其の弐 《桜》
陽の光が瞼を焼く。
微かな呻き声を上げて、畳に横たわる津雲が身じろいだ。朧が気を利かせたのか、身体には地味な色合いの男物の羽織が掛けられている。影を求めて寝返りをうち、津雲は再び寝息を立て始める。
窓の外ではさやさやと葉桜が揺れていた。季節は夏だが、庵がある原には絶えず涼風が吹き渡っている。それがよけいに心地よい眠りを津雲にもたらしていた。
昨宵は夜が更けるまで酒を飲み、友と語りあった。
盃を
「津雲、起きているか」
夢を破るように戸が開け放たれた。
目蓋を持ちあげた津雲は、微睡みを挿まずに畳から身を起こす。青みを増した夏の青空を背負って、朧が立っていた。差した真昼の光がわずらわしかったのか、津雲は僅かに眉根を寄せる。朧がその様子をみて、まだ眠っていたのかと申し訳なさそうに表情を曇らせた。だがすぐに気を取りなおして、朧は握っていた瓦版を津雲に差しだす。
「吉原に徳利を返しにいったらこのような瓦板が」
瓦版を受け取り、津雲はさっと視線を走らせた。その表情から徐々に眠気が消えていく。最後まで読み終える頃にはなんとも複雑な面持ちに変わっていた。
瓦版には[太夫格の花魁が殺された]との旨が書かれていた。
名は
瓦版によれば、鳳蝶太夫は尋常ではない殺されかたをされており、その骸は獣に食いちぎられたかのような凄惨なる有様だったという。五臓六腑のあらかたはどこにも見当たらず、乳房も片側がもがれていた。五指もほとんどが欠損しており、かみちぎられたような断面だったと書かれていた。
鳳蝶太夫が殺されたのは夜更けに妓楼に戻ってからのことであり、丑三刻前後に自室にて襲われたものとみられる。寅の刻に鳳蝶太夫に急な指名があり、禿が座敷まで呼びだしにいったところ座敷は血まみれの惨状で、座敷のあるじは無残なしかばねになり果てていた。寝ずの番が複数人いる妓楼の上階に侵入し、誰にも気づかれず、鳳蝶太夫を殺害。いかに考えても人間の所業ではなく、悪鬼や妖の仕業ではないかと瓦版には結論づけられていた。
「どう見る?」
「間違いなく生魑でしょうね」
「やはりね」
朧は鋭い眼光をとがらせて瓦版を睨みつけている。
視線を動かさずに事実だけを落とす。
「首がないんだ」
声は放物線をえがいてどおんと畳に落ち、重量のある音をともないながら、畳の縁にそって転がる。もぎ取られた頭部のような、嫌な重さだ。それは畳をよごすことなく、霧散する。ただその響きだけが、しばらくは互いの鼓膜に残り続けた。
朧が津雲をみる。
「鳳蝶太夫の首は、何者かに持ちさられていたそうだ」
こがれるとまではいかずとも、男としてあこがれていた相手であるがゆえに、無関心は通せない。その死にざまになにを考え、いかなる激痛や恐怖にさらされたのかを想像せずにはいられないのだと、かれは言外に訴えていた。
津雲と朧は相通じているようでいて、実は対極的な面が多い。
面倒事は嫌いだと道楽者を気取っている割に朧の本質は生真面目だ。医者としても相当なる実績を挙げていた。故に御典医として召し抱えたいとの誘いも舞い込むのだ。酒や女遊びにだらしない面も確かにあるが、友には甘く、人間関係はただれたものではない。親友と呼べる相手が津雲にかぎられているのは、いい加減なつきあいができない証拠でもあった。
かたわ、津雲は数えきれないほどの出会いと別れを繰り返してきた。
津雲は何者とでもたやすく打ち解け、礼儀を尽くす。相手が男ならば地位を重んじて敬意を表し、女こどもには優しく接する。だがどんな理由があろうと、かれは他者の痛みを関知しない。性分と言えばそれまでだが、これは審神司として生きていくためのの知恵でもあった。そうでもなければ、津雲は疾うに他人の情念に喰い潰されていたはずだ。
「太夫の首。あたしならば見つけだせるでしょうね」
眉は動かさず、津雲はただ事実のみを述べた。
続けるべき言葉にあぐねて、津雲は一度、会話の主導権を朧にかえす。「見つけてくれ」と依頼されれば、仕事として請け負おう。「見つかればいいね」と話しを終わらせるのならば、この件には関与しない。
だが友から「見つけて欲しい」と頼まれれば。
断る理由はなかった。
「巻物の解読だけれどね。幾月かを費やしての作業になりそうだ」
朧が話の流れを無視して、そんなことを言いだす。
「まったく面倒事を持ちこんでくれたものだよ。ある程度意味が分かるようになるまでは実に退屈な作業だからね。暇つぶしにおもしろい噺の種でも見つけて来てくれないかな? そうだな、例えば吉原を舞台にした事件の真相なんかがいいね」
呆れて物も言えないと、津雲は隠れてため息をついた。
この捻くれ者の癖に生真面目な友は頼み事ひとつ、まともにはできないようだ。
「承知の上とは存じますが、あたしは誰ひとり、救いは致しませんよ」
鳳蝶太夫は既に命を落としている。死の真相があきらかになろうと、かのじょが甦ることはない。首が見つかったとて、女郎に墓など作られないだろう。食い散らかされた身体と一緒に投げこみ寺に送られるだけだ。
「救いなど、僕が願うと思うか?」
朧が笑った。程よく静かに。
ならばと津雲は畳から立ちあがった。
「承りましたよ」
其れになにひとつの意味がなくとも、救いでさえなくとも。
絡んだ因果は解かねばならぬ。
人を殺した罪は裁かれて然るべきだ。
「因果応報を悉く質してみせましょう」
畳に落ちていた羽織を引き寄せ、肩に掛けた。津雲の背中に真っ赤な椿が咲く。花弁を散らさずに首を落とす様が不吉であると武士から忌まれる徒の花だ。下駄が草を踏んだ。強い風が吹きつけてきた。風は草の香を巻きあげ、むっと鼻先に皺を寄せたくなるほどに濃い草いきれが立ちこめる。雨が降るかもしれないと番傘ひとつを拝借して、津雲が往く。
嵐を予感させる風が一陣、肩さきを通り抜けた。
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