其の肆 《椿》

 開け放たれた木戸の向こう側からえた臭いが流れだす。

 窓を塞がれた倉内は薄暗い。戸のちかくに積まれた物の輪郭が微かに浮かびあがっている程度で、後は影に覆われている。めったに人が踏み込まない倉のなかには道具が雑多に詰めこまれ、光に暴かれることを嫌っていた。複数の物影が折り重なっているので、奥になにがあるのかは見当もつかない。巻き上がる埃を袖で振り払い、津雲は倉の内部へと踏み込んだ。

 薄暗い倉のなか、人影がうごめく。


「貴方ですね、鳳蝶太夫を殺めたのは」


 倉の最奥でうずくまっていた人影が緩慢な動作で津雲を振りかえった。腕になにかを抱いているようだが、ちょうど影になっていて、それがどのようなものかは明確ではない。ただ、それはまるみを帯びており、だらりと黒いものが垂れさがっていた。

 稲妻が雲間を走る。

 武士の様相が、暗中に浮かびあがった。髭はなく、眉は濃い。精悍な面構えだ。一瞬だけ照らしだされた武士の面は鼻から顎にかけてが、赤く濡れていた。

 ぬらぬらと光を照りかえすそれは、おびただしい量の、血潮だ。


「――渡しませぬ」


 顔面を乱暴に拭って、武士は悲愴なまでにかすれた声をあげた。

 立て続けに雷が落ちて、青白い稲光が再びに闇を暴く。

 懸命に抱きかかえていたそれは、無残に食い散らかされた女の生首だった。肉をえぐり取られた右側面は頬骨がむきだしになっていて、凝視に堪えられるものではない。もとが、女であったことすら判らぬ有様だ。されど左側の横顔には傷ひとつなく、生前の麗しさを保っていた。鳳蝶太夫。そうもてはやされた頃からなにひとつ変わらぬ美貌が、そこにあった。


「このひとだけは、けっして、渡しませぬ」


 壊さぬように、奪われぬように。

 有らん限りの愛を込めて、武士は女の首を擁く。

 月代を剃った頭髪は血糊でかたまり、頬や額に飛び散った血飛沫はもう渇いて、黒ずんでいた。袖でこすった程度ではそれらを拭い去ることはできない。まさに手負いの獣さながらの姿であったが、痩せた面からは、屍を擁くほどの猟奇は窺えなかった。

 あれほどまでに事を大きくした以上、見つかるのも時間の問題だと覚悟していたのか、かれは津雲の登場にもこころを乱さない。驚きもなく、恐怖もなかった。ひたすらに首を擁く腕にまたいっそう強く、力を込めた。


「かのじょを、喰らったのですか」


 津雲は糾弾するわけでもなく、解りきっていた事実のみを問いかけた。

 既に解りきっているので、実際に解答をもとめているわけではない。無意味にも思える問いには相手にみずからの行為を正しく理解させるという目的がある。職業柄か、疑問符を用いない問い掛けが癖になっていた。

 武士がやにわに、喉を震わせて、低く異常な声をあげた。とぎれとぎれのそれは、笑い声だ。喉を傷めているのか、喘息じみた呼吸にしかならなかったが、紛れもなくそれは笑いだった。はじまった時とおなじく、とまるのも急だ。

 はたと黙り、充分な沈黙を挿んでから武士はぽつりと言った。


「某は、鳳蝶殿を、愛しております。愛しておったのでございます」


 声の端はおおきくなったり、細く縮んだりを繰りかえして、蝋燭の焔のように揺らいでいる。声は震えているが、懺悔の意は僅かもない。かといって、興奮しているわけでもなかった。


「ゆえに某はあのひとを殺し、その亡骸を喰らい申した」


 女の首を掲げ、外光に曝す。

 右頬は皮膚が剥がれ、ぼっこりと陥没している。傾けると爛熟した舌がだらりと右頬の洞から垂れた。蕩けた肌は段々と腐食が進んでいる証拠だ。魂の抜けた体を維持するにはいまの気候は暑すぎる。熟れすぎた果肉にも似た裂け目からは血液とはまた異なる雫がしたたっている。美味そうだとは到底思えない。武士もまた美味いと感じ、喰らっているわけではないかもしれなかった。


「某は、名を明智満禎あけちみちさだと申します。その様子だとご存知やも知れませぬが」


 武士改め、明智はなにを思ったのか、名乗りをあげる。


御名おんなまでは存じておりませんでした。鳳蝶太夫にずいぶんと貢いでいたとは聞き及んでいますが、それ以外にはなんにも」

「左様でございましたか。それだけでよくぞ、明智の屋敷までたどり着かれたものだ」

「あたしは変わった生業を致しておりまして。拝み屋とはちょいとわけが違いますが、まあそういう類の商売だと覚えていただいて構いません。鳳蝶太夫の首を捜してほしいとの依頼を受けて参りました。首を持ち帰れとは依頼を受けておりませんので、ご安堵なさってください」


 明言すると微かだが、明智の緊張が緩んだ。

 ひとつ、咳をして、かれはあらためて津雲を振り仰ぐ。


「見知らぬ御仁よ。人が人を、それも愛した女を喰らうなどと浮世ぐるいの若武士が心地誤りたのだと、某を軽蔑されますでしょうな」


 諦めを漂わせて、明智が問い掛けてきた。


「……人が人を喰らうことは確かに禁じられていますが、あたしはまったく理解ができないわけではありませんよ。昔から云うではありませんか。食べてしまいたいほど可愛いと。愛とはつき詰めれば、捕食行為に繋がるのかもしれません。蟷螂の雌が雄を喰らい、新たな命を孕すが如く。母猫が危険な場所で産まれてしまった子猫を喰らい、ふたたびに胎に戻すが如く」


 なめらかに語りつつも、その実、津雲は慎重に言葉を選んでいた。

 その場から動くことはせず、距離を縮めるなどもってのほかだ。みだりに相手を刺激を刺激することは避けたかった。

 稲妻の助けを借りて、相手のをのぞき込んでも、気狂いの相は僅かもない。それが逆に不穏だった。正常な精神で愛した女を喰らえるものだろうか。疑いはじめるときりがなく、津雲は相手がどれほど安静に振る舞っていても警戒を解く気にはなれなかった。相手の出方が分からないからには、こちらが警戒していることを覚られるのも避けるべきだ。倉の壁に背中を預けて、津雲は穏やかな素振りを続けた。


「人が人を喰らった例を挙げるならば、そうですねェ、戦乱の時代には勇猛な武士を打ち倒した際にはその身体の一部を喰らい、優れた能力をもらい受けようとしたそうですよ。他にも地方では家族の遺骨を酒にまぜて、親類の間で盃を回す儀式があります。これは未だに行われていますね。骨噛みというのでしたか。いずれにしてもそれは、愛や畏敬の念からくる衝動なのでしょうね」


 刺激することは危ぶまれるが、無駄な会話を続けたいわけではない。揺さぶりをかけて、相手の意識を引きだすこともしなければならない。頃合いだろうとみて、津雲がぴんと人差指を立てた。


「ですが、あなたは理解していらっしゃるはずだ。過去に事例があるからといって、その衝動が愛によるものだからといって、それは」


 暗中に漂う眸が見ひらかれる。津雲は言葉を切る。薄紙のような皮膚が裂けそうなほどに目を剥いても、黒目は膨らまず、白い面積だけが拡がるばかりだ。様相が歪んだのは数瞬、すっと眸が縮み、かれは頷いた。


「ええ、理解致しております。理解致して、おるつもりでございまする、これは」


 脂と血潮にみまれた掌を凝視し、荒れた喉で呻く。


「罪でございましょうな」


 声は悲愴を帯びていた。それほどまでに思い詰めながらも首を擁く腕からは力を抜かない。愛を、罪を、業をかれは抱き続けた。それが、かれを裁く業火になろうと、決して手を放したりはしないのだろう。


 明智が咳をする。血の臭いが強すぎて気がつかなかったが、倉のなかはずいぶんと黴臭い。積まれた物の裏などに黴が繁殖しているようだった。嵐が吹きこむごとに黴が巻きあがっているのが分かる。咳がおさまってから「戸を後少々閉めて頂けませぬか」と明智は言った。津雲は果たして閉めてよいものかと逡巡したが、結局は相手の要望を受けいれて、外から中の様子が窺えない程度に戸を閉めた。その際に津雲の背に描かれた花模様が目に入ったのか、明智が低くつぶやいた。


「つばき……ですか」

「え、あァ、女物の羽織を好んでいるのです」


 明智が愛おしげに目を細めた。


「あのひとが好いていたものとおんなじ、花模様だ」

「鳳蝶太夫のことで?」

「左様。花弁を散らさずに首が落ちるさまが麗しいと」


 心中を疑われるほどに好きあっていた武士と花魁のあいだに果たしてなにがあったのか。尋ねるべきか否か、津雲は一瞬考え、なにも知らずに幕を落とすのはいささか後味が悪いと思いなおす。おそらくは、時がない。

 唇を濡らしてから、声を押しだす。黴を吸って津雲の喉や肺にも支障が出始めていた。


「鳳蝶太夫とはどのようなご関係であったのか、聞いてもよろしいですか?」

「某がみなまで話せば、見逃して頂けますか?」


 質問を質問で返されて、津雲が眉を動かす。嘘を吐くのには慣れていたが、今度ばかりは謀るのは憚られた。津雲が苦手とする約束だったからかもしれない。一瞬の沈黙から真意を汲み取ったのか、明智は苦々しく笑い、気持ちは察したと頷く。


「喰らいながらでよろしければ、お話し致しましょう」


 肉を咀嚼する音が倉の暗がりに響きだす。噛み締めた歯の隙間から滴り落ちたのは血か、唾液か。闇に覆われた倉のなかでは判別がつかない。なまなましい濡れ音が反響するなか、語り部が津雲から明智へと引き継がれた。


「物心ついた頃、某には既に母がおりませなんだ。それゆえか、某にはおなごというものが、怖ろしいものと思えてしかたがなかったのです。おのれにはないものであるがゆえ、でしょうか。蜜に雑じった毒の如し頬笑みが。心に絡みつく蜘蛛糸の如し媚びた眼差しが。蝶を真似た蜂の如し奔放な言動が。大抵のおとこは心惹かれるそれらのものが、某にはただ、薄気味悪く思えたのでございます」


 それは、欠陥であろう。

 訂正のしようがない、感性の歪みでもあった。


「ですが、あのひとだけは違っていたのです」


 かれの自分語りに矛盾を見つけ、津雲が眉根を寄せた。

 明智がいうあの人は女郎だ。蜜に混じった毒どころか、致死量の猛毒を身に帯びた夜の華だ。かれにとっては、もっとも怖れるべきものであるはずだった。


「女が薄気味悪いのであれば、女郎など恐怖の対象でしかない、はずですが」

「ええ、あのひとが某にとりて、怖ろしきものであったことは否めませぬ。されどそは、他のおなごが持つ薄気味悪さとは似て非なるものであったのです。あのひとは笑みのうちに猛毒を宿しながらも、それを隠そうとはなさらない御人でした。剥きだしの棘ならば、疑い、おびえるまでもありませぬ。どのような毒かと解っていれば、そに侵されても不安などありませぬ。お解かり頂けますか?」


 赤く濡れた面をあげ、明智がかくんと首を傾げた。


「――恐ろしいがゆえに恐ろしくはないのでございます」


 人は、理解の及ばないものを恐れる本能がある。

 知りえないものも然り。

 知らないものであるかぎりは、それが危険なものであるとは断定できない。だが大抵の人間は真相を確かめるまでもなく、怖ろしきものだと決めつけてしまう。理解しようとするまでもなく遠ざける。間違えの類であろうとも、人はあらぬものを想像し、怖れおののく。そうして産まれたものが妖であり、鬼だ。


「されど、あのひとは楼に捕らわれた華。どれほど恋い焦がれようとも某の腕はとどかぬ。ようやくに逢瀬が叶おうともいとも短き夢と消え果つり、後には契りひとつ残りませぬ。夜が変われば、あのひとは他の誰かのものになり、見知らぬ男の熱を肌にきざむのでしょう。まるで宵の満月のようではありませぬか。朝靄とともに去りゆき、翌の晩には形を変え、昨宵の姿にて目見得ることは叶わない」


 語りながら食事の手はとまらない。津雲の目が闇に慣れてきたせいで、嫌でもその食事風景が視界に入ってきた。伸びた爪が屍の弛んだ頭皮を剥ぎ、明智は頭髪ごとそれを口に運ぶ。前歯に絡む黒髪を無理に飲みくださんが為に黙った。

 一拍の後に闇をかきまぜた声は、暗い。


「貴殿に解かりますか? この虚しさが」


 怨念をこめた声が穢れた板を這いまわる。


「解かりますか? 貴殿には」


 決して手に入らないものを、欲してしまった苦しみが。

 愛し、愛されてもひとつにはなれない絶望が。


 其れは、満月に焦がれる獣の悲嘆に似ている。飛べない獣には地からじぃっとそれを眺めるしかできない。絶望と悲嘆と悔寂と、身を焼くほどの愛おしさがまざりあった複雑なる。

 世人はそれを恋とは云うけれども。

 斯様な一言で表してしまうにはあまりにも、混沌とした情念の渦だった。


 津雲はなにも云わない。理解できるとも、できないとも、云いはしなかった。

 哀れなものを見おろすように睫毛を傾ける。

 それを共感と受け取ったのか、それとも否定と理解したのか。明智は、おもむろに女の首だったものを掲げた。

 首の切断面から幾筋もの体液が垂れる。濃い腐臭がした。


「いつだったか。あのひとが、云ったのです。――わっちを食べたいかと」


 秘めやかな女の囁きが、明智の言葉に重なる。

 いつぞやか聞き覚えるある声だと津雲が記憶の糸を手繰った。ほどなくして、明智の敷地に踏み込んだ際に耳をかすめた幻聴とおなじ声質だと気がつく。燃えるような丹唇が目蓋の裏をのたうちまわった。目蓋の裏に弾けたその映像はどう考えても現実のものではなかったが、幻覚と言い捨てるには鮮やかすぎた。察するにそれは、ほんの昨宵までは現実だったものだ。


 女は囁く。可愛いひとよ、と。

 女は誘う。わっちを食べたいのかや、と。


 それは情事の誘いではなかった。それならばこんな重く、粘着質な響きは産みださない。喰らわねば喰われるという恐怖が胸に迫るほどの。


 幻覚が失せた後には、いまだ櫛を握っていた津雲の指先に、じんとした痛みが残された。明智の言霊に誘発されて櫛が記憶を逆流させたのだろう。


「喰らってよいと言われたから、喰らったと?」

「おおかた間違ってはおりませぬ。されどひとつ、訂正しておきましょう。喰らってよい、ではなくと。それが、あのひとの、ただひとつの願いだったのです」


 女は求めていた、喰われることを。男は欲した、喰うことを。

 間違いであっても過ちだとは誰が云えようか。


「それゆえに喰らった。某はあのひとを、こうして」


 明智は舌を前に突きだすと、女の首から滴り落ちる雫を直接受けとめた。喉をうごめかせて、恍惚とした微笑を浮かべる。それは初恋の相手と接吻をかわした、うぶなる若者の笑みだった。


 女郎と下級武士。

 檻のなかと外にいたふたりが繋がりあうには、こうする他になかったのかもしれない。

 傾城の太夫を身請けするだけの膨大なる金子が、この小規模なる武家屋敷のどこかにあるとは思えなかった。仮に資金をかき集めたとしても鳳蝶太夫の身請け話は既に決まっており、相手は相当な俸禄を頂いている大名に違いなかった。真っ昼間から花魁道中を行わせたところからもそれはたやすく想像できる。勝てるはずがない。勝負にさえならぬ。

 ならばこれは、惨劇ならぬ、悲劇だ。


 単なる人殺しと切り捨てるには、津雲は事情を知り過ぎた。

 伏せていた睫毛を持ちあげ、津雲が明智を睨む。言うべき言葉を決めかねていたが、遂にそれはひとつしか浮かばなかった。


「愛していたのならば、貴方はその手を、血で汚すべきではなかった」


 憐れまないわけではない。他者に同調する事を禁じながらも、津雲はかれの訴えに心を動かされていた。それゆえに責めるのだ。何故にその手段を選んだのかと。何故に刹那の激情に身を委ね、永遠を手放したのかと。


「死は終わりではありません。命は巡り、ふたたびに現へと還る。貴方の愛が真だというのならば、死後、或いは転生の後まで待つべきだったんですよ。一度でも鮮血に浸った魂はまともな輪廻を与えられない。穢れた手では愛するものは抱けません」


「悟ったようなことを申すのですね」

さとっているんですよ。それが審神者さにわ――いえ、わが祖のさだめですから」


 津雲の眸に浮かんだ憂いは武士の眼には映らない。裏切られたとでも言いたげな怨みがましい視線が、津雲を射抜く。


「解ってはいただけないのですね」


 失望のように儚くつぶやき、


「このひとは渡さぬ、渡すわけにはいきませぬ」


 決意のように強く呻き、


「御免!」


 明智は床板を蹴りつけた。

 そりかえった背骨が、弧を象る。筋という筋を伸ばしきり、両顎を限界までくつろがせた形相はもはや人間とは言い難かった。倉の隅から隅までは約七畳。普通の歩幅で四歩か五歩という距離を、かれはたった一歩で踏破した。妓楼への侵入の折にもこうして獣のごとき跳躍力を発揮して、成し遂げたのか。

 生魑だと、津雲が身構える。

 狐か狗がかったとしか思えぬ所作で距離を縮めて、明智は津雲へと喰らいつく。

 急所である喉を狙われていることに気づいた津雲は、とっさに腕をあてがっていた。喉を噛みきられることはまぬがれたものの、鋭い牙が羽織と着物の絹を裂いて腕まで貫通する。「っ」津雲の引き結んだ口端から洩れた苦悶の息。薄い皮膚を破り、牙は血の道まで侵入していく。腐肉から滴るものとは違う、新鮮な血が布に染みる。

 だが噛まれていない右腕。

 津雲の指は素早く動いていた。


 指の先には筆があり、筆の先端には一秒足らずで綴られた文字があった。


「――おう


 髪を結いあげ、露出した明智の首の裏に書かれた文字は漢字の体を成していない。四肢を広げた人の姿を象るそれの、首に書かれた一線はなにを意味するのか。斬首か、罪人に嵌める枷か。あるいは単純に、理性を捨てた獣にふさわしい首輪なのかもしれない。

 腕を噛みちぎらん勢いで喰らいついていた顎が、前触れもなく脱力した。顎関節が外れてしまったのではないかと案じるほどに、だらしなく下顎が垂れさがる。人語を成さない呻き声を発して、明智は崩れ落ちる。溢れた唾液が床に広がり、血と涎の海で溺れそうになっても、かれは顎を閉じることができなかった。まして立ちあがるなどできない。

 動きをすべて制され、明智は沈む。


 腕の傷をかばいつつ、津雲が倉の戸を開け放つ。

 雨の轟音と一緒に、慌ただしい喧騒が流れこんできた。ちょうど門前まで御用改めの列が迫っていた。津雲は倉の場所を発見してからいったん引きかえして同心に情報を提供し、それからあらためて倉を訪れていたのだ。

 提灯のあかりが暗雲に塞がれた夕陽のかわりに燃えていた。

 手を振って御用改めをまねき、津雲は最後に這いつくばる明智を一瞥した。

 かれには一時的に人間の権威を奪う字を施した。袴の下からは血とも涎とも違うなまあたたかな液体が湯気をあげて、じわりと広がる。あらゆる汚物に溺れてもがく姿は惨めだ。されど畜生の醜態を曝しながら、なおも首だけは取り落とすことをしなかった。


 愛だけで、かれはその腕に最愛の女を擁いていた。

 離さない。渡さないとの誓いどおりに。


 誰が悪かったわけではない。

 罪に罰があっただけだ。


「真にもって憂鬱ですね」


 津雲の憐れみは埃にまみれて、倉の床板を転がっていく。駆けつけた同心に踏まれ、蹴とばされ、それは誰の耳にも届かない。届かなくてよいのだ。そんな誰もが解かりきった愚痴は雨で押し流すべきだった。


 雨はやまない。

 今宵、月は昇らないだろう。

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