其の弐 《昔語 上》

「それはこの地が言霊の幸ふくにとたたえられていた頃おいの、史実でございます。綴り言霊をつかさどる一族が、ひっそりと暮らす里がありました。里が如何なる地にあったのか、正確なる地理には残されてはおりません。一族の由緒は史実の影に葬られ、すでにそのような里が在りたことさえ、知り及ぶ者は残すところ、ひとりでございます。


 里は、群峰に囲まれた盆地に在り。連なる山嶺の数は八つとも、到底数えきれぬともされており、八頭の雄々しき龍神が横たわっているが如き様子から、峰は《おろち連峰》との雅称で親しまれておりました。その高さは富士の山を凌ぐほどであったとか。

 山は神域であり、神の導きなくしては登拝してはならぬという信仰は現在でもある程度根づいておりますが、その頃は現在にも増してそうした意識が強く、この連峰を登ることは断じてならぬと決められていたそうです。

 一族が暮らしていたのは連峰の麓であり、それはそれは豊かな暖地であったと言い伝えられています。春には雪融けの清流が田畑を潤し、皐月の声を聴けば、他の如何なる地よりも早く、栴檀せんだんが淡い紫の花弁をたわわに咲かせた。暖かな地でありながら夏は過ごしやすく、峰を吹き抜ける風はすがらかな涼を運んだ。秋はあけびや栗などの実が食べきれぬほど実り、魚は肥えて、人だけではなく鳥獣も決して飢えを知らなかったといいます。雪が静かに降り積もる冬は短く、秋の蓄えが少なくなる頃には春の足跡が聴こえていた。


 その地に暮らしていたのが、一管の筆をもって森羅万象を操る言霊の一族でありました。


 かの一族はみずからを《言司ことつかさ》と称す。


言司ことつかさ》は親族の髪を筆とし、みずからの血潮を墨ともちいて、異質なる文字を綴った。それらは筆言霊ふでことだまと称され、いかなる神代文字とも異なるかたちをしていた。かれらが書きだす言霊は天候を操り、天変地異を予見し、隠蔽された真実を暴いた。人肌に直接筆を走らせて、狐憑きや狗神憑きの類を祓うこともあったと言います。

 その能力故に言司は一時期、神言の一族と敬われ、数えきれぬ人々が里に集った。言司は神にかわって、救済をもとめる総ての民草に慈悲とかたちある奇跡を授けることを望まれた。あるいは倭朝廷に服すれば、贅のかぎりをつくしても尽きることものない富が与えられるはずだった。だが言司は望まれる儘に言霊を揮うことを拒んだのです。

 神と同等の扱いを望まなかったのか。或いは総てを救済だけの御力は持ち合わせていなかったのか。かれらの真意はさだかではありません。

 想像するに、理を崩すことを拒んだのではないかと。私がその立場ならば、そう考えます。人にはそれぞれ、業があります。幸であれ、不幸であれ、なるべくして、なる。業の糸が縺れたのならば、それを質すのが道理であって、結びなおした結末が如何になろうと他人が変えてよいものではありません。


 ですが、勝手に期待を寄せ、それが勝手に裏切られたに過ぎずとも、人間は相手を憎むことができる生き物だ。


 次第に人々の言司にたいする信仰は薄れ、嫌悪だけが募った。

 言司はいつしか、《鬼の一族》と疎まれるようになった。


 朝廷に隷従すればまだしも、その権勢が及ばないとなれば、絶大な異能を携えた一族など、朝廷の脅威です。朝廷は言司を異端と罵り、《蝦夷えみし》という蔑称をつけ、征討した。この蝦夷というのは倭朝廷に帰属しない部族全般であり、言わばまつろわぬ民のことを差します。かならずしも言司のことだけを示すわけではありません。列島の東側に棲むものを《蝦夷えみし》西側に棲むものを《熊襲くまそ》《隼人はやと》と分類しただけのこと。この段階ですでに、言司の名称は歴史から排除されています。

 半数を超える言司が捕らえられ、獄門となった。


 集落を焼かれ、僅かに生き残った言司の一族は、山の神の許しを得て、おろち連峰の深くに至り、隠れ棲むようになりました。


 おろち連峰に逃げ延びた一族を捜すこともできたはずですが、朝廷はなぜか、殲滅せよとの命令はくださなかった。禁足地を荒らすことで祟りを受けると恐れたのか、あるいは想像していたより遥かにたやすく一族を処刑できたことで、言司など恐れるに足りぬと考えたのかもしれません。

 言司は抵抗しなかった。諍おうとはせずに逃走をはかり、捕まって殺された。最後まで、筆言霊のちからを揮うことはなかった。

 それだけでは捜索しない根拠にはなりませんか。


 実はもうひとつ、重大な訳があるのです。

 

 迫害に堪えかねた一部の言司は、倭朝廷の軍門にくだった。呪司のろいつかさと名乗り、朝廷に隷従する道を選択したのです。かれらは、服従の盟約と引き換えに、宮中にて悠悠自適な暮らしを得た。

 後に生き残った言司が逆襲してきても、朝廷には恐れるいわれはなくなりました。言には言。対抗できる手段を得たのですから。


 斯くして、言司の一族は、人心ひとつで神から鬼にまで貶められたのでございます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る