其の肆 《蛍》

 すっかりと日が暮れて、あたりは静まりかえっていた。

 蝉は眠りについたのか、しんと黙りこみ、かといって蛙が騒ぐでもなく、森は重い沈黙の幕をおろしている。暗くなってから、しばらく経つが、暑さは緩まなかった。泥濘ぬかるみに身を浸しているような、さくの晩だ。

 操が激しい発作を襲われてから、二刻は経った。いまだにかれは意識を取りもどさない。蝋燭の灯が畳に光を投げ、昏睡する操の頬にちらちらと細い影を漂わせていた。咳はとまっていたが、ひどい熱があり、呼吸をするごとに喉にやすりを掛けるような息が洩れる。額からは絶えず汗がふきだして、津雲がどれほど拭ってやってもきりがなかった。

 さきほどの騒ぎを聞きつけた旅籠の女中が朧を呼びにむかってくれたらしく、間もなくして朧が駆けつけた。津雲が発作の状態を話すと、朧は顔をゆがめて真横に首を振る。持参した薬箱がむなしく、部屋の隅に放りだされた。


「……かれは、君になついていたね」

「今晩はせめて、つき添いますね」


 朧には操を看取ってやることはできない。

 津雲は前日にも操のもとを訪れていたが、操は一度たりとも、「つらい」とも「くるしい」とも「さみしい」とも言わなかった。ただ他愛もないことを繰りかえし、ほがらかに喋り続けた。だが、津雲を見送る瞳からは、すがりつくような素振りがあった。幼くして、病魔に侵され、倉で暮らすことを強いられ、親をなくして、最愛の実兄は遥か京の都にあがったきり帰ってこない。旅籠の夫婦や女中からは、それなりに情けをかけられていたのだが、病故に避けられ、操は嫌われているものと思いこんでいるようだった。

 なにひとつ知らない無垢な瞳をして。

 かれはずっと、たえ続けてきたのだ。

 痛みをこらえ、孤独にたえ、死の恐怖に曝されながらも、かれは何者も憎まなかった。なにかを憎んでしまえば、楽だったろうに。ただ身を縮め、みずからだけを責めて、まわりに気を遣い続けた。

 死に臨む際くらいは、誰かに看取られたいはずだ。

 例えそれが、かれがもっとも愛した肉親ではなくとも。


 朧が帰っていった後も、津雲は看病に勤しんだ。優しく声をかけてやり、流れる汗を拭く。それを繰りかえしていると、寝息が徐々にやすらかさを取りもどしてきた。安堵とともに疲れが押し寄せ、津雲が土壁にもたれこむ。

 操の寝顔は蝋燭の灯を受けてもなお、青かった。幼けない瞳が朝日を映すことはないのかもしれないと思いながら、津雲はひとみをゆがめる。


「生きていないほうが、よかったですよね、か……」


 かれはいつから、そんなふうに考えていたのか。

 蝉も蛍も、短命だ。土中及び水中で成育する期間は長いが、虫になってからの寿命は蛍が三夜、蝉でも十四夜程度とされている。その短い命を燃やして、蛍は美しく輝きながら川面を舞い、蝉は誇らしく歌い続けるのだ。そうした虫達の果敢ない宿命を操は若くして命を落とすであろうわが身に重ねているのだと、津雲はそう思っていたが、かれの真意は違っていたのだ。真逆だったといってもいいほどに。

 操は、蝉や蛍の潔さに憧れていた。

 夏を越えずに息絶える蝉の歌を聴くごとに、かれは身につまされていたのだ。

 思いかえせば、操は日頃からみずからの境遇に負い目を感じていた。愛しい兄弟にだけ働かせ、金銭のみならず、精神にも重い負担を掛けている。善吾の齢ならば、すでに妻を迎え、数人の子に恵まれているはずだ。操が善吾に常なみの幸せを奪っている。十数年もずっと善吾を縛りつけているという現実が、どれほど重く、操にのしかかっていたのか。津雲は想像するだけでも気が塞いだ。

 操は望んで、病に掛かったわけではない。操にはなにひとつのあやまちもないのだ。

 されど操には、割りきれなかったのだろう。

 善吾が懸命に稼いだ銭で、操は生を繋いでいる。けれどそれは、ただ生きながらえているだけだ。なにをすることもなく、なにをできるわけでもなく。どれほどの心咎めがしていたことか。それでも望まれているかぎりは、命を投げ棄てるわけにはいかず、操はなやんでいたはずだった。

 津雲が語った言葉もまた、操を苦しめたのかも知れなかった。いかに生きるか。それは津雲からすれば、励ますつもりでかけた言葉だったが、操にとりては胸に刺さったに違いない。

 立派に生きられないのならば。

 否、迷惑をかけ続けるくらいならば、死ぬべきだと。

 かれは考え続けてきたのだから。


 津雲の思考を破ったのは、激しい咳だった。発作だ。横たわったままで咳きこむ操に寄り、津雲が気管を確保させようと腕を伸ばしかけたが、他でもない操に袖を握られ、身動きが取れなくなる。操は朦朧としているようだったが、目蓋を持ちあげ、もがくように袖をたぐり寄せる。


「あに、さま」


 側の人影に慕い続ける兄の面影を重ねて、操は細る声で呼び掛けた。


「あにさま。ごめんなさい。すぐに、とまります、ゆえ」


 ちいさな手にすがられて、どうして拒絶できるだろうか。

 津雲は黙って、ぎゅっとてのひらを重ね、優しく握り締める。夢くらいは、幸せなものをみせてやりたかった。善吾の振りをして、頭をさすり続ける。


「兄様、ああ、兄様……」


 安堵するように緩んだ操の頬が、また急に強張る。


「兄様、どうして僕は、兄様の重荷になってしまうのでしょうか。兄様がどれだけ懸命に働いても、僕のせいで、豊かな暮らしができぬのでしょう? 所帯も持てず、幸せに、なれぬのでしょう? 僕が、僕がいるばかりに」


 ゆるされたいわけではなく、かといって裁かれたいはずもなく。

 操の瞳に涙を膜が張る。


「兄様、僕はなにか、わるいことを、してしまったのでしょうか? ゆえにこのように患い、兄様にご迷惑を、かけてしまうのでしょうか……」


 またひどい咳をする。

 暴れるつまさきが布団を蹴り、畳を掻いた。袖をつかんでいない右手が胸を押さえる。もだえながらも、操は咳まじりの譫言うわごとをはき続けた。氾濫した後悔と懺悔ざんげの濁流は、尽きることなく、蝋燭の影を掻き乱す。


「ごめんなさい、生きていてごめんなさい。どうか、棄てて、ください。僕を棄てて、兄様は幸せになって。それが僕の、ああ、それでも」


 紅潮した頬に涙が垂れる。

 傷ましくしゃくりあげながら、操は続ける。


「僕は、僕はね。兄様が、僕の為にしてくれることぜんぶが、嬉しかった。嬉しかったんだ。僕に生きていてと望んでくださる兄様にすがって、それだけを頼りに、生きながらえてきた。それが、兄様を不幸にするのだと、まことはわかっていたのだけれど」


 胸を掻きむしり、かれは目を見張る。

 

「僕は、こわかったのです。兄様に見棄てられるのが。どうか、僕を棄ててと。これきりでなにも払われなくなることを願って。そのように願いながら、僕は」


 恥じながら、責めながら、それでもかれには、他に頼りにできる者がいなかった。他によすがにできるものがなかったのだ。


 この場に、善吾がいたならば。この心細げな言葉の数々を、善吾が聴いていたならば、なんと言っただろうか。さきほどまでは想像もつかなかった善吾の真意が、いまは津雲にもわかっている。


 操の手を握る。力強く、されどいたわるように。


「生きていてくれて、有り難う、操」


 津雲は穏やかに囁きかけた。

 善吾が言うはずだった言葉をいまだけは、借りておこう。津雲は故意にその面影を被る。似せられるとは考えていない。見知らぬ他人だ。喋りかた、声の調子など、おそらくは物腰穏やかな人物だろうと想像はできても、近づけるには及ばない。だが操がいま、優しい幻を視られれば、充分だった。

 津雲は善吾の真心を代弁する。


「おまえがいかほどに生を怨んでいても、私は。おまえが生きていてくれさえすれば、それでいい。その為ならば、なにを惜しむことがあるだろうか」

「あに、さま」


 くしゃりと、操が相好を崩す。

 流れる涙はもはや、悲嘆の雫ではなく、後悔の濁流でもなかった。


「どうか、しがみついてくれ、生に。……私に」


 愛されているという安堵と喜びに打ち震えながら、操は津雲の懐に頬を埋めた。津雲は泣きじゃくる操の頭をなぜ、かれの気が済むまで胸を貸す。操が寝息を立て始めてもずっと、津雲は傍に寄り添い続けた。眠ってもなお、羽織の袖を握る手が布の海に落ちることはなかった。


 かれは、死を恐れていたのだろうと、いまさらながら津雲は想った。死を恐れ、棄てられることを恐れ、それを責め続けていたのだろうとも。死を恐れるのは、あたりまえのことだ。されど操は、蝉は死を恐れないものだと、蛍は生にしがみつかないものだと思い続けてきた。精一杯に生きるかれらは、死を恐れることもないのだと。


 かれは再びに目を覚ますだろうか。否、かならずや、目蓋を開けるはずだ。

 まだ迎えはこない。

 迎えがまだ、きていないのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 操が意識を取りもどしたのは草木も寝静まる夜更けのことだった。眠らず、操についていた津雲は、操の目覚めにもすぐに気がついた。


「あれ、津雲、さま……どうして」


 津雲の姿をただしく認め、操が首を傾げた。

 前後の記憶が抜けているのだろう。

 いまだに熱があるというのに、血の巡りが滞っているのか、操の肌は浅黒かった。容態が好転しているわけではないのだ。悪化しているといっても、あながち間違いではない。咳はないが、喉の奥からひゅうひゅうと頼りない音が聞こえた。

 傾いた首が転げ落ちそうな、死人の様相だ。


「ですが、ちょうどよかった……津雲さま、肩を貸しては頂けませぬか?」


 落ちくぼんだ目許をほころばす。


「兄様をお見送りに出ねばなりませぬゆえ」

「善吾さんはもう、お帰りになられましたよ」


 戸惑いを滲ませず、津雲は口から出まかせに言った。

 夢をみていたのだと教えることもできたが、敢えて津雲は善吾の来訪を肯定する。嘘に嘘を重ねることにはなるが、構わない。操は残念そうに肩を落として、閉ざされた障子に視線をむける。凝視しても、障子には夜陰が透けているだけだ。されど、津雲が続いて障子を振りかえると、障子にまるみを帯びたひかりが浮かびあがった。

 今晩は月とて昇らず、星影は障子には映らない。

 あの光は、なんなのか。

 操の瞳が輝きを帯びる。


「まだ、間に合います。津雲さま、二度とこのような我侭は言いませぬゆえ。どうか、兄様がおられるうちに、縁側まで僕を連れていってください」

「……わかりました」


 これはなにかがあると思い、津雲は操の頼みを受けいれる。肩に腕をまわさせ、津雲はふらつきながらも立ちあがった。操の身体は軽かったが、津雲の非力さも大概なものだ。身長差も問題だった。ふたり、よろめきながら障子を開け放つ。


 実にくらき宵だ。

 新月の晩であることに重ね、重き暗雲が星すら覆い隠している。風がとまっているので、雲のすきまから星あかりが差すことも期待できない。普段ならば晩に騒ぐ生き物までもが息をひそめている。

 漆黒に染まった風景のなかにひとつ。

 ひかりが、浮かんでいた。

 決して眩いひかりではないが、それゆえに影を落とさない。あたりを覆いつくす陰りを緩くとかして、宵を舞い飛ぶそれは、死者の魂のようでもあった。しかしながら、小さくなったり大きくなったりと移ろうさまからは、確かに命の脈動を感じる。


 ひかりは落ちて、ひかりは飛ぶ。


 ほたるだと言い掛けた津雲を遮り、操が縁側から身を乗りだす。


「ああ、兄様、やっと」


 操が震える両腕を伸ばす。涙ぐむように微笑んで、かれは緩やかに力を抜く。すうと魂が抜けるような息が、津雲の耳もとをかすめていった。満足だと、うるんだ瞳が言葉もなく語っていた。

 つらくとも、惨めであっても、生にしがみついてきた幾歳いくとせは無駄ではなかった。けれどもう充分だ。楽になってもいいのだ。最愛の人が逢いにきてくれたから。最愛の家族がみとめてくれたから。


 かれは、死を受けいれた。

 みずからの生と一緒に。


「もう、逝きますね……兄様」


 最後に柔く微笑んで。

 操が息をひき取る。


 戸惑ったように黄緑のひかりが暈ける。蛍火の彼方に人影が浮かびあがった。津雲は一瞬驚き、されどやにわに何者であるかを理解する。人影は操に腕を差しだして、涙をたたえながらも笑ったようだった。

 蛍火が霞み、燃えつきる。

 津雲は、息をしなくなった操を畳に横たえた。続けて津雲は縁側からおり、夏椿の根方に蛍の死骸が落ちているのを見つけ、ひろいあげる。弔う際にこれを胸に抱かせてやれば、死出の旅路でも迷うことはないはずだ。


「今宵は月もないのに、憂鬱……ではありませんね」


 つぶいて、津雲が縁側に腰かけた。

 空から厚い雲が垂れ下がっていても、心に雲は掛からない。


 津雲もまた、遠からず死に逝くさだめだ。さりとて、津雲はその事実に憂いはなかった。死を恐れぬのは精一杯に生き抜いたものではないのだ。生を達観しすぎた津雲はもはや、死を恐れることさえできない。それは、恐らくは欠陥だ。蛍も蝉も死を悼むであろうに。死を恐れぬみずからは壊れ物なのだろうかと、津雲は自嘲に唇の端をゆがめた。

 程なく息絶えるとして、津雲の気懸りは……。

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