其の弐 《云》

 庵のなかは畳が敷かれた座敷になっていた。ざっと十畳ほどか。暮らしのにおいは薄いが、確かにここで寝食しているようで、座敷の端にはふとんが積まれていた。ホントウ様が縁側から座敷に戻るとすぐに女衆がやってきて、膳が用意された。ホントウ様とむかいあわせて、津雲が膳に着く。両者の間にはひとり、世話係とおぼしき女中が控えていた。

 ずいぶんと立派な膳だ。岩魚の塩焼きに沢庵。武家の夕餉にも匹敵する。

 茶碗には蓋が乗せられていた。


「して、ぬしは何処から」

「江戸から参りました。各地を転々としておりまして」

「ほォ、儂はこの土地を離れたことがない。是非に他所の話を聞かせとくれ。かわりになにか疑問があれば、儂が直々に教えてやろう」


 津雲が恭しく頷く。

 機嫌を取るついでに話題を振った。


「時に、さきほどの御業は、実に凄いものでした」

「斯様な御業を使えるものは江戸にも居らぬか?」

「ええ、ええ。東海道、畿内、山陰……いずれにもおられません」

 

 津雲がそう言うと、相手はあきらかに機嫌を良くする。


「食べながら、話そうではないか」


 うながされ、はあと頭をさげて津雲が箸を取った。


「このあたりの土地で収穫された米は実にうまくてな。ほれ、茶碗を」


 津雲は茶碗の蓋を持ちあげた。

 なかはからっぽだ。


「いやはやァ、失礼した!」


 ホントウ様がわざとらしく声をあげる。


「茶碗をからのまま、お客に出すとはなんたることだ! 後ほど叱っておく故、ご容赦を! おォ、そうじゃ、その茶碗をこちらに」


 深々と頭をさげて詫びながら、女中が茶碗の蓋をし直す。女中は津雲の膳を持ちあげて、膳ごとホントウ様に差しだした。


「米があるぞォ、銀舎利じゃあ! ほォれほォれ!」


 ホントウ様が唾を飛ばしながら、云った。そうしてあらためて、膳が津雲のほうに運ばれてきた。津雲が茶碗の蓋を取る。驚くべきことに碗からは湯気があがった。

 茶碗には炊きたての飯がこぼれんばかりによそわれていた。


「これは……!」


 津雲が驚くと、ホントウ様は笑って膝をたたいた。


「ささっ、食べるがよい」

「有難くいただきます」


 津雲が食事を始める。

 食事をしながら、津雲は各地の様子やらを喋り、相手を喜ばせた。


「ひとつ、お尋ねしたいのですが、その御業はいつから?」


 さりげなく尋ねたつもりだったが、ひくりと一瞬、相手の眉がこわばるように震えた。垂れた沈黙に、津雲は好機をつかみ損ねたかと焦りを滲ませたが、不穏な沈黙はすぐに搔き消え、ホントウ様は赤みを帯びた頬を弛ませた。


「忘れもせんよ。十一年前だ。この一帯がひどい旱に襲われてなァ。飢饉もそうだが、乾きがなァ、あれはむごかった。田畑は勿論のこと、井戸も枯れた。作物にやる水どころか、飲み水がない。誰もが諦めていた。だが、儂の御業で、雨が降ったのだ」


「ほお、それはそれは」

「儂の一声が、雲を動かした。それから、儂にできぬことはない」


 ホントウ様は食べかすが詰まった歯を剥きだして、言いきった。

 笑っているのに、悔しがっているような、実に歪なる表情だ。余るほどの贅肉がついているのに、その笑みだけは髑髏のものに近い。乾き、打ち捨てられた白骨の。生き神の傲慢さを剥いたうちにある、ひとりの人間が骨髄に宿す念が滲んでいたようで、津雲は目を凝らす。


「さきほど、貴方さまのような御業が他所にもあるかと尋ねられましたね」

 

 漆にでも触れるように津雲が云った。


「貴方さまほどの御業は、見たことがございません。聞いたこともまた。されど、その御業のもとには覚えがございます」

「御業のもとだと? なにか、儂の御業にからくりがあるとでも? それならば、見当違いも甚だしい。しいて云えば、この御業は神の意によるものだ。からくりなどは」

「いいえ、疑ってなど」

 

 確かに津雲も、大道芸のようになんらかの種があるのかと考えた。何処かの大道芸人は、馬を呑むなどという芸当もやってのけるそうだ。松の木から米を降らせることも、茶碗に飯を満たすことも、決してできないわけではないだろう。されどだ。

 これは違う。

 津雲は長年の勘で洞察していた。


「貴方さまの御業は本物です。ただ、《もと》があることを、あたしは存じております」


 ホントウ様が眉を曇らせる。


「もととはなんだ」


 津雲は僅かに黙り、あらためて言を始めた。


「生き神とは言い得て妙でございます。されど其の実、神ではなく、魑であります」

「すだまだと? それは」

「生魑とは、ひとの業念が巻き起こす現象を指します。人知の及ばぬ現象。それは、時には神の御業ともみえましょう。されど、違います。そこに神の意はなく、まして神の恵ではない」


 立て板に水を流すがごとく、津雲は語る。


「故にお気をつけください。やっと結んだものならば、その《もと》を縺れさせぬように」


 最後の茶を飲み終えて、津雲が頭をさげる。


「ご馳走様でした」

「して、その《もと》とは」


 津雲は微笑を崩さずに言った。


「それは、貴方さまだけがご存知でしょう」


「あたしがあれやこれやと推察するものではございません」と続ける。「敢えていうならば」と津雲がなにかを言いかけたときに、勢いよく座敷の障子が開かれた。

 媚をふくませた声をあげて、着物を肌蹴させた娘たちが座敷になだれ込んできた。津雲は娘衆の波に飲まれかけたが、素早く端によけて、事なきを得る。


「生き神さま、待ちくたびれちまったよお」「抱いてくだせえ」「約束しただ」


 娘衆がきゃいきゃいと騒ぎたてる。

 娘はみな、揃って派手にめかしこんでいた。動くごとに白粉が散るほどに厚くぬりたくっているが、もとの肌が日に焼けているからか、つけかたが悪いのか、額や鼻がまだらになっていた。口紅を頬にもたっぷりと乗せており、世辞にも綺麗とは言いがたい。


「ホントウ様、今晩はおらを抱いてくだせえ」「やンだ、今晩はおらがおつかえするだ」「ホントウ様」「余所者ばっかり、構わないでよォ」「生き神さま」

「これこれ! お客がお越しだと言っただろう」


 ホントウ様が宥めるが、村娘の群は黄色い声をあげて、騒ぎ続けた。実のところ、ホントウ様も満更ではないのか、鼻の下を伸ばしている。津雲は呆気に取られていたが、我にかえって、肩を竦めた。


「それでは失礼致しますよ。馳走になりました」


 津雲はさらりと挨拶だけして、その場を抜けだす。津雲を呼びとめようとする声が後ろから掛かったが、津雲は振りかえらなかった。相手もまた、群がる娘をひき剥がしてまで、津雲をとどまらせようとはしなかった。



 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 津雲が縁側からおりて去ろうとすると、庵の裏手で人影が動き、津雲はそちらに視線をやった。ひとりの農夫が裏手の窓から座敷をのぞいていた。ずいぶんと若い農夫だ。されど歓声をあげて睦む女衆をのぞいているには、なにやら不穏な気を漂わせていた。あきらかな怨みが、農夫の不格好にまるめた背からは滲んでいる。

 津雲は静かに近寄り、声を掛けた。


「中が気に懸かるので?」


 農夫は驚いて振りかえる。津雲をみて、農夫は気まずそうに視線を逸らす。しばらくはなにも言わずに黙りこんでいたが、旅の者だと分かったのか、ため息をついてから声をあげた。


「あすこにいるのがよォ」


 農夫が指を差した。

 津雲が指されたほうに視線をやれば、肥満した身体にもたれて嬌声をあげる女がひとり。齢は十五前後。他の娘と違って、頬に紅は乗せられておらず、どちらかといえば青ざめていた。黒い髪に一重の瞳。肌は日焼けしておらず、どことなくあか抜けている。綺麗とまでは言えないが、可愛らしい娘だ。


「あれが、おらの嫁だ」


 津雲は農夫と女を順に見て、目を細めた。


「よいのですか?」

「よかね。けんど、相手が生き神さまじゃどうしようもねェだ」


 そういって、農夫は首を振った。


「村の娘はみィんな、生き神さまに夢中なんだァよ」


 夫がある身にもかかわらず、懸命に着飾って侍るのは、この土地の頂点に君臨しているのがあの生き神と称される男だからなのか。


「だが、もとはこうじゃなかったんだ」

「なにか、発端となることがあったのですか?」


 座敷のなかは騒がしく、話していても聞きとがめられることはなさそうだ。農夫は旅の者に事の細部を話すべきかどうかと躊躇していたが、当人も誰かに吐きだしたかったのか、ゆっくりと口火を切る。


「生き神さまは、なにもかにも思い通りにしちまうだろォ? あの御方が一声掛ければ、どれだけ晴れてても途端に雲が寄ってきて、土砂降りの雨になる。松の木からでも米が降る。あァ、そういや、あれは驚いた。真冬の畑に岩魚がうちあげられるっていってなァ、日が昇ってから畑にいったらよ、かっんこっちんに凍った岩魚が畑に転がってて……ありゃア、生き神さまにしかできんよな。

 けンど、生き神さまはあんななりだろォ? 女は寄りつかなかった。それを、誰かがこう、言っちまったンだなァ。そンだら、生き神さま、顔を真ッ赤にしてよォ」

 

 農夫は、けむしのような眉をゆがませた。 


「此処らの女はみィんな、儂を好いている――んなことはねェだ。単なる嘘だ。生き神さまが意地になって、言ったことだ。けンどそれきり、女衆はひとり残らず、生き神さまに惚れこんじまった。昼夜構いなく、庵さ押しかけて」


 農夫が声を詰まらせる。


 農夫は若い。十五を過ぎたかどうか。婚礼ができる歳を迎えたばかりだ。おそらくは婚礼の儀を挙げて、それほど経ってはいないと、津雲は推察する。狭い地域だ。幼馴染の、互いに望んで迎えた婚礼だったのだろう。


「なァんでこがなことに」


 農夫は嘆いている。みずからの妻を盗られたことを。

 農夫は怨んでいる。生き神と称えられる者を。


「……なるほど」


 津雲がひとつ、理解の息を零す。

 生き神と称される者の御業の《もと》は、すでに縺れはじめているようだ。其れは、実に脆きものだ。いかに人知の及ばぬ現象であろうと、人間が巻き起こしているかぎりは、制約がある。制約が破られれば、瓦解するのは、あまりにもたやすい。津雲が働きかけるまでもなく、為るべくしてほどけることも考えられた。

 農夫は黙って、憎悪を募らせるように障子のすきまから妻の媚態を睨み続けている。

 津雲も横から覗いてみたが、娘衆は一様に視線がさだまらず、正気を損なっているかのようだ。意識をして懸命に媚びているというよりは、熱にでもうなされているような。


「家では」


 津雲があらためて尋ねる。


「奥さまはどのような様子ですか」


 農夫は津雲を振りかえる。瞳は澱んでいた。


「どう、て。普通だァよ」

「不貞を責めたら、なにか仰っておられましたか?」

「ンいや、おらからはなんにも言えね」


 澱んだ瞳のなかに恐怖がよぎった。


「生き神さまに逢ってンのはよォ、おらが畑さ出てる昼頃だけなンだ。おらが帰る頃には夕餉を用意して、にこにこ笑いながら、待ってンだ。言えるわけがね」


 握り締めたこぶしが震えている。


「おらは、こわい。あいつを責めて、生き神様を好いているだなんて言われたら。昼のことが悪い夢なんかじゃァないことに気がついちまったら。おらはたぶん」


 我にかえるように言葉をつぐみ、農夫は首を横に振る。


「なんでもねェだ、構わンでくれろ」


 あきらかに拒絶されて、津雲は気づかれない程度に肩を竦め、おとなしくその場から離れた。そうせざるを得ない、張りつめた殺気が農夫の背からは放たれていた。それに津雲が知りたかったことは、既に聞き終えた。


 庵から遠ざかり、津雲が振りかえると縁側の障子が開け放たれ、ふらふらと娘衆が出ていくところだった。強い日差しにあてられたかのように足もとも不確かな娘の群が、家々のあいだを散り散りになっていく。それぞれの家に戻り、夕餉の準備をするのだろうか。あるいは農作業を手伝いにいく娘もいるのだろうか。なんであれ、みな暮らしに帰っていく。真夏の悪い夢から覚めたように。

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