《生神之噺》
其の壱 《申》
夏の田んぼは青い。
若い稲が育っているということもあるが、雲ひとつない晴天が田んぼの水鏡に映り、青く輝くからだ。夏至を迎えてからは連日晴れて、急に暑さが増してきていた。田んぼには水が満ちているが、踏みならされた道は乾いていた。
田畑に挟まれた畦道を、派手な羽織を肩に掛けた旅人がいく。藍地に紫の蝶が織りこまれた紗の羽織は女物だが、着ているのは上背のある男だ。旅人の下駄が砂埃を巻きあげる。旅人とは思えない格好だが、このような畦道を通るなど百姓くらいのものなので、そうでなければ遠方からきた旅の者であろうと思われた。畑にいる農夫らは遠巻きに旅人を眺めていたが、なにやら納得するように頷き、農作業に戻っていった。
旅人――改め津雲は、道なりに進んで農村に到る。
土壁に藁屋根のふるびた民家が建ちならぶ、どこにでもあるような農民の集落だ。村の端には他の民家とはあきらかに異なる庵があり、なにやら大勢のひとだかりができていた。津雲が何事かと近づいていくと、農夫のひとりが声をかけてきた。
「なアなア、おめえさんも《ホントウ様》の噂を聞いてきたんだろ」
「いえ、あたしはふらりと立ち寄っただけでして」
「ほうかい。あのお方の御業を見に、あっちこっちから人が訪ねてくるから、てっきりおめえさんもそうかと。だけんど、おめえさんは運がよかったなア。いまからちょうど、ホントウ様の御業が始まるだよ」
農夫に後ろから急かされ、津雲は群集の前方に押しだされるようなかたちになる。
丁度そのとき、庵の障子がぱあんと開け放たれた。
仰々しく登場したのはずいぶんと肥えた若者だった。いや若いのだろうかと、津雲は眉を寄せる。肌は赤みを帯びて張りがあるが、鼻の横と額に異様なほどに大きな黒子があり、それが齢を不確かにしている。
群集はしきりに騒いで、「ホントウ様」「ホントウ様」と声をかけた。
ホントウ様は庵の縁側に胡坐を掻き、群集に視線を投げた。自信に満ちた顔つきで群集の端から端まで眺めると、口を開いた。
「松の木から米が降るぞ」
突拍子もない発言だった。
津雲は呆気に取られ、群集がざわめく。当人は動じず、囃すように繰りかえした。
「ほォれ、ほォれ、見ておれ! 米が降るぞォ、米が降る!」
楽しげな声につられて、群集が庵の側に植わった松を仰いだ。
みなの視線が集ったところで、ぱらぱらとなにかが落ちてきた。それはにわかに降ってきた日照雨かと思われたが、地に積もりはじめて、そうではないことに気づかされる。季節外れの雪のように乾いた土を覆いつくしていったのは、大量の米だった。
現実とは思えないその光景に群集がどよめく。歓声をあげるものもいれば、大げさなほどに震えあがるものもいた。そうしているうちにも米俵をぶちまけたかのように、松の枝からは米が降り続けた。
わあと、群衆が松の根方に殺到する。
津雲がしゃがんで、足もとにまで転がってきた米をすくい取る。脱穀したばかりの、まだ藁くずが雑ざった米だった。季節は夏に差しかかったばかりで、秋の収穫はまだ遠い。松に穀物が実るはずもなかった。
「な、ホントウ様は凄エだろ。あのお方は生き神なんだ。あのお方が申されたことはすべて、《誠》になる。だから、ホントウ様。ホントウ様がいてくださるおかげで、村は毎年豊作だ。有難いお方だべ」
言いながら、農夫は拝む。
津雲がすっと眸を細めた。
「生き神ですか」
あらためて、津雲は縁側のホントウ様に視線を移す。ホントウ様は群衆にかこまれ、拝まれたり褒めたたえられたりと慌ただしかったが、ぱっと津雲のほうを見た。あるいは女物の羽織が、野良着やもんぺ姿のなかで奇抜だったからかもしれない。
「おお、そこの」
津雲が自身を指差すと、ホントウ様が笑って頷いた。
「旅の御仁であろう。儂と食事でも如何か?」
ちょうど腹も減っていた。食事処があるわけでもない。
津雲に断る理由はなかった。
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