《本筋之弐》
其の壱 《夏日影 巻物解きて》
夏山の影をしげみやたまぼこの道行く人も立ちとまるらん
紀貫之 拾遺集
蝉噪が遠くから聴こえてきた。
夏に差し掛かり、昼が巡るごとに強くなる日差しが
青空には入道雲がぽっかりと浮かんでいた。
都界隈では涼を欲して、風鈴が軒に提げられ、打水が始められる季節だ。
そんな夏の正午。
木戸も障子も締めきった庵は息が詰まるほどに蒸し暑かった。耳を澄ませば、庵の側を流れるせせらぎの音が聴こえるのだが、これほど暑くては涼を運んではくれず、遠い蝉のさざめきと重なって、なまぬるく澱んだ水の底に沈みこんでいくようで気が塞いだ。肌に藻が絡みつくような感触は現実のものではないが、段々と浅くなる呼吸は気のせいではないはずだ。暑さに煮えた空気を肺が受けつけないのだ。
津雲は体調が優れないのか、壁に背中を預けてうずくまっていた。
朧は朝餉を取ってから、休息を挿まずに巻物に向かっていた。
始めは文机で作業をしていた朧だが、徐々に脚が崩れ、最後には畳にうつぶせてしまった。体温が畳に滲みだすと、涼をもとめて寝返りを打つ。それを繰り返すうちに着物がずいぶんと乱れていたが、朧は気に止めていないようだった。
「あの、
久し振りに津雲が口を開いた。
「逆に尋ねたいけれどね、こんな密室で煙をあげるなど、悪いとは思わないのかい?」
「すみませんでした。それではせめて、窓の障子を開けませんか?」
汗をぬぐうように髪を掻きあげたが、津雲の肌に汗は滲んでいない。津雲は体質的に汗をかきにくい。だがそれは決して、暑さに強いということではなかった。熱が発散されることなく体に蓄積するので、昔から夏場は体調を崩しやすい。
「窓など開けてしまったら、居留守にならないだろう?」
朧は顔すらあげずに眉を顰めた。
「その前提からして分からないんですよ。医者ならば、居留守などするべきではないでしょうに。急患があったら、どうするつもりなんですか?」
「ばかだね。作業に集中している時に急患があるとわずらわしいから、留守を騙っているんじゃないか。前々から言っているがね、僕は面倒なことは嫌いなんだよ。集中してやっていることを他人の都合で邪魔されるなんて、論外だね。けれど、こうして窓も戸も閉めきっていれば、誰にも邪魔されないよ」
「暑さでゆだっても、ですか」
非難轟々な視線をそそがれ、朧は「だから言ったじゃないか」と溜め息をつく。
「いつものように、界隈をぶらついていれば、よかったのさ」
そうは言われても、外出する気分ではなかったのだから仕方がないと、津雲が無言で訴えた。ここ数日は審神司の仕事で町を走りまわっていた。昔からのことだが、津雲が動くと生魑絡みの事件がついてまわり、息をつく暇がない。たまにはゆったりと休養を取りたかった。それに窓を閉めきっているとはいえども、まだ夏になったばかりでここまで暑くなるとは予想していなかった。
津雲は静かに肩を竦めて、また壁にもたれて目蓋を塞いだ。
転寝ができるような環境ではないが、目を開けているのも億劫だった。寝るつもりはなかったのだが、疲れが助けてか、気がつくと津雲は眠りに落ちていた。
津雲の夢を破ったのは、遠慮がちに肩を揺する誰かの腕だった。
「おい、おいっ、津雲……大丈夫か?」
津雲が目蓋を持ちあげると、景色がゆがんでいた。
焦燥にかられたような朧の表情が津雲の目には霞んで映る。まだ思考がまわっておらず、津雲は親友の眸を呆然と見返すことしかできない。取りとめのない意識の水底にあって、確かなものは背筋をかける悪寒だけだった。暑かったはずが、いまは震えるほどに寒い。それは意識が浮かびあがるにつれて、回復するどころか、ひどくなっていく。
「夢を」
声が嗄れていた。
喉から舌の根までからからに渇いている。ようやっと、動かせるようになった指を持ちあげて、津雲は額に浮かんだ冷や汗を拭う。じっとりと濡れた感触に現実を確かめながら、かれはぽつぽつと続けた。
「悪い、夢を、みていたようで、すみません」
「いや、僕の方こそ、すまなかったよ。君の体質を熟知していながら察してやれなかった。いま窓を開けたから、直によくなると思うが。これ、飲めるかな」
「はい……いつもながら、ご迷惑をかけます」
渡された茶碗をかたむけ、津雲は喉を潤す。ぬるい緑茶だったが、漢方薬がとかしてあり、身体に染み渡った。ふぅと津雲が息を洩らす。
幾分か、落ち着きを取り戻してきた。震えは徐々におさまり、視界の霧はすっかりと取り払われた。
どんな夢を見ていたのか。なぜ、あれほど魘されていたのか。
朧は尋ねなかった。聞くべきではないと思ったのか、ある程度は想像がついたのか。かわりに数秒の沈黙を落としてから、朧がためらいがちに声を掛けた。
「巻物について、幾つかわかったことがあるよ。確信はまだ得られないが、いますぐに聞けるようだったら話すが、どうするかな?」
「是非に教えてください」
津雲の目が真剣みを帯びた。朧は首を縦に振る。巻物の紐を解き、隣に走り書きが綴られた紙をならべた。紙には漢字がちりばめられているが、筆がみだれているので、原文よりも暗号じみている。真新しい紙と黄ばんだ古紙を交互に眺めながら、朧が語り始めた。
「まずは
君の扱っているその特殊な文字言語を例にあげようか。確か、
「すみません、音節文字と表語文字の違いはなんでしょうか」
「君は言葉を扱う癖に、その程度も知らないのか」
「あいにくと
「わかったよ。君はそうだったね。
音節文字とは複数の字を繋げて、ひとつの意味を持たせる言語形態のことだ。単体では言語の意味を表さない。
それにたいして、表語文字は単体で一語の意味を有する。漢字と君の筆言霊はこの表語文字にあたるね。まったくおなじではないにしても、筆言霊が現在の漢字に関連づけられることは確かだよ。故に解読は、さほど難しくない。先秦漢字も同様だ。現在の漢字に直接結びつくことはないにしても、表語文字の形態を取っているかぎりは、法則にしたがって解読できる」
「結論を」
津雲の催促に朧は首を横に振る。
「急かさないでくれ。先秦漢字とは、秦の皇帝が言語を統一する以前のものだといったね。実は現在でもこの先秦漢字をもちいる部族は大陸の各地にいる。皇帝の権威がおよばないところなど、大陸にはいくらでもあるからね。だが、あともうひとつ、この先秦漢字が取り入れられている場があるんだよ」
言いながら、朧が表情を曇らせる。
「それはいったい」
「密書だよ。暗殺、策謀、折衝など、外部に洩れてはならない裏の書には、こうした先秦漢字がもちいられた。あちらではそうだった」
「なるほど。こちらでも差はありません。裏の文書にはかならず、昔の言語が取り入れられています。さきほどあなたがいった、神代文字がその代表だ。忍者などの影の組織が任務にあたる際には文書を残さないのが暗黙の了解でしたが、どうしても書き残すべきことは神代文字で綴ったとか」
「権力者が考えることはどこも変わらないね。だが、僕が言いたいのはそれだけじゃないんだよ」
朧が鋭い眸で津雲を睨みつけた。
「君はどこから、この巻物を盗みだしてきたんだ」
唇の端をもちあげて、津雲が悪びれもなく微笑んだ。
「気になさらないでください。あたしは幾許なく、寿命がつきる身だ。ふたたびに京の都には立ち寄れぬとて、なにを嘆くことがあるでしょうか」
朧が重くため息をついた。
「言いたいことは山積みだがね」
「なんとでも言っていただいて構いませんよ」
「言う気が失せた」
津雲は相変わらず、静かな微笑を絶やさない。
「現段階では解読できたのは一部だが、気になる言葉が綴られていた。僕の読みかたが誤りでなければ、この先秦漢字は《ことつかさ》という一族を差す」
場に緊張の糸が張り詰めた。
それは、残されているはずのない名称だ。
津雲が受け継ぐ《祖》の名跡は、歴史書から完璧に排除された。いかなる書にも残されることなく、そのような一族がいた事実は影に葬られた。手掛かりを期待していたのは事実だが、真実そのものに説き及ぶ巻物が現存しているとなれば、津雲の表情が変わるのも無理はなかった。
「この巻物が、どのように君の一族と結びつくのかは、現在解読を進めているところだ。断定はではないが、俚伝の類ではないようだよ。薄々と想像はつくだろうがね。ただ、一部の文章を一度解体してから並べ替えると、このような配置になった」
とんとんと、墨によごれた指が暗号の紙をたたいた。
文章を解体してとは、かんたんに言ったものだが、途方もない作業だ。膨大な量の砂から石のかたちを再現するようなものだった。言語にたいする優れた直観があってはじめて、なし遂げられることだ。
紙に書かれた先秦漢字の群は一見すれば殴り書きのようだが、一種の法則に基づいて、漢字がばらまかれているのがわかる。布陣か、呪式か。津雲はおなじ漢字が連なる部分に視線をとめて、僅かに目を見張った。あらためて、紙に視線を這わせてから、津雲はこういった。
「これは、地図でしょうか?」
窓から吹きこんできた風が、急に強くなった。
騒ぎ続けていた蝉がぴたりと静まりかえる。
「驚いたな、君もその見解にたどり着いたか」
朧はそういったが、声の様子からすれば、一驚たりともしていない。津雲がそれに気がつくことはあたりまえだと言わんばかりに微笑みをたたえていた。
「祝詞や呪詛の一種でないのならば、他に思い当たるものがないよ。この部分をみてくれないか。おなじ先秦漢字が連続して、八つならんでいるだろう? これがなにを表すのか。君ならば、見当がつくんじゃないか? それが解読できれば、目処がつくのだけれどね」
ちらりと黒い瞳が、津雲の横顔に視線を投げた。なにか言いたげに瞳が陰る。朧はなかなか本題に踏みこまずに沈黙を落とす。津雲は相好を崩した。
「変なところで気を遣うひとですね、貴方は」
津雲はまだ青ざめていた。ずっとそうだったのだろうが、朧はあらためてそれを意識せざるをえなかった。それほどにちからのない微笑だった。かれが祖のことを好んで語らないことは旧知の友ならば重々に知り及ぶところであり、かといって津雲はみずからの過去やこれからのことなども言葉を濁らせて、煙に巻くように話題を逸らす。津雲にはただ、指折り数えられる歳月だけが確かだった。
「隠していたわけではないんですよ」
どこか気まずそうに、言い訳がましく津雲は言った。
「訊かれなかったから、これまでは話さなかった。それだけのことです。いつかは語らねばならないと、思ってはいたんですがね」
津雲はゆらりと立ちあがり、障子の木枠に指を掛ける。
なにを考えたのか、かれは窓をぴしゃりと、閉めてしまった。またも畳と薬のにおいがまざったなまぬるい空気が座敷に蔓延する。これから話す物語は、とうに過ぎ去った時の、断片だ。ふさわしいのは土壁の煤けたにおい、障子を透かす濁った真昼の光であって、息吹に満ちた夏草のかおり、さわやかに吹き抜ける風などではない。障子を閉めたら窓枠の面積が狭くなり、腰かけられるところがなくなってしまった。窓枠にすわるのは諦め、津雲は朧と背中あわせて、畳に胡坐をかく。
津雲がどう語るべきかと考える。
「……ずいぶんと、床にすわるのにも慣れたね。こちらに渡ってきた頃は、どうにも尻が落ち着かなかったよ。僕の祖国では椅子も買えない貧民しか、床に直接座るような真似はしないからね」
沈黙にたえかねたのか、朧はわざと関係のない話題を持ちだす。
これは朧の悪い癖だ。礼節を重んじる武家には礼儀を欠いていると取られることも少なくはない。だがこのような癖に津雲は幾度、安堵させられてきたことか。さきほどよりずっと柔らかく微笑んだ後、津雲はふっと表情を消し去った。嘆きや怒りなどの感情は語り部には不要だ。主観を禁じて、書物のように事実のみを語る心構えが表れている。
朧も礼節をわきまえた聴き手として、静かに相手の言葉を待った。
斯くして、語り部は、昔語りの幕を切って落とす。
「それでは、闇に葬られた祖の因縁を紐解き、語りて参りましょう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます