其の参 《櫛》
鳳蝶太夫についてなんですが、と言葉にするや否や、遊郭の遣り手は愛想笑いをやめた。
津雲がまっさきに足を運んだのは鳳蝶が囲われていた
「ああ、鳳蝶太夫のことですか。まったく今朝から幾度尋ねられたことでしょうかね。亡骸は早朝には最寄りの投げ込み寺に運びましたよ。ええ、あのように尋常ではない死にかたをした亡骸をいつまでも置いておく理由などありませんからね。ただでさえ、見世で人死にだなんて縁起が悪いと言うのに……」
投げ込み寺とは遊女が死んだ際にその亡骸を引き取ってくれる寺の通称だ。
その由来は無造作な埋葬にあり、屍を簀巻きにした状態で墓穴に投げ落とす。その後、荼毘に付すのかどうかさえ、さだかではない。朽ちるのに任せ、鳥に喰わせるとの噂もあった。そうして犬猫と同等に扱うことにより遊女らを畜生道へと落とすのだ。畜生道に落ちた怨霊は祟らないというのが仏教の教えである。よって非情な葬儀は、不遇な生涯を送った遊女が死後祟らないように、と取られる処置でもあった。死んでしまえば、花魁の格などは関係ない。太夫だろうと禿だろうと死んでしまえば、畜生と変わらぬただの死肉だ。
「事件が起こった部屋を見せて頂くことは可能ですかね」
「いま、畳を替えているところですの。ことの顛末を知りたいのでしたら、瓦版に取りあげられたとおりですわ。鳳蝶の亡骸は食いちぎられ、身体のあちらこちらが欠損していた」
「首が、なかったとか」
「ああ、それはさすがに書くこともおぞましく、記事にはされていなかったようですけれど」
「下手人の目星はついているのですか? 警備はどのような状態になっていましたか?」
質問を繰り返す津雲を迷惑そうに睨んで、妓楼の遣り手は首を横に振った。
「警備は厳重ですよ。ええ、鼠一匹たりと入れもしなければ出しもしませぬ。故に悪鬼や妖の仕業だと囁かれているのではありませんか。もういいですか。多忙な身ですので」
突き放すように言い、遣り手は奥に引っこもうとした。
「あ、ちょいと」
「なんですか、まだなにか?」
眉間に寄せた皺が苛立ちを如実に表す。への字に曲がった口が会話を続けたくはないと告げていたが、津雲は臆することなく愛想笑いを浮かべた。
「鳳蝶太夫の遺品は、どうなりましたか?」
首を捜すには、鳳蝶太夫の縁をたどらねばならない。それには所縁の品を手に入れ、たどるべき糸の端を得る必要があった。愛着の品ならばなんでも構わない。女の愛着が残るとすれば簪、櫛、着物などの装身具だろうか。
「全て質に流しましてよ。お客さまから頂いた品ばかりですので、月下香楼から流した品だと判らぬよう手筈を整えましたわ。わたくしにも行き場はわかりません。いそがしいのでこれで」
遣り手は足早に去る。
取りつく島もない。ここではもはや、有力な情報は得られそうにもなかった。女郎は所縁の物が少ない。見世からなにも得られないとなれば、捜索は困難を極めた。
出鼻をくじかれ、津雲がぼやく。
「困りましたねェ」
「なんでい、旦那。太夫に貢いだ品を買い戻したいんで?」
問答を聞いていたらしい貸本屋の男が津雲の肩を叩く。
妓楼には様々な商人が訪れるが、貸本屋は呉服屋に次いで人気があった。
それを聞いて、意外に思うものは多いかもしれない。だがそれは、女郎とは卑しい職であるという偏見からくるものだ。花魁を含めて芸者というものは博学でなければならない。幅広い客層を持つ一流の太夫ともなれば、知識量は蘭学者に勝るとも劣らないという。だが、新書は非常に高価であるが故に貸本屋が重宝されるのだ。
鳳蝶太夫が貸本屋を贔屓にしていたことは疑いようもない。
改めて貸本屋を見れば、如何にも喋りが好きそうな男であった。津雲が実はそうなのですと話に乗れば、貸本屋はぴんと人差指を立てる。
「お探しの御品が櫛ならば、鳳蝶太夫が挿していたものと良く似た櫛が
「ほお、損料屋の場所を伺っても構いませんか?」
「へい。その路地を真っ直ぐ進んで、お歯黒どぶに突き当たる二つ前の路地を右でさあ」
「助かりました。ところで鳳蝶太夫について、なにか知っていることはありませんか?」
そう尋ねると貸本屋は眼を輝かせた。どうやらなんらか胸中に抱えていたものがあり、誰かに話したくてしかたがなかったらしい。妓楼のものに咎められぬよう、声の調子を幾分か落として、貸本屋は喋りだす。
「実は鳳蝶太夫が亡くなったと聞いて、あっしはてっきり《心中》かと思ったんでさあ。鳳蝶太夫には前々から馴染みの客がおりやしてねぇ。下級武士の若造だったんですが、金貸しの世話になってまで、月に一度は太夫に貢いでいたんです。といっても六両程度の額ではちょいと話すのが限度、手に触れることすら許されてはいなかったようですが。これがまた鳳蝶太夫のほうもまんざらではない様子でしてね。
こんな児戯のような逢瀬がいつまで続くものかと気を揉んでおりましたら、数日前に鳳蝶太夫の身請け話が持ちあがったんですよ」
なるほど、それで昼の花魁道中かと津雲が納得したように頷いた。太夫格の花魁を身請けしようと言うのだから相当なる俸禄を貰っている武士か大名だろう。金貸しから銭を集めている下級武士などが張りあうまでもない。
「その直後に舞い込んだ訃報でしたからねぇ。正直心中以外思いつきやせんでしたよ」
腕を組み、貸本屋はうんうんと何度も頷く。
遊女の恋は大抵が悲惨な末路をたどる。どれほど稼ごうと花魁は妓楼の所有物であり、恋慕の情にはいやおうなしに多額の銭が絡む。
「そのお侍さんが下手人という可能性はないんですかねェ」
「いやぁ、そりゃあさすがにないでしょう。そのかたとは何度か立ち話しを致しやしたが、気の小さい……失礼、大変心優しいかたでしたよ。人でも変わらないかぎりは、そんな」
「なるほど、左様でしたか」
津雲が眸に影を差したのは一瞬。
愛想笑いで真意を隠して、貸本屋に頭をさげる。
「興味深いお話しをどうも有り難うございました」
「へい。櫛、買い戻せるといいですねぃ」
貸本屋が荷を解くとたちまち花魁が集まってきた。
仕事の邪魔になってはいけない。津雲は女の歓声に背を向けた。
月下香楼の暖簾をくぐって通りに出れば、昨日となにひとつ変わらない喧騒が押し寄せた。太夫がひとり死んだくらいでは吉原の盛況ぶりに影は差さない。幾月か経てば、悲惨な死を迎えた女郎のことなど誰もが忘れていくのだろう。忘れるべきなのだ。
それが――吉原の、掟だ。
だが人の情念とは難儀なもので、掟などではなかなか律することができない。
それが愛憎であればなおのことだ。
愛と憎しみは紙一重。優しさと狂気もまた。
「ひとでも変わらないかぎりですか。人は案外たやすく豹変するもんなんですがね」
苦笑だけを月下香楼の軒先に残して、津雲は損料屋への路を急ぐ。吉原を囲むように張り巡らされたお歯黒溝に差しかかり、右の路地に逸れると小さな損料屋が建っていた。お歯黒溝とは吉原と外界を隔てる二間程の掘だ。二間といえば、人が二人横たわってもまだ足りない幅であり、濁った流れが女郎らの逃亡を断じて許さない。
損料屋の内部に入れば、溝が放つ饐えた悪臭が幾分かマシになった。
「散らかっていますが、どうぞお上がりください」
未だ経験の浅そうな若旦那が奥から姿を現す。
商品をならべている最中なのか、畳には解きかけの荷が散乱していた。中身は大抵がざぶとんや椀などの日用品だ。大量の根つけが零れだしている風呂敷もあった。若旦那は足を引きずりつつ、客の邪魔にならないようにそれらの荷物を部屋の隅に押しやる。荷物を持ちあげたときに若旦那は「いつっ……」と腰を押さえた。
津雲の視線に気づき、かれは「今朝急に腰を痛めてしまって」と恥ずかしそうに頬を掻く。
「えぇっと、どのような品をお求めでしょうか?」
「実は櫛を探しておりまして」
「櫛、ですか。ああ、そう言えば入って来たばかりの櫛が一具ございます。こちらでしたら、一夜から御貸しすることができますが」
若旦那が示す棚に飾られていたのは珊瑚があしらわれた立派な品だった。柘とおぼしき櫛には大輪の椿が彫られ、花弁の中心では珊瑚の珠が咲き誇っている。傾城の太夫にふさわしい高直な品だ。買おうと思えば相当な値がつけられることだろう。
借りるにしても文単位では足らないはずだ。
「おお、やっと見つかりましたよ!」
突如として津雲が素っ頓狂な声を上げた。わざとらしく安堵の吐息を洩らす津雲の様子に驚き、若旦那が目を見開く。いったい何事かと問うてきた。相手はこれが月下香楼から流れてきた品だとは知らない。それを良い事にして、津雲はぬけぬけとこのような作り話を言ってのけた。
「いやあ、実はこちらの品はいわくつきでして。行き着くさきざきで
「そんな、まさか」
見る間に若旦那が表情を硬くする。頬が強張り、ふとい眉の端がひくひくと神経質に動いた。信じられないと言いながらも疑いの念を隠しきれていない。呪われた品が質に流れてしまうことはごく稀だが、実際に事例はあり、使い古された着物や装身具を扱う商人ならば、ある程度は想定している事態でもあった。呪いの類を信じる商人ばかりではないが、瓦版にあった悪鬼や妖の実在を信じているものは数知れない。まして若旦那の場合は足を引きずるほどの腰痛が、
相手の僅かな表情の変化を見逃さず、津雲はこう畳みかけた。
「珊瑚があしらわれた柘の櫛にしては安い値で仕入れられたのではありませんか? おそらく、相手はいわくつきの品と知って早く手放したかったのでしょうね」
「確かに本物の珊瑚とは思えない値でしたが、禍をもたらす呪いの品だなんて。にわかには信じがたい話ですね。いや、しかし……そういうものが稀に存在すると師匠から聞いたことがあるような気が……」
頃合いを見計らい、最後の交渉に乗り出す。
「そこで折り入ってお願いがあるのですが。この櫛、あたしが引き取らせて頂くことは可能でしょうか? 安置されていた寺に納めれば、ふたたびに災難がひき起こされることはないでしょう。無論、ただでとは申しませんので」
すっかり青ざめていた若旦那が呪われているらしい櫛に固執するはずもなく。
物ノ怪でも捕らえるように櫛を
「呪われた品を売りつけるわけには参りません。どうか、お持ち帰りください」
「真によろしいのですか? では……遠慮なく、引き取らせて頂きますね」
津雲は申しわけなさそうに眉を垂らしてはいたが、その裏では驚くやら呆れるやら。若いとは言えども帳簿を預かる店の主が、口から出まかせの嘘に騙されるとは情けない。その浅慮さに助けられた津雲が云うべき言葉でもないのだが、帰り際には「お気をつけて」と声をかけずにはいられなかった。言葉の真意は相手に伝わらなかっただろうが。
「いやあ、騙されるものですねぇ」
人込みに紛れてから独りごちり、布に包まれた櫛へと眼を落とした。
筆を走らせるにしてもここでは人眼につき過ぎる。小路に逸れて落ち着ける場所を探そうかとも思ったが、お歯黒どぶの近くでは悪臭が鼻についてそれどころではない。吉原土手を越えて日本堤に出てしまえば、間もなくして雑踏が途絶えた。
木賃宿が並ぶ通りを歩いて、落ちつける場所を探す。
ずいぶんと疲れていたこともあって、一服の茶を頼み、水茶屋の座敷に上がり込んだ。
茶を受け取ってから、櫛を布から取りだす。余程に上質な
櫛を座敷に置き、津雲は筆をかざす。
筆の尻側を引っ張ると針にも似たやいばが抜き放たれた。
護身用としては頼りがなく、生活の助けとするには鋭すぎる代物だ。鋭利な先端を掲げると、津雲はためらいなくそれを振り下ろした。狙いすまされたやいばの先端は津雲自身の指に突き刺さった。
傷から血が滲み、たちまちそれはぷっくりと膨れ上がった。
珊瑚よりあざやかな血の珠が不健康な白い肌に浮かぶ。それを穂先が一滴たりとも残さずに吸い取った。
袂から出した白紙にて櫛を包みなおして、津雲は穂先を添えた。
「
赤い墨はよどみなく流れ、漢字とは思い難い字を綴りだす。
左側には絡み合う曲線が螺旋を描く。息づくように揺らぐそれは、漢字が意味する単なる糸の象形とも思い難かった。人と人のまじわりを抽象化したものなのか、或いは複雑に組まれた生命の素のようでもあった。糸は縁。なれば奇妙な線のまじわりは理に適ったものだ。右側には繋ぐことを意味するかたちを添える。細々とした縁を繋ぎとめる、物に残る愛着からその素をひき寄せる。
文字が生き、文字が息き、文字は往く。
「ゐけ」
津雲が命ずる。
漢字がうごめいて糸になり、其の糸が紙面から浮かびあがった。赤い糸の先端はなにかに手繰られているかのように暖簾の向こう側に飛んでいく。糸の片側はいつの間にか櫛に結わえられていたので、見失うことはない。
まだ熱い茶を津雲がひと息に飲み干す。
茶屋の娘は別の客の注文を受けている最中だったので、一声だけかけて茶碗は座敷の端に置いておいた。暖簾をくぐると、遂に雨が降り始めていた。今朝から不穏な雲ゆきだったので、長く持ったほうかもしれない。赤い線は彼方まで続いており、雨中これをたどって歩くのは相当に骨が折れそうだった。日暮れがまだ遠いのが、せめてもの救いだ。
番傘を差すと油紙が大粒の雨をはじき、賑やかな音を奏でた。
ひとの眼には縁の糸は見えない。筆にて具現化させた赤い糸も例外ではなかった。櫛をまわして糸を手繰りながら歩く男の姿は他人の眼にはひどく滑稽なものと映っただろう。訝しげな視線を気にすることなく、津雲は糸を巻き取っていく。
旅籠がならぶ大通りを抜け、日本堤から離れて武家屋敷が連なる路地に入った。このあたりは下級武士の屋敷ばかりなのか、大層な門構えは見当たらない。こぢんまりとした庭では
どうやら糸は、武家の敷地内へと続いているようだ。
断りもなく足を踏み入れることはさすがに躊躇われた。だが咎められたら適当に言い訳をすればいいと開き直り、敷居を跨ぐ。無許可での侵入は慣れており、堂々としていれば意外に咎められないものだとも津雲は知っていた。石畳にあたり、かつんと下駄が硬い音をあげる。石のくぼみに溜まっていた飛沫が跳ねた。
赤い糸は石畳に延びている。赤。津雲が僅かに眸をすがめ、濡れても褪せないその赤に視線を落とす。其れは彼の夜に流れた血の跡か。それとも情念そのものなのか。
稲妻が走り、大地を揺るがす雷鳴がとどろく。女の嬌声が、不意に耳をかすめた気がした。だがここは吉原ではない。気のせいだ。
ぱたりと下駄がとまった。櫛をまわす手も同時に止めて津雲が立ち尽くす。持ちあげた視線のさきにあったのはふるびた倉だった。この屋敷のものはめったに倉をつかわないのか、倉の軒には蜘蛛の巣が張り、窓には板が打ちつけられていた。しかしながら、何故か戸にだけは蜘蛛の巣ひとつ、張っていない。
「なるほど、なにかを隠すにはうってつけの場所ですねェ」
細い指が木目に浮かんだ黒い染みをなぞり、引っ掻く。あきらかな血の跡が染みついたその隙間から、あざやかな糸が垂れていた。
首は、このなかにいる。
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