其の参 《語》
村の端にはぽつりと、地蔵が置かれていた。街道に繋がる道のわきにあたり、人が暮らす地域と外界のちょうど境にあたる。地蔵の前には段々畑がひろがり、豊穣を見護っているかのようだった。地蔵の後ろには森がある。屋根もなく、雨に曝されているようだが、さほど傷みはない。置かれてからそれほど経っていないのだろうと、津雲は思った。
地蔵に近づいてくる影があり、津雲が振りかえる。
腰のまがった老婆だった。襤褸で接いだもんぺを着て、なにかを提げている。老婆は地蔵の前で立ちどまり、膝を折る。笹の葉にくるんだおにぎりを地蔵に備えて、皺だらけの手をあわせた。
「すみません、ちょいと伺いたいのですが」
拝礼が終わってから、津雲が声を掛けた。
老婆は旅人だと気がついて、ああと声をあげ、穏やかに顔を緩めた。
「これはこれは、旅の御仁じゃないか」
「ええ、立ち寄らせていただいております。藪から棒に失礼ですが、こちらはどういった由縁の地蔵さまなのですか?」
「この地蔵さまの由縁ねえ。旅の御仁はここら一帯が十一年前に
「存じております」
老婆はひとつ頷くと、皺だらけの顔をいっそうに縮めて、喋りはじめた。
「あれは、ひどかった。畦も畑も、田んぼも乾いて。乾ききると土塊がひび割れて、めくれあがってくるんじゃよ。鹿やら狐やらが、田んぼに来れば水や餌があるだろうと踏んで里までおりてくるんじゃが、なんとかたどり着いた畑には、乾いた土塊だけがあってねえ。道端で干乾びて死んでおったよ。そこからわき道に逸れて、森を進んでいきよると沢があるんじゃが、あのときは一滴の水も残っておらんでねえ。乾上がった底に残った魚が、物凄い臭気をあげておったわ」
「……それほどまでの旱魃だったとは」
「村のなかは、実にむごい有様じゃった。人が暮らしとるぶん、畑よりひどい。日照り続きで井戸が枯れ、沢も乾上がっとったから、作物に撒く水もなければ、喉を潤す水もない。倉の穀物も減ってきてなあ、奪いあいよ。地元の神職が集まって、昔乍らのあまごいの儀をしても、遂には降らなんだ。年寄りやら赤ん坊やらが立て続けて、逝った。わたしゃ体だけは丈夫だったから、なんとか生き延びたがねえ、若者が干乾びたかばねを埋めても埋めても、きりがなくてなァ。暑かったんだわ。汗を掻くのももったのうて、遂にかばねを埋めるのを諦めたら、次は疫病じゃ」
想像を絶する地獄だ。村が絶えなかったのが不幸中の幸いか。
「みながもう終わりだと絶望するなかでひとりだけ、雨は降ると云い続けた童がおった。いや、童というには大きかったか。じゃが、わたしからすれば童のようなものじゃったから、そう言わせてもらおう。その童が云った。降らぬと思えば、降らぬ。降ると思わねば、降らぬぞと。みな、それが目障りでねえ。よそから越してきたもんだったからよけいに」
旅の者を好意的に受けいれてくれる農村は、極めて稀だ。
昔からそうだったのではなく、生き神の御業を見物しによそから旅人が訪ねてくるようになってから、慣れたというだけなのだろうと、津雲は老婆の話しに相づちをうちながら考える。
「母と子だけで逃げるようにこの土地にやってきて、居着いたんじゃよ。そりゃあ、追いだしたりはしなかったが、みな遠巻きにしていたねえ。倉の穀物も分けなかった。どうやって飢えを凌いでおったのやら。いや、凌いでなどおらんかったのじゃろなあ。どんどん衰えていく母親の看ながら、童はずっと叫び続けた。雨は降る、明日には降る。明日が降らねば、明後日と。誰もが童を嘲ったよ。童は遂に泣きながら、天に呼び掛けた。降るぞ、降るぞおと。さすれば、晴れていた空が急に掻き曇ってなあ」
「雨が降ったのですか」
「ああ、恵みの雨じゃった。あれほど……あれほど雨が有難いと思ったことはない。そうしてあの童も……神か仏かと思ったよ」
「それが、ホントウ様ですか」
津雲が静かに尋ねた。
「左様じゃよ。それからも幾度となく、村を護ってくれたのはホントウ様じゃった。山崩れの時にも、あのお方が山崩れはとまると言えば、村の際でとまった。作物が実らぬときにも豊穣をくださり、真冬に食糧にこまれば畑に岩魚をうちあげてくださった」
皺だらけの手をこすりあわせて、老婆が急に黙った。
沈黙を挿んで、老婆は涙ぐんで言う。
「あの旱魃で最後に命を落としたのが、ホントウ様の母親じゃった」
嘆きと後悔とがないまぜになっているのか、言葉がところどころ涙で濁る。
「倉の、芋をちっとでも、分けていればよかった。ホントウ様があま水を桶に入れて、持ちにいったときには事切れておったそうな。干乾びたかばねが、あばら家の隅にまるく縮まっておったと。ええ、わたしゃ、よう見られんかったがねえ」
老婆が話すその童の像は、肥えた姿からは程遠いものだ。まして女に好かれないという言葉に激昂して、他人の妻まで奪った所業からは、想像もできない。時は人を変えるのか。あるいは、あの者のなかに幼さが残っている証なのか。
津雲には解かりかねた。
「この地蔵は旱魃で命を落としたものの霊を鎮める為に建てたんじゃよ。生き残ったものの、たんなる慰みやも知れんがねえ」
喋り続ける老婆とは違って、地蔵はなにも語らない。地蔵はおにぎりを食べない。地蔵の顔はどこまでも穏やかだった。神仏の顔だ。そう、彫られているからだ。
ならば生き神は。
「……この頃は女遊びが激しいようで」
津雲が言えば、老婆はすぐにその真意を汲んだ。
「あの御方は」
急に老婆の声が萎む。
「ホントウ様は、どんなことでもほんとうになさる。じゃが、ほんとうの望みは、かなわなかった。母親を助けたいという願いだけは。故に、どんなことをかなえても、満たされぬのじゃろうなあ」
そういった老婆はずいぶんと遠いところを眺めており、幼き頃の童を憐れんでいるようでもあった。けれどここには、生き神でなかった頃の童は、いない。
地蔵は黙っている。当時の悲劇など知らなかったと言わんばかりに。
じきに黄昏が訪れる。
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