其の弐 《蜉》
朝に吸って出掛けたきりだった
暑さがむわりと畳の香りを濃くする、どこか重い晩だ。
朧もまたおなじ心境なのか、眉を寄せて、黙っていた。夕餉の茶碗や箸をかたづけてから、朧は畳にすわり、積んであった書を弄んでいた。読むでもなく、かといって他のことをするでもなく、時々に影を睨んではため息をつく。
「かれは、元気だったかい?」
やがて朧は、津雲にそう尋ねた。
かれ、というのが誰を指すのか。主語を抜けた問い掛けでも津雲は瞬時に解す。ならば、元気だったか、とは精神のことだ。操は長らく患っており、健康には縁遠い。それはかかりつけの医者である朧が一等、理解しているはずだ。
ようは操が津雲に馴染めたかどうか。
「そうですね。あどけなくはしゃいでいましたよ。なんでも優秀な職人の兄がいるとか。思い出話をあれこれと語ってくれましたよ。操さんは兄を敬愛なさっているのですね」
「そうか、それはよかったね」
朧が立ちあがり、窓際に寄る。
津雲が朧を見かえすと、朧は顎で端に詰めろとうながす。津雲が右側に寄ると、朧はすとんと腰掛けた。煙管から立ちのぼる煙をまともに吸いながら、朧は表情ひとつ変えずに、実はね、と切りだす。
「その操の兄弟――
春からとなれば、それはすでに滞納ではなく、未納だ。
「それを……操さんはご存知なのですか?」
「いや、旅籠の要脚は旅籠に、治療費は僕に直接送られてきているから、操は気がついていないよ。便りも春から途絶えているはずだが、操は善吾を慕っているからね。仕事が慌ただしいのだと疑わないよ」
善吾の身になにかがあったのか。金策がつかなくなったのか。あるいは快復することのない弟を見捨てたのか。事情がどうであれ、今後金銭が送られてこないようであれば、それなりの決断をしなければならない。
人をひとり養うのには銭が掛かる。食費から宿賃まで、善吾から一銭も支払われないとなれば、旅籠が負担することになるのだ。まして、あの旅籠は繁盛していない。他人を養うのは難儀だろう。
勿論、それは朧とておなじだ。漢方薬とは言えど、材料はただではない。そのあたりの森や野から採取できる薬草はかぎられている。労咳に効果的な薬ともなれば、各地から漢方を取り寄せなければならない。生業として町医者をいとなんでいるかぎりは、銭を払えない患者に薬を飲ませる義理はないのだ。
しかしながら、操だ。
あの純真無垢な瞳にどうして、真実を言えようか。銭が途絶えたからといて、かれを放りだしてよいものか。実の兄弟からきり捨てられたのだとすれば、かれは真にひとりきり、誰に顧みられることもなく、死に絶えることになってしまうのだ。
それはあまりにもむごい最後だ。
「君ならば、どうする」
操があどけないから。
毎晩死の恐怖に曝されながらも、操の瞳は綺麗だから。
良心の呵責になやまされる。
「……あたしならば」
津雲は最後まで言わずに、煙をぽかりとはきだす。
沈黙に
朧は黙って、鼻背に皺をきざむ。それから微かに頷いた。
「そうだね。他人など、重すぎる」
兄は、実の弟を棄てたのだろうか。あれだけ兄を慕っていた弟のことを。
幾年も言葉をかわさず、逢うこともなければ、愛は薄れていく。まして京の都に身をおいて、様々な縁に恵まれていれば、なおのことだ。妻を娶り、赤ん坊ができれば、かわりにきり捨てなければならないものもできる。愛していた弟も他人と変わらなくなり、やがては、ただの荷物になりさがる。
されど、それは、誰に責められることでもない。
世の荒波を渡るには、他人をきり捨てないと転覆してしまう。
人は重い。人生に乗せられる人数にはかぎりがある。他人を踏みつけても、大事なものを護る――それがこの時代を生き抜くということだ。
生と死の境界を渡る
「旅籠の夫婦は、かれが息をひき取るまで、世話をするつもりだとか。薄情そうに振る舞っていても、結構義理堅い夫婦だからね。それに」
朧は表情を陰らせる。
「長くもって、後半月程度だよ」
「それほどまでに容態が悪いのですか」
「ああ、君の来訪を喜んで、元気を取りもどしていたみたいだがね。春頃から急激に病が進んで、重篤な発作が続いているのさ。そう、ちょうど、支払が途絶えた頃からね」
煙を払いのけ、朧が立ちあがる。
振りかえらずに、かれは続けた。
「これは果たして、偶然かな」
仲睦まじかった兄弟の姿は、すでに過去のものとなった。優秀な職人となった兄が、足手纏いになる弟をきり捨て、あいつさえいなければ、と呪いを掛ける。それが真実だとすれば、時の流れはあまりにも無情だ。
「明後日、かれに余命を告げるつもりだ。君もついてきてくれるね?」
煙管が燃えつき、煙はたちまちに細くなる。
味も香りもなくなった煙管をまだ、津雲はくわえていた。ふわりと、靄のようなものが、津雲の側をすり抜ける。名残の煙かと思ったが、振りかえれば、朧の指に
「蜉蝣ですか」
「果敢ないね」
蜉蝣は朝に産まれ、夜に寿命を終える。
この蜉蝣も、恐らくは朝まで飛び続けてはいられない。
「この蜉蝣を森に帰すのも、僕が握りつぶすのも、変わらないか?」
津雲が驚いたように瞳を瞬かせる。だが、その意を汲んで、津雲は青ざめた唇の端を持ちあげた。頬をひきつらせるような微笑をたたえて、かれは静かに言った。
「まだ、死に時ではありません。蜉蝣も、かれも、それからあたしも」
蜉蝣が音もなく、舞いあがる。ふらふらと漂いながら、蜉蝣は窓をくぐり抜け、闇に紛れた。後は蛙の声が響くだけである。
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