ月分の支払も同封されていた。旅籠の夫婦には葬儀の銭も添えてあったそうだよ」

「なるほど、朝からそちらの要件で旅籠まで出掛けていたんですか」

「朝というよりも昼だね」


 津雲が目を覚ますと、朧はすでに出掛けており、庵には「出掛けてくる」との書き置きが残されていた。法事の粗方は終わっていたはずなので、何の用かとは津雲も思ってはいたのだ。


「そう、手紙は今日着いたんだよ。どういうことか、分かるかな?」

「……早い」と一言津雲がつぶやくと朧は頷き、懐から手紙を取り出す。

「読んでみればいいさ、君はとうに知っているかもしれないがね」


 受け取った手紙を広げれば、痩せた文字が綴られていた。

 文章はこれまでの礼から始まり、滞納についての謝罪へと続く。曰く、金策にこまり、長らく迷惑を掛けてしまった。これまで弟には欄間らんまを彫り、生計を立てていると伝えていたが、職人の生業で暮らしていけたのは最初の二年だけだったのだ――と。厳しい現実を明かす文字はひどくかすれていた。

 果たして、どうして多額の金を工面していたのか、真相は綴られていない。だが、滲んだ墨からは、並々ならぬ苦労が窺えた。


「善吾が操を見放してはいなかったのだとわかっても、君は驚かないのだね。家族愛を信じていたわけではないのだろう? むしろ、疑っていたはずだ」

「ええ、疑っていた。故に確かめたのです。操さんが死去された日の午後、操さんの血をもちいて、縁という字を書きました。ふたりの縁の現在の有り様が表れましたが、縁はもつれてはいなかった。善吾さんは変わらず、操さんを大事に想い続けていました。操さんの病が重篤になっていたのは誰の所為でもなかった」


 兄を慕う弟の気持ちに偽りがなかったように、兄が弟を慈しむ気持ちも移ろってはいなかったのだ。

 だが善吾の真意はすでにわかっていたとは言えども、善吾から直接確かめられるのとは違う。津雲の様相が安堵にやわらいだ。


「続きを読んでごらんよ」

「はい」


 横からうながされ、津雲はまた紙に視線を落とす。


「これは……なるほど」


 読み進め、津雲が驚いたように目を見張った。

 朧が肩をすくめながら、津雲を見やる。ほらね、やはり知っていた。と言いたげだ。隣から棘のある視線をそそがれても、津雲は気にもとめず手紙を読みかえす。そうだったのかと納得して、津雲は静かに睫毛をふせた。


「……確かにあの晩、善吾さんは座敷を訪れました」

「ふうん、詳しく教えてくれるんだろうね、当然」


 大事なことをまったく教えられていなかったことに、朧はずいぶんと機嫌を損ねている。おもしろくなさそうに鼻で笑い、朧は腕を組んで桜の幹にもたれた。話してもらうまでは梃子でも動かぬといった様子だ。「分かっています」と苦笑いをかえして、津雲はあの不可思議な経験を事細かに話す。死の淵を彷徨い、津雲を善吾と見間違えた操。その後意識を取りもどすや否や、善吾を見送らねばならないと津雲に頼んできたこと。蛍の火に重なった人影。どれもが現実とは思い難かったが、確かにあの晩に起こったことであった。


「《面影》……というやつですよ」

「面影? 俗にいうそれとは、違うのだろうね」


 津雲が頷いた。


「ええ、離れたところにいるものを想い続けるうちに、ひょいと魂が身体を抜けだして、逢いにいってしまうことがあります。縁が強ければ強いほど、そうした現象が起こりやすい。故に《思い思はく》ともいうのでしたか」


「それは、生魑の一種かい」 


「そうですね。情念が起こす怪異なる《現象》のひとつだ。生きながらに時や距離を越えることは実に難い。ですが、情念は、それをなし遂げる。想いが凝ると人の形を為す。生物に憑依すれば、なおのこと、確かになる。故に面影というのです。虫は特に魂が乗りやすい生きものだそうです。地域によってはお盆の時に先祖が虫に乗って帰ってくるという言い伝えがありますが、それもその表れです。

 あたしがこれまで紐解いた事件にもこうした事例はありました。もっとも怨みがもととなったものばかりでしたが」


「強きは、悪意のみに非ずということか」


「怨嗟を凌ぐ愛や呪いに裏返らざる祈願というものも、真はあるのでしょうね。悪意に慣れすぎて、段々とこちらがあたりまえだと思い始めていましたが、いやはや」


 涼をもたらす微風がさわさわと葉桜をなぜる。夏とは言えど、森にかこまれた墓地は陽が暮れるのも早い。ふり仰げば、夕焼けに星が瞬いていた。蛍を想わせる、果敢なくも明媚なる光だ。

 女物の羽織をなびかせて、津雲は踵をかえす。

 朧が津雲の後ろにならんでついていく。不規則な下駄と草履の音が、蝉の騒めきにまぎれた。ふたつの影が物言わぬ墓の影に幾度も重なる。


「いかなるものにも光と影。裏と表があるということは百も承知でしたが、裏と影ばかりを見すぎちまったんでしょうね。光があれば影が、と想いがちだ。けど真は、影があれば光が、ということもある。生魑にかかわれば幸は望めないと散々言い続けてきましたが、あながちそうとは言いきれぬのやもしれません。事実、操さんの死に顔は、不幸というにはあまりにも穏やかで」


 微笑みながら逝った操の姿が、津雲の目蓋を過ぎる。

 清らかな表情だった。あんなふうに逝ければ、きっと死後も穏やかなものになるだろう。輪廻の旅路も明るいに違いない。


 朧は微かに目を細め、さりげなく話題を変える。


「そう言えば、旅籠の夫婦が操の書き溜めていた和歌を詠んで、あまりの美しさに感嘆していたね。僕には和歌のよさはよくわからないのだが。後日和歌にくわしいものに詠ませてみるつもりだそうだ」

「ほお、それはそれは。和歌は、かれの生きた証のようなものですからね。あのままになってしまうのはあたしとて未練があったので、嬉しいですよ」

「かれの和歌が後に、巷で好評を博するやもしれないね」

「それは楽しみです」


 夕陽が傾くごとに森が陰る。

 風が渡り、繁みから一斉に舞いあがる黄緑の光があった。影をつくらない蟬蜎せんけんたる光の群が、薄暮はくぼ木陰こかげにたわむれる。気づかぬふたりは振りかえることもなく、ほがらかに話しながら、帰り道をたどっていった。

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