其の伍 《檻》
「生魑の影響はなにも他者だけ及ぶものではありません。極めてめずらしい事例ですが、当人にその影響が表れることもあります。これを生魑が懸かるといいます。故に生魑は、狐憑きなどの憑き物と同一視されるのです。明智満禎の事例がその希なる一件だったというわけですね」
子の刻を過ぎても、空は重く暮れ塞がっていた。
雷雲は去り、稲光が眠りを脅かすことはない。いまは雨だけが雲間から落ち続けていた。雨筋は夜の帳にとけ込んで目には映らない。だが絶え間ない雨声が群をなして押し寄せ、荒れた天候を片時も忘れさせなかった。
居間には行燈が灯り、火に誘われた蛾がふわりふわりと影を揺らす。
襖に伸びる人影はふたつ。
津雲が窓辺でなく畳に座っているのは気まぐれではなく、怪我の治療を受けているからだ。噛まれた傷は化膿しやすい。生魑が懸っていたのだから、なおのことだ。朧が丁寧に処置を施すなか、津雲は片時も口を休めずに語り続けていた。
語るは、吉原を巡る事件の成り行きだ。
「人間が持つ脚力を遥かに凌駕した跳躍、人の指を噛みちぎる顎の力、いずれも生魑による影響ですが、能力の強さは情念の深さに比例しますから、それだけ愛する女を奪いたいという想いが強かったと云えるでしょう。太夫の座敷は二階か三階にありますから、侵入するには尋常ならざる跳躍力が必要になります。事件の異常性といい、大衆の目に触れれば狐憑き扱いは免れませんね。或いは狗神憑きでしょうか。まァ、大して変わりませんかね」
「鳳蝶太夫はかれを愛していたのかな?」
語り続ける声を遮ったのは冷めたような朧の疑問だった。
「その明智という男。どうにも自害の片棒を担がされただけにしか聞こえないけれどね」
言葉の端には僅かに憐れみが滲んでいた。
そう言えば、明智明智は一度たりとも相手からの愛を語らなかった。しきりにみずからの愛を叫ぶあたりなどは、一方的な愛でもよいと割り切ってさえいるようだった。
「さあ、どうでしょうかねェ。死人に口無し。鳳蝶太夫の真意は既に闇のなかですよ。それはさすがのあたしでも質せません。ですが喰われてもいいと思えるほどには、鳳蝶太夫は明智殿を好いていたんでしょう」
「嫌っている相手に喰われたいとは思わないか、確かにね」
手当てが終わり、さらしが巻かれた腕を津雲が動かす。不自由なく動かせることを確かめてから、朧は残りのさらしや薬を片づけた。
「愛しているから、愛されているから、それが免罪符になることは多いですがね。愛もすぎれば、それはもはや業に等しい。愛に溺れては幸せな結末など望めません。溺愛は一種の妄執だ、相思相愛でもそうでなくともね」
津雲は畳を立つと、馴染みの定位置にむかった。
窓辺に腰を降ろした津雲がなにかを思い出したようにして、袂からなにかを取りだす。
それは椿の細工がなされた、いかにも高直そうな柘の櫛だった。鳳蝶太夫が挿していた櫛だが、いまとなっては朧もさほど興味を持っていないようだ。朧に差しだしてみたが、案の定、「櫛に欲情するほど特殊な性癖は持ちあわせていないよ」と首を振られてしまった。
決して離さないと誓った男がいた。
今はかれも檻のなかだ。
「解りますか」
ぽつり、津雲がつぶやいた。
「なにがだい?」
「いえ、この悲しみが解りますか、と。明智殿があたしに問いかけたんですよ。あたしは答えませんでしたがね。人の気持ちなど、他人に理解できるはずがないんですよ。理解できると思うほうがおこがましい、そうは思いませんか?」
「同意だね。すくなくとも僕は、誰かに理解されたいとは思わないよ」
それきり、互いに黙りこむ。雨垂れがふたりを寡黙にさせているようだった。包帯が巻かれた腕に触れると、じくりと鈍い痛みが走った。
月を喰らったのは誰だろうか。誰かと問うかぎりは、それは叢雲や宵の帳ではない。雨がやんでも、武士が待ち焦がれた月は昇らない。武士が其の情念のすべてをもって、喰らいつくしたが故に。昇らぬ月を憂うか、あるいは惜しみなく奪ったことに歓喜するのか。果たしてそのどちらであろうとも、腹に沈めた月はふたたびに山脈の縁から浮かびあがることはないのだ。昇ったとしても、それは、武士が愛してやまなかった月ではない。
猿猴 月影を取る――あらため、狗 水月を攫う。
水鏡に映りた月を欲し、如何に手を伸ばそうとも、果ては深みに落ちて溺れるだけだ。月は脆くも崩れ去り、沈みゆく掌には一筋の光も攫めない。それでもよいのか、よかったのか。
思索に浸っていた津雲を、猫を追い払うような手振りで窓辺から追いやり、朧がおもむろに障子を閉ざす。押しやりたかったのは雨の喧騒か、それとも釈然としないこころの靄か。朧は心情を言葉にはせず、ただ言い聞かせるように独りごちった。
「朝には止むさ」と。
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