与太噺 《月華を喰らった狗の噺》
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とろりと。
つばきの味が、喉をしたたり落ちます。
愛するおなごとの接吻はいかなる味か。某の喉を焼いたは首が落ちた椿の味でした。
柘榴の味とは果たしてどなたが申した、たわむれやら。はじめてに味わったそれは、果実の酸味などなく、ただ舌が痺れるほどに甘ふございました。まるで月の雫。華の露。芳醇なる味に酔い痴れ、次第に呼吸をすることすら忘れゆきます。息苦しさを覚え、惜しみつつも唇を離しました。
「わっちは椿がうらやましい」
愛しひとのつぶやきがふと、鼓膜に甦ります。
あのひとは、いかなる時もその頬に憂いを帯びておりました。咲きほこる季節に無垢なる胡蝶とたわむれるはずが、無理解なものの指に手折られて、座敷の隅に飾られ、風に触れることもなくただ散るのを待つだけの桜の枝のような。諦めを滲ませた憂いでした。されど悲しげに睫毛をふせ、嘆きの言の葉を差しだしたのは、そがはじめてのことでございました。
土間に飾られた椿の花を愛でていたあのひとが、不意に表情を曇らせたのでございます。
あのひとは憂いを隠さず、椿にたいするほのかな妬みを打ち明けたのです。斯様に麗しきひとが椿などにあこがれを寄せるとは思いもよらず、某は聞きかえしたのを覚えております。
なぜですか、貴女は椿よりずっとお美しいのに。
あのひとは唇の端を笑みのかたちに整えて、某の髪を撫ぜました。細くしなやかな指が、頬から唇へとおりてゆき、顎の輪郭をなぞるように爪を這わせます。
毒に蜜を滲ませて。棘に一厘の花を添えて。
あのひとはこのように云うたのです。
「はなびらひとつ散らすことなく、萎れて醜を曝すこともなく、美しき姿のままに生を終える……そが、椿のようにわっちは、死にとうありんす」
真っ赤な舌が紅を舐め、誘うようにあのひとは微笑みました。
ごくりと、知らずに喉が飢えの音をあげておりました。それが愛欲によるものなのか、それともまったく質の異なる興奮からのものだったのか、某自身にもようは分かりませなんだ。
細い指先はすでに顎からはなれ、飢えを訴えた喉ぼとけをからかうように動きます。
「ほんに、可愛いおひとだこと」
口癖のようになった某の愛称を麗しき声に乗せて。
愛しひとは某の頬に、その柔らかな頬をこすりつけて参りました。化粧には毒があり、長く触れあうと寿命を縮めるとはどこから流れてきた噂だったか。ですが、例えそれが真でも構わないと思うておりました。
毒ならば、毒で構わない。
貴女から贈られた毒であれば、甘んじて飲み干しませうと。
「のう、わっちの、可愛いひとよ」
某は《愛》を知りませなんだ。好いただ惚れただ別れただと世間が繰りかえすのを眺めながら、なにゆえにそのようなつまらぬことに執心できるのであろうかと、奇異に思えてしかたがございませんでした。ですが、いまこうして《愛》の味が、某の喉を焼き、舌を蕩けさせまする。
某は《愛》がなんぞかを知り申した。
おなごが美しきものであることを知り申した。
ゆえに飲み干しましょう。
「わっちを――」
この猛毒を一滴、残らず。
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