其の壱 《蝉》

 信楽焼の茶碗に湯をそそげば、柔らかな茶の香がふわりと漂った。

 暑い夏の午後でも、茶の香は一時、涼をもたらしてくれる。

 茶を淹れていた男は夏物の長羽織を纏っていた。黄緑のはさわやかだが、蝉の喧騒が絶えず降りそそぐこの季節に羽織そのものが暑すぎる。さすがに羽織紐を結ぶことはせず、肩に掛けているだけのようだ。袖を引掛けてしまわないように気をつけながら、男はふたつの茶碗を盆に乗せた。

 こんこんと、縁側から咳をする声が響いてきた。

 板張りの廊下を抜け、男は盆を持って、縁側にむかった。

 日陰の縁側には幼さの残る若人が腰掛けている。齢は十五前後だろうか。肌襦袢はだじゅばんのような寝巻を羽織り、ぼんやりと青葉に蜻蛉とんぼがとまるのを眺めている。咳はおさまった様子だ。だが依然、顔色は優れない。痩せているせいか、頬骨が影を集めて際立っていた。いや、やつれているというのが正確か。重い病を患っていることが、それだけでも見て取れた。


「お待たせしました」


 かちゃりと、盆を縁側の端に置いた。

  

「御客人に茶を淹れさせてしまい、面目次第もありません」


 彼は茶を受け取り、恐縮して頭をさげた。

 

「いえいえ、こちらは漢方薬をまぜてありますので、すぐに咳がおさまると思いますよ」

「ありがとうございます。ろう先生の薬には毎度助けられています」

 

 茶碗を傾け、ほっと穏やかな微笑をこぼしたその若人わこうどは、みさおと名乗った。

 姓を名乗らなかったところからして、武家の者ではないようだ。問屋か、職人か。操がこうして穏やかに養生できていることから考えれば、親族がそれなりに稼いでいることは窺えた。そうでなければ、労咳ろうがいの患者とは言えど、このように落ち着いて暮らすことはできない。


「あの、津雲さま」

「なんでしょうか?」

「こうして僕とならんでいても、真に、大事にはなりませんか?」


 あらためて懸念するように尋ねられ、津雲は穏やかに微笑んだ。


「どうかお気遣いなく。あたしは、病とは無縁なので」


 実に信じ難い言葉だったが、決して疑わせないような強い響きが、津雲の声にはこめられていた。操は瞳を輝かせて、頬を緩める。

 労咳は感染する。故に患者は町を離れ、静かに療養するのだ。操もそうであるように、患者は呼吸困難や胸の激痛などの疾患を抱えながら、孤独とも戦わなければならない。操は患ってからというもの、他人との接触を絶ってきたので、教養は身につけているが、どこか世慣れていないところがあるようだ。薬を配達してきたとは言えども、突如訪問してきた町医者の助手を名乗った津雲を疑いもせずに受け取れたことからも、そのことがあきらかだ。騙すつもりはないが、どちらかといえば疑われることに慣れている津雲としては落ち着かない。十五と言えば、武家ならばとうに元服。庶民でも成人の儀を終える年頃だというのに、童を相手にしているような心地だった。


「それに致しましても、まさか、先生が助手を雇われるとは。先生は、あの、気難しいと言いますか、ずいぶんと変わった御方でしょう。どなたかと親しくなさっている様子など、想像がつきません」

「確かにそうですねぇ」

「あ、ですが、人望がないということではありませんので、どうか誤解なさいませんように。先生は町の者から信頼され、慕われております。僕もおなじく。ですが、その、先生はどこか、他人と親しくなることをいとうておられるような節が見受けられますので」


 硬い言葉の選びかたからは、喋り慣れていないのがわかる。懸命に言葉を選びながら、操はそのようなことを言った。津雲は「ほお、左様ですか」と相づちをうちながら、操は案外勘がするどいのだなと思った。


「どのような御縁で助手につかれたのですか」

「実は、朧先生とは昔から縁がありまして。なので、ただしくは助手というわけではなく」

「ご友人ということですか」

 

 驚いたように操が声をあげる。


「そうなりますね。朧先生からは、ただの腐れ縁だといわれそうですがね。暇な時にちょいと薬の配達を手伝っているだけですので、医者の助手と名乗れるほどの心得はないのですよ」


 言いながら、津雲は森に視線を流す。

 夏椿が植えられた質素な庭をはさんで、森林があった。

 ここは江戸の郊外だ。側に大規模な墓地があることを除けば、これといって特徴のないのどかな地域である。森林を道なりに進めば、街道に抜け、旅籠はたごや茶屋がならんでいるものの、内藤新宿ないとうしんじゅくほどに賑やかではない。

 客のまばらな旅籠の一軒、その離れがここだ。

 操は労咳を患っていることが発覚した十年前からここに預けられており、長期宿泊客というかたちで滞在し、食事や掃除などの面倒をみてもらっていた。もっとも旅籠の女中らは労咳がうつることを恐れ、操と直接顔をあわせることを避けている。細々とした掃除は調子がよい時に操みずからしているし、食事は縁側に置いてもらっているとのことだ。

 現在、労咳にたいする確実な治療法は見つかっていない。快適な環境で養生に努めるのが最善とされている。だがそれは、あくまでも延命措置にすぎない。労咳を気の病と決めつけ、遊郭に入り浸る生活を推奨するものもいたが、素人の目からみても善い治療法とは思えなかった。だが他に打つ手がないのだ。


「ここはよいところですね」

「ええ、実にのどかなところでございます。このようなところに暮らしているのですから、患いなどなおってもよいものなのですが、なかなかそうはいきませんね」


 操は憂い、眉を寄せた。

 会話を繋げようと、津雲が当たり障りのないことを尋ねる。


「普段は、なにをなさっているのですか?」

「たいしたことはできませんが、和歌を嗜んでおりまして、そちらを楽しみながら日がな一日を過ごすことが多いでしょうか。和歌でしたら、寝転んでいても読み書きができますゆえ」

「読み書きができるのですか」

「僕は寺子屋にはいけませんでしたが、兄様あにさまに教えていただきました」

「ほお、ご兄弟がいらっしゃるのですね」


 操がぱっと瞳を輝かせる。


「兄様はたいそう腕のよい欄間らんま職人なのです。僕はまだ実際に拝見したことはありませんが、都にて寺を建てるとの話があがれば、かならず兄様のところに依頼がくるほどの腕前とか。いまは京の都にて休む暇もなく働いておられます。親はすでに他界しておりますので、いまとなっては兄様が唯一の家族でございます。僕がこうしていられるのも、兄上が働いてくださっているおかげさまと、幾度感謝してもたりません」


 言葉の端々から、兄にたいする敬慕の念が滲んでいた。

 茶碗を握りしめて、操は兄がどれほど素晴らしい職人なのかを語る。あれほど青ざめていた頬は、程よく熱を帯びていた。薬が効いてきたのか、あるいは気分が高揚しているからか、さきほどにくらべて、体調がよくなってきているようだ。話し相手になった甲斐もあると、津雲は瞳を柔らかく細めた。


「お兄様のことを慕っておられるのですね」

「はい、自慢の兄様ですから」


 操はあどけなく笑った。

 親兄弟をこんなにも誇らしげに語れる者はそうはいない。褒めていても、どこか無理があったり、旦那や親の権威を笠に着る者もいる。あるいはそれとは逆に、昨今身内のことを褒めずにけなすのが礼儀という風潮もあるが、津雲はそれを好んでいなかった。妻や兄弟、実の息子や娘にたいする悪態は聞かされる側としても気分が悪く、相づちひとつにも気を遣わなければならない。兄を慕い、素直に誇る操には好感を持てた。


「兄様は江戸を離れ、京の都に居を構えておられるので、なかなかお逢いすることはできませんが、便りをくださいますので、さみしくはございません。僕も便りをしたためては」


 操が言葉を詰まらせて、こんこんと咳をする。

 気遣いはいらないと教えているにもかかわらず、操は口許を押さえて、背をまるめた。咳がおさまってからも、すみませんすみませんと繰りかえす。


「大丈夫ですから、どうかお気になさらず」


 津雲がなだめると、操は頭をさげた。

 優しく善良で、細やかな配慮もできる。健康であれば、実兄と変わらず優秀な職人になれたに違いない。操を傷つけないように言葉を選んで、津雲がそのように言えば、かれは耳まで紅潮させてうつむいてしまった。


「めっそうもございません。ですが、そう、もしも、僕に患いがなければ、僕は兄様の助手になりとうございました。僕は兄様のような職人にはなれぬでしょうが、兄様の側にいてお手伝いをして、きっときっと、幸せな暮らしができたことでしょう」


 操は夢をみるように語る。

 笹の葉に提げる願掛けのようにかなえられる宛てのないそれは、願いというには諦めの色が濃かった。他の人間からすればあたりまえに実現できることでも、かれにとりては、どれほど強く願おうとかなえられぬ夢まぼろしだった。


 されど悲しみながらも、操は津雲が驚くほどに静かな眸をしていた。

 かれは受けとめている。今晩にも激しい発作があって、ひとり、命を落としてもおかしくはないのだとかれは理解し、例えそうなってもそれを天命として受けとめると決めているのだ。何者も憎まず、何ごとも怨まず。

 それほどまでに重い病を、かれは幼い頃からずっと患い続けてきたのだ。

 

 津雲は睫毛を傾ける。操の境遇をみずからの宿命に重ね、津雲はなんとも言い難い感情を抱いていた。憐れみというわけではなく、例えるならばおなじ死のにおいを嗅ぎわけるようなものだ。

 だが、津雲にはかれを助けることはできない。津雲は医者ではなく、実際に町医者である朧でさえも労咳を前には匙を投げていた。延命、つまりは発作の頻度をさげたり、胸の激痛を緩和するのが限界だと。労咳に効果のある薬を調剤できるだけでも、朧はきわめて優秀だ。


 津雲がなにごとかを思案して、顎に指をやる。数秒黙り、不意に唇を割ったかと思えば、このようなことを言った。


「二年」

「え?」

「あたしの寿命ですよ」


 しんと、急に蝉が静まりかえる。

 どんぐりのような操の瞳がことさらにまるく、見張られた。前触れもなく打ち明けられた真実に、どのような言葉をかえせばいいのか、わからない様子だ。津雲が気を遣って嘘をいっているのだと考えたのか、唇の端が笑おうと試み、けれど津雲の静かな視線にああこれは偽りではないと理解して眉を曇らせ、操はあれこれと表情を移ろわせる。間の抜けた表情をからかうように津雲が笑えば、やはり嘘だったのかと操は息を洩らす。


「ご冗談、ですよね」

「真ですよ」


 津雲は瞳だけで微笑んだ。


「さすがにここまでたちの悪い冗談は、あたしとて言いませんよ」

「え……ですが、病とは無縁だと、さきほど仰られたではありませんか!」


 操がいまにも涙を落としそうなほどに頬をゆがめる。


「患っているわけではありません。敢えていうならば、ええ、呪いでしょうかね。あたしは、まだ寿命が長いほうですが、それゆえにいつ寿命がつきるか、わかりません。二年というのは運よく生き延びた時のことでして、案外今晩あたり、ぽっくりと息絶えるやもしれません」

「そ、そんな」


 操は衝撃を受けたようだ。

 津雲が続ける。 


「ですが、そんなことは構わないんですよ。人はいつか、死ぬものだ。生まれた時から死にむかって進んでいく。それは、いかなる言葉を重ねても否定できない事実です。偉人であろうと乞食であろうと違わず、最後にはかならず待ち受ける現実なのですよ。故に嘆くのならば、死ではなく生を嘆くべきなのでしょう。いつ、どのように死すかよりも、なにを考え、なにをおこない、いかに生きるか――ですよ」


 津雲は静かに語ってから、からになった茶碗を盆に乗せた。操の茶碗も受け取り、「おかわりをご用意してきます」と縁側を後にする。いまの重い話を終わらせるためだ。


 津雲はすぐに操のところに戻ってきて、あらためて他愛のない話題を振った。

 操も津雲の気遣いを覚り、つらつらとなにげない話を続ける。森で見掛けた動物の話に始まり、縁側に飯の残りを置いておいたら雀がいっぱい集まってきただとか。冬に雪が積もると、昔兄様と走りまわって遊んだことを想いだすとか。

 津雲がどのような話を振っても、操の口からは兄との思い出話が零れ、それがなんとも微笑ましかった。

 ふたりの穏やかなやりとりに蝉がまた、声を重ねる。遠くからは郭公かっこうのおどけた囀りが響いて、時々会話のあいまに挟まる沈黙さえ柔らかなものに変えてくれた。

 津雲は程よく頷きながら、話を聞くのに徹していたが、操がもとめれば旅の話をいくつか語って聞かせた。津雲の旅は不穏なことばかりだったが、そのなかでも、こころやすらぐ話や各地の風景のことを選んで、喋る。



 気がつくと、青空は紫の夕焼けに染められていた。

 いまから帰っても、夕飯に間にあうかどうか。


「それではあたしはそろそろ、お暇しますね」


 津雲が重い腰をあげると、操がその袖をつかんだ。


「どうかなさいましたか?」

「あ、すみません……その」


 操は慌てて、羽織の袖を放す。だが視線はすがるように、羽織のすそを眺めていた。ずいぶんと言い難そうにしていたが、操は腹を決めるようにその言葉をきりだす。


「その、また、訪ねてきてくださいますか?」


 約束は。

 津雲は言いかけて、言葉を飲んだ。

 約束は呪いになるのだと、そう教えても、操には理解できないだろう。破らなければ、なんの問題もないのだが、互いに明朝の健康さえも保障できない身だ。津雲か、操のどちらかが倒れてしまえば、約束は果たされない。


 どんぐりのような瞳が潤む。

 津雲はため息をつきかけて、それをこらえ、薄紙のような笑みを張りつけて惑いを繕った。


「その時にはまた、お兄様のお話を聞かせてくださいね」


 訪ねてくるとは言わず。こないとも言わず。

 期待だけを、残す。

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