《喰愛之噺》
其の壱 《楼》
千両。それが如何ほどの重みのある額か、想像がつくものはいるだろうか。
繁盛している大工のひと月の稼ぎが二両前後である。大工が生涯働きどおして、さらにはその稼ぎを一銭もつかわずにかろうじて貯められるかどうかという金額が千両だ。当然ながらそのようなことは例えにもならない。食わずに働ける者はおらず、老いても死ぬまで働き続けるのは至難の業だ。
大衆に想像できる額ではない。
経済の中核である江戸には一晩で千両もの金銭が動く場所が三ヶ所存在していた。
ひとつが
遊郭には遊女のみならず、禿や番頭、芸者なども住み込みで勤務する。内外の人間が入りまじり連日賑わいが絶えない吉原は、江戸の一角ではなく確立したひとつの都市のようであった。
ここは吉原の中心道路
浅い堀をはさんで左右に分かれた通りは、昼間だというのに、大勢の客で混雑していた。朱に塗られた妓楼の格子が道の両脇にならび、媚をふくんだ視線が飛びかい、蜘蛛の巣でも縦断しているようだ。どこからか聞こえてきたちぎれ三味線の音にまざって、女の嬌声が耳をかすめた。
昼見世には武士らしき身なりのものが多い。雑踏をすり抜けて、派手な赤の羽織がたなびく。肩をぶつけることもなく柳の如く避けながら、男は下駄をならして進んでいく。そのさきをゆくのは町医者か、あるいは文豪かといった風貌をした若人だ。あきらかに場から浮いたふたりは格子戸を覗くこともせず、仲乃町の隅にたたずむ酒屋の前で立ちどまった。看板はなく、酒屋の玄関脇には桶が置かれている。酒を持ち帰った客がここに徳利を返却するのだ。なかには大量の徳利が沈められており、隠れた名店であることがうかがえた。
「
町医者は振り返り、派手な格好の連れ――津雲に問いかけた。
「構いませんが、あたしに飲ませてもつまらないと、前に言っていませんでしたか?」
「君は二升飲んでも顔色ひとつ変えないからね。まったく。酔い潰してやろうと思っていたほうとしては酒代を損しただけだったね」
「そういう
「二升飲んでも酔わない君がおかしいんだよ。でもまあ、それとこれは話が別さ。たまには誰かと酒を飲むのもいいものだ」
朧が肩を竦めて、酒屋の暖簾をくぐった。居酒屋を兼ねていないからか、店内は狭く天井も低い。身の丈がある津雲は頭をうちつけるのを嫌がって、屋外で待つことにした。
花柳街とは麗しき女のみならず、業の華が咲き乱れる場所でもある。張りめぐらされたえにしは蜘蛛の囲より複雑に絡みあい、足を取られれば抜けだせない。春情が売られ、恋情は摘み取られ、愛と憎悪の狭間に捕らわれていつしかは魂までも喰い潰されるのだ。極彩色に彩られた妓楼を眺めつつ、津雲はそのような思索に浸る。
湿りけを帯びた唐紅はなぜか神社を彷彿とさせた。ひとたびくぐれば現にあらざるという意味では、双方には通じた部分がある。津雲がぼうと眺めているうちにも男がまたひとり、絢爛な戸の奥に吸い込まれていった。
後ろからちょいと肩をたたかれ、津雲が面倒げに振り返る。おおよそ相手が予想できたからだ。津雲を品定めするように不躾な視線をそそぎ、髭面を弛ませた男が立っていた。
「お前さん、いくらだ?」
またかと津雲が眉を顰める。色町に立ち寄ると時々だが、
陰間とは男娼のことだ。男相手に媚を振りまき、身体を重ねる陰間は女郎ほどではないものの、需要があった。男娼と
津雲は肩を竦めて、首を真横を振った。
「あいにくと職が違いますので」
「まことか。紛らわしい、そのような羽織を着て」
女物の羽織が間違いのもとならば、確かに責任は津雲にあるが、男娼と間違えられては気分のよいものではない。もっと悪いのは数年前に女郎と間違えられたことだが、そのときはさすがに慌てた。
男が気まずそうに去っていった後、ずいぶんと気分がよさそうに朧が近寄ってきた。鋭い目の端にからかうような意地の悪い笑みが浮かんでいる。一部始終を見物していたようだ。
「金がないのならば、僕みたいな貧乏医者を頼るより茶屋で働いたほうがよかったね。ここらの遊郭ならば、
「やけに詳しいですね。陰間を買ったことがあるんですか?」
「まさか。僕はそこまで遊び好きじゃアないよ。それにどうせ銭を積むならば、男娼などより傾城の太夫がいいに決まっているね。例えばそうだね、あァ、来たよ」
朧が通りのむこうを指す。
見れば、雑踏は一様にそちらを眺め、なにかを待っているようだ。津雲もそれにならって視線を凝らす。角をまがって、豪華絢爛な行列が現れた。遠くからは祭りの山鉾が牽かれてきたようにも見えた。
「花魁道中だね」
昼間だというのに、箱提灯を下げた男が行列の先頭を切り、その次に幼い禿が続く。見習いの新造や世話係を務める遣手に護られるようにして、華が進む。
華。そうだ、華かと見紛うほどに着飾った太夫が凛然と進んできた。太夫は幾枚も重ねた打ち掛けを苦もなしに纏い、奇抜なまでの艶をわが物としていた。ふんだんに金をあしらった櫛や簪は上客からの貢物だろうか。だらりと垂れた西陣織の帯が提灯の光をはね、金糸で織られた鶴が浮かびあがった。
艶やかな美貌はまさしく、傾城の太夫という通称にふさわしかった。
「
誰ともなく、なやましいため息を落とす。ひしめく群衆が称賛の声をあげる。
あれほど上級の花魁ともなれば、見世で顔を拝見するだけで幾両積めばよいものか、想像がつかない。一晩をともにするなど夢のまた夢だ。こうして道中にてすれ違えるなど僥倖だとみなが喝采をあげていた。花魁道中そのものが夕刻以降におこなわれるものであって、昼からこうして太夫が出掛けるのは特例中の特例だ。よほどの富豪、それも太夫の馴染の客が待っているに違いない。
「どうだい、さすがは太夫、他の花魁とは比較にならないほどに美しいだろう?」
「なるほど、魅力的なすがたをしていますね」
花魁道中が接近してくると、潮がひくように喧騒が途絶えた。
誰もがあまりの美しさに目を奪われ、声をあげることもできない。熱に浮かされた視線だけが仲乃町の通りを包みこむ。
鳳蝶太夫は群衆などいないものと、微かに嬌笑を浮かべて前だけを見すえていた。媚びを振りまくことなく、滲む猛毒を隠そうともせず、堂々と道を渡る。外八文字という呪術の型を踏襲した歩きかたで砂を蹴り、鳳蝶太夫はその場を通りすぎていった。
道中が遠ざかると通りにもまた賑わいがもどる。
「十両」
朧が喧騒に紛れて、言った。
「はい?」
「鳳蝶太夫と
「つまりは散茶女郎の四十倍ですか」
「ついでに言えば、職人の約半年ぶんの稼ぎだね」
「それまでして欲しいもんですかね」
津雲が理解ができないと首を傾げる。
「ま、ああは言ったが、太夫に貢げるだけの収入があっても、僕は買わないね。高嶺の花は決して触れられないから美しいんだよ。金を積んだ程度で征服できるものは、すぐに飽きるさ」
「……そういうものですかね」
津雲が眸を細めた。
花魁道中はいつの間にか通りの角を曲がり、後ろ姿さえも見えなかった。
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