《本筋之壱》

其の壱 《旧友は昔の眸で笑ひける》

 人はいさ心も知らず ふるさとは 花ぞ 昔の香に匂ひける

         紀貫之 35番


 季節が移ろえば、人も移ろい、変わりゆく。

 そのように語ったのは誰彼か。

 人間は変わるものだ。姿かたちが変わりゆくのは自然の理である。だが時は心を移ろわせ、かたく結んだはずの絆まで無情にも押し流してしまうのだ。変わり果てた友を、移り気な恋人を憎めないものは時を憎む。あるいは、変われなかったみずからを呪うのだ。


「故にかならず果たされる約束などは有りえぬのですよ」


 千歳緑の羽織が、夏の風になびいた。

 蝉の声がわんわんと森に響き、幾重にも連なって、頭のなかで飽和する。既に季節は夏に差しかかっていた。細道の側にはせせらぎが流れ、涼やかな微風が通ってはいるものの、青紅葉の梢から差しこむ日差しは焼きつくような熱を帯びている。夏の陽を背に受けながらも、津雲は羽織を手放さない。

 流れを溯りながら、津雲は独り言を重ねた。


「約束とは日々の暮らしのなかでさほど重さもなくかわされるものですが、その実、それがまじないの一種であることは知られておりません。人は約束を軽んじている。まして、口約束ともなれば、なおのこと。されど約束とはまじないなのです。自覚の有無にかかわらず。誓いを護れなければ、さいなまれることになるであろうと、約束をかわす双方に掛ける呪が約束であります。なればこそ、あたしは約束というものを恐れているのやもしれません。

 ねェ、貴方もそうは思いませんか?」

 

 津雲が視線を落とすさきには、三毛猫がいた。

 津雲の数歩先をゆく三毛猫は振りかえりもせず、ただ黙々と細道を進んでいく。無視されても津雲は満足げに頷き、語り続けることを辞めない。もとから津雲は独り言を好んでいる。散々約束の本質を語った後にぽつりとつぶやいた言葉は、下駄を飛ばすような、どこか投げやりで手持ちぶさたな響きをともなっていた。


「たった一度だけ、あたしは他人に約束をさせたことがあるんですよ」


 猫が立ちどまりかけた。

 高下駄が猫の尾のさきに追いつき、抜かす直前で猫がまた動きだす。

 旧友に逢おうとする道中は何故にこうも気が重いのかと、津雲は思った。裏切りや変貌などは、見慣れている。だというのに、臆病風にでも吹かれたように胸の梢が軋んで、青く繁った葉を舞い散らすのだ。

 複雑な笑みが、青ざめた唇を薄くゆがませた。


「約束が護られているのか。確かめに行きましょうかね」


 川筋を溯れば、間もなくして森を抜けた。

 蒲公英の群に黄色く染め抜かれた平野が広がり、蝉の声が遠ざかる。静けさが戻ってきたからだろうか。浅瀬で跳ねるしぶきの音が急に近くなったように思えた。澄みきったせせらぎは夏の陽を受けて、魚の鱗を想わせるようなきらめきを放っている。

 穏やかな風景にぽつりと、庵がたたずんでいた。

 ふるびた庵だ。苔むした土壁には細かな罅がある。崩れかねないほどの亀裂は塞いだのか、修繕のあとがみられるが、そこからまた新たな罅が増えはじめていた。直してからも結構な歳月が経っているのだろう。障子紙も破れてはいないものの、端から傷んできていた。藁葺きの屋根から上がった細い煙が雲に紛れて、消えていく。

 清流に寄り添う小庵はなんとも趣があり、言葉もなく郷愁を呼び覚ます。故郷を持たない流浪の者でさえ、この風景を前にしては、懐郷の念を錯覚する。

 草むらに紛れてしまったのか、三毛猫はどこにもいなくなっていた。

 年季が入った戸口を前にして、津雲が立ちどまった。

 戸越しに口論が洩れてきたせいだ。

 どうやら、先客がいる。外に筒抜けだった男の大声は怒りにまでは達していないものの、端々から苛立ちが滲んでいた。


「わが家中の典医てんいとなれば、上級武士と同等かそれを超える俸禄を与えようと申しておるのだ。このようにふるびた小庵ではなく、見栄えのする屋敷にて何自由ない暮らしを営むこととて叶おう。二百石にひゃくごくが不満ならば、三百石与えてもよいと仰せだ。悪い話ではなかろうて」


「確かに悪い話ではないね。けれど、住み慣れた土地を離れるには三百石程度ではまだ足りないよ。僕を雇いたいのならば、最低でも千石せんごくは積んでくれないとね」


 会話から津雲が推測するかぎりでは、来客は大名仕えの上級武士だ。詳細を知らずに話しの腰を折ることは憚られたので、津雲は内部の様子を窺おうと考えた。壁伝いに迂回する。障子は風を通す為か、細く開けられており、すきまからは向かいあったふたりの姿が見えた。二刀を帯びた武士は津雲に気づかず、若い町医者を睨みつけている。声の調子から予想したのと違わず、武士は苦虫噛み潰したような表情を浮かべていた。町医者は、ちょうど窓側に背をむけていて、様子を窺うことはできない。


「欲は身を滅ぼすと教えられなかったのか、おぼろ殿」

「僕の祖国では、無欲は身を滅ぼすと教わったね」


 抜刀されても文句を言えないほどに不遜な態度を取り、町医者は肩を竦めた。


「三百石も積めば、僕などよりずっと寡欲で優れた医者を雇えるだろうさ。他を当たってくれたまえよ。患者が待っているようだからね」


 言い、町医者は丸窓を指差す。武士に驚愕の面で睨まれ、津雲が苦笑しつつ背を折る。武士はばつが悪そうに咳払いをして、重い腰を上げた。


「また日を置いて参る故、ように考えておくが良い。このように辺鄙な土地で町医者を続けるのか、あるいは佐貫の家中に仕え、生涯安泰に暮らすのか。果たしてどちらが良い選択なのか、いずれは分かることであろうよ」


 なかば捨て台詞のような言葉を挨拶がわりに投げ、武士は庵を後にした。武士が閉めずに去っていった木戸を通って、津雲が庵にあがりこんだ。片手で眼鏡を持ちあげ、町医者は津雲を振り仰いだ。細くつりあがった目の端が微かに緩む。


「ちょうどよい時に訪ねてくれたね、君は」


 呼びかけは気安い。昨日逢ったばかりのように。今朝別れたばかりのように。

 過ぎ去った歳月など、何処にも見当たらなかった。


 三年前、別れ際に約束をかわした。

 いつまでも、変わらずにいてくれないかと。


 それは、約束というには曖昧だ。果たされるかたちなどは、何処にもなかった。それでも、かれは果たしたのだと、津雲には解った。冬の朝にかわした約束は、変わらず残っている。

 ふと津雲が緊張を解いた。夏の日差しが差さなければ、錯覚してしまいそうだ。もしや真はほんの数日前に別れたばかりなのではないかと。血色の悪い唇が「変わっていませんね」と動く。言葉はなかったが、察してか、町医者がまた目を細めた。


「今のは、どちらさまで? ずいぶんと御立派な身形をなさっていましたが」

「佐貫の家中よりの使者だね。遥々上総国かずさのくにから僕の頭を丸坊主にするためにきたのさ」


 町医者はきり揃えられた黒髪を掻きあげる。前髪を垂らした髪のかたちは浪人がする総髪とも違っていた。眼鏡でも隠しきれないほどに鋭い三白眼が、攻撃的な印象を振りまいている。くちびるには絶えず他人を嘲弄するような微笑をたたえており、和やかさからは縁遠い。

 どことなくたどたどしい言葉遣いが、かれが遠い異境の唐人からびとであることを表していた。


「あのようなものはひと様に頼みごとをしている態度じゃアないね。だいたい、僕の名はおぼろなどではなく、ロウだというのに。その段階で失礼極まりないよ」


 ロウは津雲の来訪を歓迎するでもなく、まして迷惑がりもしなかった。青い畳に胡坐を掻き、薬研をもちいて植物の根を挽きはじめる。それをみて、津雲も好きに振る舞った。荷物を部屋の隅に置くと障子を勝手にあけ放ち、窓の枠に腰かける。窓からは清流が見える。津雲はしばし黙って、流水の奏でる細やかな音に身を委ねた。

 畳の香りがした。土のにおいがした。

 そこに雑じった薬の香が、懐かしい。

 視線を凝らせば、急流にさらわれまいと、一枚の木の葉が岩場にしがみついていた。しぶきがあがる度にぱたぱたと葉の端がちぎれんばかりに震え、流されそうになって、それでも木の葉はそこに留まり続けている。

 その様子がなぜか、津雲を感傷に浸らせた。

 長いとも短いとも言えない沈黙を置いて、さきに言葉を発したのは朧だった。


「また逢えるとは、思っていなかったよ」


 ため息の裏に隠すように、ぽつりと落とされた言葉が畳を転がる。他にはなにも言わない。なにも尋ねない。何処でなにをしていたのか、なぜにまたも訪ねてきたのか。津雲は問い詰められることを承知で訪ねてきたのにもかかわらず、だ。


「見てのとおり、生きながらえていますよ。ちょいと遊んでいたら、路銀がつきてしまいましたので、宿を貸してもらえないかと」

「女も酒もやらないくせに。どうせ、また新しい羽織を仕立てたんだろう?」

「仕事がら羽織が汚れてしまうんでね」


 ぼんやりと窓の外を眺めていた津雲だったが、不意に強い視線を背に感じ、振りかえる。

 真剣な双眸と視線がぶつかった。

 朧のは黒い。だが異境の黒さだ。鴉の翼が露に濡れたような、紫がかった影が瞳孔に渦を巻いている。普段は世を蔑むような色を湛えているが、こういう一瞬だけは、眸が澄む。津雲はこの眸が嫌いだった。隠しておきたい胸のうちまで読まれそうで、落ち着かない。

 朧がゆらりと、身体を傾げた。


「戻ったのは銭の問題だけじゃアないんだろう?」


 言葉を濁すなどできそうもないと津雲は肩を竦めた。隠していても、いずれは話さなければならないことだ。その為にきたのだからと、津雲はひとつ息をついて、張りつめた緊張の糸を解いた。


「相変わらず勘が鋭すぎますよ」

「分かり難い癖して分かりやすい、君が悪いね」

「どちらなんですか」

「どちらでもあるってことさ」


 窓枠からおりて、津雲は風呂敷を解いた。幾枚かの羽織や櫛、煙管などと一緒につつまれていた一巻の巻物が転がった。巻物は畳を転がって朧の手もとまで至る。独りでに動いたかのような巻物を気味悪げに一瞥してから、朧は片眉を持ちあげ、津雲を促す。


「安心してください。憑喪神つくもがみになりかけていますが、触っても問題はありません」

「それのどこが安心できるんだね?」


 朧は巻物を触れようとしてやめた。


「君こそ相変わらず、妙なものに係わるのが好きなようだね。いつだったか、高価こうじきなうさぎの根つけが逃げて、町中をかけずりまわる事態になったのは忘れないよ」

「あァ、そんな事もありましたかね。良く覚えていませんが」

「そりゃア、君は僕が捕まえるのを待っていただけだったからね」


 決心がついたのか、あるいは手に取らねば始まらないと思ったのか。朧が巻物を取り、ひといきに紐を解く。巻物が畳一面に広がり、古紙に綴られた文字が曝される。綴られていたのは実に複雑な漢字の群だった。否これはすでに漢字とは言えない。漢字を基としている、あるいは漢字の基となったことは推察できるが、いずれのかたちも日本語からはかけ離れていた。

 

「これは、先秦漢字せんしんかんじだよ」

「そちらの言語ですか」

「そうだよ。始皇帝によって漢語が統一されるまで、各地に散らばっていた漢字だね。つまりは、統一されていない。方言のようなものさ。それに古代と言えば一言で済むがね、実際にどれくらい遡ればいいか。いまとなっては、こうして実物をみる機会はそれほどないね。なるほど、なかなかにおもしろいじゃアないか」

「そうですか。朧さん、時に頼みがあるのですが」

「嫌だね」


 予想が着いたのか、ぱたりと巻物から手が放される。


「言っただろう? 遡れないほどに昔の方言だと。こんな漢字を読み書きしていたものは、とうに墓のなかか、野ざらしで風に散っているさ。それきりだ。いまとなっては解読できるものはいないね」


 つまりは無理なのだと、朧は言葉の端を結んだ。

 津雲が目を細める。


「それではあなたがはじめて、その先秦漢字を解読した者になりますね」

 

 毒気を抜かれたように朧が津雲を見た。数拍の沈黙をはさんで、呆れ果てたように声をあげる。


「あのね、僕が言ったことを聞いていたか?」

「ええ、聞いていました。ですが、他の誰が解読できずとも、そのようなことは関係のない話だ。あなたならば、なし遂げられる。そう、見込んで、頼んでいるのですよ。それにあなたは、これをみて、まったく意味が解からないとは言わなかったでしょう?」


 朧が眉を寄せる。津雲はあくまでも微笑を保ち、朧の返事を待っていた。朧ならばこの依頼を受け、解読に成功するだろうという確信が、津雲にはあった。それだけの実績を、朧は既にあげていた。朧が唐から渡ってきたのは十代も半ばの頃だ。かれはまだそれから一年も経たないうちにこちらの言語を解し、喋れるようになり、二年後には多少の読み書きもできるようになった。それだけではない。津雲が審神司さにわとしてもちいる独自の言語もまた、朧はなにひとつ教えずともある程度まで読解したのだ。

 朧いわく、詞には霊が宿り、霊には一種の法則があるのだそうだ。


「それが言霊だと、貴方はそう云いましたね」

「ああ、そうだよ、やってみればできるかもしれない。だがね、僕は常々こうも言っているはずだ。面倒なことは大嫌いだと。数百の俸禄をちらつかされても、僕が御典医にならない理由の一つだね。そんなものになったら、休みたい気分の時に休めないからね」

 朧が指で巻物を転がす。憑喪神になりきっていない巻物からは、抗議の声はあがらない。そうなっていたら、抗議どころではなく、祟られそうなぞんざいな扱いだった。だが津雲は微笑を崩さず、逆に一層笑みを深めた。


 こんなところも変わりない。


 依頼を拒否されたにもかかわらず、津雲の胸を過ぎったのは安堵だった。巻物を投げ捨てた朧は薬研をいじり始めた。巻物を突きつけられて、断じて受け取らない姿勢だった。されど津雲は無理強いするどころか、巻物を拾いあげて、風呂敷に戻してしまった。

 そんな津雲の態度をみて、朧がなにやら落ち着かなさそうに視線をあげる。


「いいのかい?」

「これに、手掛かりがあるとはかぎりませんからね」


 ぴたりと薬研の車輪を転がす手がとまった。


「まだ、捜しているのか」


 言葉の端からは、焦慮が滲んでいた。

 朧はそれだけ言って、また黙り、薬研に木の実を投げこむ。木の実を砕く硬い音が再開し、朧はすべて粉砕してから、あらためて会話の尾をたぐり寄せた。


「君は呆れるくらいに無駄なことが好きだよ。すべては、終わったことだというのに。どこかに根を張って、もっと楽に生きる術など幾らでもあるだろうにね。好んで、面倒に係わるのだから、僕にはまったくもって理解しがたいよ」


 津雲は薄く笑ったままだ。

 なにも言わない。弁明も反論も、肯定も否定もなかった。

 それをみて、朧が意を決したように立ちあがる。ほとんど根負けして、自棄になっているようでもあった。風呂敷を勝手に解くと、さきほどの巻物をひょいと取りあげる。


「気が変わった。貸しなよ。先秦漢字に興味がない訳でもない。五十年のうちの数か月程度ならば、僕だって無駄にしてもいいかもしれないからね」


 やっかいな友を持ったものだよと言いながらも、面差しは優しく棘がない。言葉にするほどには面倒だとは思っていないことが伝わってくる。津雲は黙って、頭をさげた。朧が巻物を開いてそれに視線を落としながら、なんでもないことを装って、尋ねてきた。


「君は、……後二年かい?」

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