其の参 《蜩》

 十日の余命を告げられても、操は落ち着いていた。

 お伝えくださいまして有り難う存じます、と静かに頭をさげて、それからは普段と変わらなかった。朧が帰った後も津雲は残って茶を飲みながら他愛のない話をかわす。森の動物のこと、植物のこと、短歌のこと、そうして善吾との思い出話。操が語る《兄様》は暖かく、頼りがいがあり、実に輝かしかった。津雲はそれらの話を聴くにつれ、それらが決して取りかえせない昔であることを重い知らされた。取りもどせない風景ほど美しく、あまやかだ。あせても錆びても、美しさに磨きがかかるばかりで、それでいてぼんやりと霞んで、確かな像を結ぶことはない。

 時々咳をしながら、操は喋り続ける。


「兄様はほんとうにお優しくて、寺子屋でもなかなか読み書きができない他の子らに、ひとつひとつかみ砕いて教えていらっしゃいました。なのでいまも、数多くのお弟子さんに職人の技を教えておられるのだと……」


 津雲は考える。例えば、もうひとつの真実を話していれば。かれは絶望に暮れて、こんなふうに穏やかに最後の時を待つことはできなかったに違いない。

 真に、兄の愛だけが、かれの拠りどころなのだ。

 いまさら、その事実が傷ましく、津雲の心に暗い影を落とす。


「津雲さま? どうかなさいましたか?」

「あ、いえ、ぼうとしておりました」


 津雲がはっと視線をあげた。操は気遣うように苦笑する。


「こうも暑いと、まいってしまいますよね」

「ええ、あたしも昔から夏はにがてでして」


 旅籠の夫婦は、最後まで真実は明かさないと決めたそうだ。朧もなやんではいたが、けっきょくは善吾のことは言わずに帰っていった。津雲も真実を言うつもりはない。かれが真実を知る意義がどこにもないからだ。


「津雲さまも夏の日差しがお嫌いなのですね。よかった、にがてなのが僕だけではなくて」

「ええ、晴れていると、ひなたにいるだけでも眩暈がします。晩になると蒸暑くて、なかなかに寝つけませんし、季節が巡るのは致しかたありませんが、こまりものですねぇ」

「夏は嫌いではないのですが、この暑さはこたえますね。ですが、津雲さまはまず、羽織を脱げばよいのでは……」


 最後だけはぼそぼそと操はつけ加えた。津雲が聞き取れず、首を傾げる。


「よく聞こえなかったのですが、なにか?」

「いえ、なんでもありません! どうせ夏が訪れるのならば、縁側から蛍がみられればよいのですが。このあたりには森はあっても、湧水がありませんから」


「操さんは蛍がお好きなのですか」


 津雲が尋ねると、操は表情を陰らせた。

 白紙に墨を垂らすようにぽたりと、沈黙が落ちた。

 操のやつれた頬に影が集まる。ほがらかに語っていた時は操が夏の終わりを待たずに死去するなどとは思えなかったが、いま、かれの横顔にはりついているものは紛れもなく、死の影だった。

 悪いことを尋ねてしまったのだろうかと、津雲がたじろいだ。

 されど操は、遠くを眺めながら、柔らかく微笑んだ。


「昔に。ずっと昔に、兄様と一緒に蛍を観にいったことがございます」


 兄様と語るかれの声は、なぜだか微かに震えていた。


「僕が胸を患っていることがあきらかになって、屋敷の倉にて寝食するようになった頃のことです。親に黙って抜けだしたのは後にもさきにも、この時だけでございました」


 操は語りだす。こがれるように。いま、このことを語らなければ、遠くにゆらりと燃える黄緑のひかりが、かき消えてしまうと急きたてられるように。津雲が相づちをいれる暇もなかった。


「僕がいつつ、兄様はとうになったばかりだったはずです。兄様は戸から腕を差しだして、どうしても僕を連れていきたいところがあるのだといって、手を繋いで走りだしたのです。走るといっても兄様は僕の胸を気遣ってくださり、実に緩やかな足取りでしたが、それでも僕にはついていくのがやっとで、いったいどこにいくのかと尋ねても、兄様はただ笑ってついてきてくれと言うばかりで教えてはくれませんでした。兄様は黄昏時をすぎているというのに森のなかに僕を誘い、僕は暗い森がおそろしくて。勝手に抜けだしたことを親に叱られるのがこわくて。ですが、兄様が手を繋いでいてくださったから、それもじきに薄れて、なにやらはずむような心地になっていたのです。そうして林を抜けて、目の前に広がった風景に僕は息を飲みました。

 これほどまでに美しき風景があるものかと」


 夢をみるような瞳は、どこか濁っている。果敢ないきらめきが散っては、陰る。

 戻らない昔日せきじつ幻燈げんとうは、言わば時の彼岸の際に見え隠れするともしびだ。つかもうとすれば、三瀬川みつせがわに落ちる。振りかえり続けてはならないものだ。それは死に寄る。


「数えきれぬほどの蛍が舞い、川原が黄緑の光に満ちていたのです。それはたいそう、美しき光景でした。いえ、美しいなどという言葉ではとうてい、言い表せないほどでした。ゆらりと落ち、また舞いあがる光の群がみなもまで輝かせて、僕はまさに星が落ちてきたのかと。お恥ずかしながら、僕は蛍といういきものがいることも知らなかったのです……」


 操が喋っているあいだ、津雲は操の袖さきに視線を落としていた。膝に乗せられたこぶしが細かく震え続けている。操は無意識なのか、気がついていない。握り締めすぎたものは果たしてなんなのか。未来に望みを託せない悔しさか。過去には戻れない悲しみか。兄に逢うことなく、死にゆく恐怖か。


「それが、兄様との一等大事な想い出でございます」


 いびつに頬を持ちあげ、かれは言葉を結んだ。

 しろくなった指をやっと、ほどく。痺れが残ったのか、操はてのひらに視線を落として、首を傾げた。数秒考えたが、なぜこれほどこぶしを握っていたのか、じぶんでは理解できなかったようで、操は考えることを諦めたようだった。当人からすれば、楽しいばかりの思い出話をしていたのだから、あたりまえだ。昂揚していたからだと結論づけて、操は恥ずかしげに笑った。


「蛍でしたら、朧先生の庵のちかくでも観られますよ。お土産として持ってきましょうか?」

「ありがとうございます。ですが捕まえてしまうのはかわいそうなので、どうかお気遣いなく。ここには蛍は参りませんが、蝉の声も聴こえますから。それで我慢致します」


 蝉、それは蛍のかわりが務まる生き物なのだろうか。

 光など帯びず、騒々しいだけのすがたを思い浮かべて、いや違うと津雲は思った。どちらも短い寿命を燃やして、懸命に生きている。それをかれは、みずからと重ねているのだろうか。津雲は重い息をついた。

 耳など澄まさずとも、蝉の声は賑やかに縁側を取り巻いているというのに、操は耳の脇に手をやって音を集める。痩せてもなお、柔らかな肌の質感。もろそうな指の関節。津雲や朧の指とは違う、まだ幼さの残るかたちだ。操の手があたりに氾濫する蝉噪を集める。ひと夏に燃える命の響きが、かれの鼓膜に流れこむさまが視えるようだった。

 蝉の演奏は、滝が流れ落ちる瀑声ばくせいを想わせる。あるいは渓流か。眩暈がするほどの演奏にも、操は心地よさげに聴き入る。 

 津雲からすれば、落ち着かないが、操にはどのように聴こえているのか。ぎゅっとしぼられた目蓋からは、真意を察することはできない。やすらいでいるのか。あるいは。

 しばらく蝉の響きに耽っていた操はふと目蓋をあげ、津雲をみて、なにかを言いかける。


「津雲さま、僕は……」


 何事かを続けようとして、言葉が絶えた。こみあげた咳のせいだ。会話の最中に咳をすることはこれまでにも幾度かあったが、いつもとはまるで様子が違っていた。津雲が背をさすろうとするが、操は首を横に振る。


「いい、んですっ……どうか、はなれて、いて」


 見れば、てのひらが赤く濡れていた。

 喀血かっけつしている。

 傍らに置かれていた茶碗をひっくりかえして、操がもがき続ける。喉からあふれる夥しい量の血潮が、細い指のすきまからぼたぼたと垂れた。呼吸ができないせいか、おぼれているみたいに操は胸を掻きむしる。あふれてしまう、命の雫が。

 操の肩に腕を添えて、津雲はやせ細った身体を支える。意識が遠くなっているのか、操はおとなしく津雲に身を委ねる。怒涛のようにこみあげる咳は尋常ではなかった。どうしてやるのがよいのか、津雲にはわからない。


「大丈夫ですよ、大丈夫ですから」


 ただ声を掛け、背をさすり続けた。

 操は身をよじりながら、津雲の腕をつかんですがりついた。紅潮した頬は涙と血のまざったよだれにまみれて、ひどい有様だった。こうなってはこちらの声が聞こえているのかさえ疑わしいが、それでも津雲は繰りかえし、呼び掛けた。


「しっかりしてください、操さん」


 操が激しい咳のあいまに、なにかを伝えようとする。だがなかなかに言葉のかたちにはならず、ごひゅうごひゅうと喉につかえた血の塊が震えるような音の繋がりばかりがはきだされた。諦めずに顎をかくかくと動かして、操はやっと、言葉の断片を落とす。微かなつぶやきをひろい集めた津雲は目を見張り、あまりの傷ましさに様相をゆがめた。

 それは、さきほど言いかけた言葉の続きだった。

 問い掛けでもあり、募らせてきた悔恨でもあり、操の影でもあった。

 いわく――。


「僕は、生きて、いないほうが、よかったです、よね?」


 なぐさめや励ましなどは浮かんでこなかった。

 津雲がどれほど気の利いた言葉をかけても、意味はないのだ。津雲はしょせん、他人だ。すがるような問い掛けにこたえられる者は、ここにはおらず、いまやその縁さえ裁たれているかもしれぬのだ。


 咳がとまったのは操が意識を失った後のことだった。

 操は津雲の肩に頭を乗せるようなかたちで気絶してしまった。死んでしまったのではないかという焦燥が津雲の頭をもたげたが、細い息が津雲の髪をかすめ、ほっと胸をなぜおろす。津雲の羽織にまで血潮がしみていた。どれほどの命の雫が溢れてしまったのか。残りは、どの程度なのか。


 静まりかえると、ひぐらしの声が耳をかすめていった。黄昏が迫っている。


 津雲はすっかりと気崩れた襟もとに指を差しこんで、おもむろに筆を執りだす。これくらいならば、理に影響をおよぼすこともあるまいとみずからに言い聞かせて、津雲は操が吐き続けた血の溜まりに筆先を落とす。

 縁側に溜まった血を吸い、筆の穂先はまるまると膨らんだ。

 身体をひねり、障子に直接筆を走らせる。


「縁」


 複雑な形象が書かれた。

 糸を縒るようなかたちの右側に添えられたそれは、なにを表す象形なのか。水車に巻き取られる縄か。移ろい続ける時世は急流に例えられる。なれば、人の縁とは流れに揉まれ、漂い続ける糸だ。激しい波に揺られながら、糸は繋がれる糸を捜して、かたく結びつこうとする。もとは細い糸だが、情けを重ねて縒り続ければ、ふとき縄にもなる。されど情が絶えれば、あとかたも残らぬ。あるいは縁を持ったが故に、急流のなかで縺れ、愛が憎となり、好意が反感や嫌悪に裏返ることもある。もとから縁がなければ、そうはこじれなかったものを。

 津雲は、縁の真を導きだそうとする。

 すなわち、操と善吾を繋ぐ縁の現在の有り様を。

 

 漢字はどろりとかたちを変える。

 導きだされた真実に、津雲は細い息を洩らした。


「……そう、だったのですね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る