其の伍 《昔日 斯くて流転せしめる》
語り部は静かに唇を結んだ。
津雲の声は時々微かに震えていた。背中合わせですわっているので、朧には津雲の表情が読めなかったが、それでもその声の機微から感情の変移を感じ取ったのか、朧が視線を彷徨わせた。
「とうにすぎた過去のことです。気を遣わないでください」
朧が慰めを言葉にするのを待たず、津雲が言った。
「そうだね。ただの昔話だよ。僕にとってはね。だが、誰かさんからすれば、いまだに続いている、現在のことだ」
言司という――恐るべき神通力を携えた鬼の一族は、歴史から抹消された。しかしながら、言司一族は絶えたわけではなかった。集落が襲撃を受けた際に幾人かの言司がおろち連峰の裏側へと逃げ延びた。血脈は細々と、現代まで受け継がれてきたのだ。だが、いまや言司の血脈を受け継ぐ者は津雲のみとなり、言司のちからもずいぶんと衰えている。天候を操ることもできなければ、予知の能力もない。
津雲だけが、言司の生き残りだ。
「それにしても、君は君の祖のことを見てきたように語るのだね」
「知っているのですよ。事のあらましは、あたしの、いえ、かれらの子孫の血脈に残されています。時を経て、ところどころ、記憶が抜けてきてはいますがね」
「奇妙なものだ。自分ではない者の、記憶を宿しているだなんてね」
「ええ、ですが一部は自分の記憶やもしれないと、あたしはそう考えています」
どういうことかと朧が振りかえる。
「輪廻転生というやつですよ」
「なるほどね」
「信じますか?」
朧は複雑そうに眉を動かして、「まあ、五分かな」と言った。
「言っておくが、君が言わなければ、僕は九分九厘信じないよ。君が言うから五分。僕にしては信じているほうだね」
「そうでしょうね」
津雲は微かに笑った。
「言司の集落を滅ぼしたものがいったいなんであったのか、真実を知る者はおりません。生魑の一種だったのか、それとも正真正銘の呪詛だったのか……あたしは、呪というものの実在については疑っていますが、当時の言司ならば、それだけの能力があったのではないかとも考えています」
「だが、君の先祖はなぜ、抵抗しなかったのだろうね。それだけのちからがあれば、諍い、生き残ることも難しくはなかっただろうに」
「これがさだめだと、受けいれていたのでしょうか」
朧は理解できないと肩を竦めた。
「言司の一族はそうだったとしても、呪司はそうではないだろう。呪司は自身の腕が腐り落ちることを予測できなかったのかね。もしかすると、筆を握れなくなる前から呪司の言司としての能力は、衰えていたのかもしれないよ。倭朝廷が言司にたいする危機感を再燃させたのは、朝廷がかかえている軍の衰退がもとだと考えれば、まだ納得できる」
「なるほど、朧さんが仰るとおりですね。あたしは、言司の能力を観ているうちに恐怖が募ったのではと考えていましたが……」
不意に黙り、津雲は耳を欹てた。
誰かの足音が聞こえてきたせいだ。足音の重さから推測するに童子だろうか。急いでいるようだが、それにしては近づいてくる速度が遅い。耳をすませば、女童のしめった咳が鼓膜を震わせた。
来訪者が遠慮なく、戸をたたいた。
「先生、先生! おったら、返事して!」
朧はわざとらしく溜息をついて、立ちあがった。居留守を決めこむと言っていたのにもかかわらず、実際に呼びかけられると無視できない。不実をよそおっていても、根はまじめなのだ。かんぬきまで締めていた戸をためらいなく、がらりと開ける。
襤褸を着た童が、ひとまわりほど幼い女童と一緒に立っていた。
「先生! 今朝から、おつるの、妹の咳が止まらんで! 熱もあるみてぇで!」
「説明は後でいいから、取りあえず入れ。もう夕暮れも近い、蚊が入るじゃないか」
朧にうながされ、ふたりとも草履を脱ぎ、畳にあがってきた。
童の表情はいまだ雲っているが、朧がいてくれたことに強く安堵しているのが津雲にも窺えた。朧は異人だが、町の者から驚くほどに信頼を寄せられている。それは、偏に朧が町医者としてあげてきた功績によるものだ。かれは実に優秀だ。それになんだかんだと言葉に棘はあるものの、ちゃんと誠意をもって治療にあたってくれるところが好感をもたれるのだろう。
「ただの夏風邪だよ。用心するに越したことはないがね」
診察してから、朧はふたりに漢方薬を渡す。薬をもらい、男の童は僅かばかりの銭を差しだした。医療にたいする支払いは銀何匁で払うのがしきたりだが、見るからに貧しそうな童の手に握られていたのは錆びかけた銅銭だった。
「こいだけじゃあ足りねぇかな?」
「いや、充分だね」
朧は眉の端さえ動かさず、それを受け取り、釣銭まで渡す。津雲はすくなからず驚いて、そのやり取りを眺めていたが、昔から変わらないと目を細めた。
頭をさげて、男児はまだぐったりしている妹の頭を撫ぜた。
「労咳かと思うて、肝が冷えたべ」
「労咳? ……ああ、かれのもとに行ったのか」
労咳とは未だ治療法が見つからない不治の病だ。
微熱や食欲不振、咳嗽からはじまり、段々と咳がとまらなくなって喀血する。呼吸ができず、喉から血を溢れさせる発作を繰りかえしていくうちに身体が衰えていき、死に至る。労咳に罹り、若くして死去する人間は後を絶たなかった。それに労咳は移る。故に患者は隔離され、孤独に死を待ち続けるしかない。
朧が抱えている患者にもひとり、労咳を患った若人がいるという話は、津雲も聞き及んでいた。
「なあなあ、先生のおくすりでは、にいを助けてやれんの?」
「残念だけれど、無理だね。僕にできるのは苦しみを和らげてやることくらいさ」
朧は言葉を濁さなかった。
泣きべそをかくように顔をゆがめて、男の童が肩を落とす。
助かるよと、言ってやることはたやすい。だが朧は、優しい嘘をつかなかった。無駄な希望は持たせないというのが、朧の信条だ。それは患者にたいしても変わらなかった。快復の望みがあれば、かならず助かると言葉をかけるが、希望もないのに励ますというのは不実だ。励まされるだけで快復するのならば、口八丁の藪医者を尋ねるか、霊媒師にでもすがって祈祷を受ければいいと、朧は常々語っていた。
「ありがとうごぜえました」
最後に一礼すると、童は妹を連れて庵から去っていく。
後ろ姿が遠くなってから、朧が重い溜息をついた。
「より正直に云えば、楽に死なせてやるというのも、なかなかに難しいのだけれどね。労咳は孤独との戦いだ。薬を飲ませ、発作の頻度を減らして、肺の痛みを和らげることはできても、孤独までは癒せない。悪いけれど、僕だって長生きしたいのさ」
「では、あたしが患者さんのお相手をしましょうか?」
意外な発言に驚き、振り返った朧と視線を合わせて、津雲は微笑んだ。
「なに、あたしは疫病とは無縁なので」
紫がかった唇の端が柔らかく持ちあげられる。
病と無縁。患いに侵されないかわりに、津雲は遥かに重いものに蝕まれているのだ。
だが憂いを滲ませずに、あっけらと微笑んでみせる津雲に、朧は僅かに頬をゆがませた。朧は津雲の微笑から視線を逸らす。畳の隅にわだかまった影を睨みつけて、朧はなにも想っていないようにこう尋ねた。
「本業はいいのかい?」
「ええ、そちらは臨時休業ということにしてしまいましょう。ここ数日、生魑と関わりすぎて体調もすぐれませんでしたから。それに、たまには貴方の助けにならねば、ただの穀潰しですからねェ」
「君に迷惑をかけられるのは昔からだ。いまさらだろう。体調が優れないのならば、休めばいいよ。酒と休息は、万病の薬だね」
朧の言葉に津雲は苦笑いを浮かべ、首を横に振る。
「じっとはしていられない性分なので」
そういった津雲の眸には、蝋燭がゆらめいていた。
蝋燭は、ぞくりとするほどに短かった。爆ぜるように燃え続けているのに、光は果敢ない。青い人魂のような焔は、されど、確かに浮世の闇を暴きだすのだ。果たして、いつまで燃え続けるのだろうか。果たして、いつまで燃やし続けられるのだろうか。生き急ぐかのような蝋燭を前にして、なにひとつできず、拳を握り締める朧の心情など知りもせずに。
蝋がまた一筋、蒼ざめた肌を流れていく。
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