其の肆 《詐》

 農村には泊まれるところがない。

 津雲は昼のうちに大樹を見つけておき、その根方であぐらを掻いて眠っていた。旅を続けてきた者にとっては、野宿など慣れたもので、故に眠りは浅い。いつ、狼や熊に襲われるとも知れないからだ。

 不意に怒号が、耳をかすめた。

 津雲はぱちりと目蓋を持ちあげる。

 

 村の端あたりからだ。


 津雲は立ちあがると、すぐに移動する。

 時は丑の刻をすぎた頃。月明りだけを頼りに、道をいく。村に差しかかったが、騒動はなかった。村の者はみな、寝静まっている。さきほどの怒号に気づき、家屋から飛びだしてくる様子もなかった。

 大きな声は一度きり。だが津雲はおおよそ、どこから声があがったのかを把握していた。津雲の足は迷わず、生き神が暮らす庵にむかった。


 庵にはまだ、薄らとあかりがともっていた。

 縁側の障子には影が浮かびあがっている。

 ひとり、ふたり、さんにん。

 障子紙のおもてを、ざわざわと人影がうごめいた。

 ひとりがくわを振りあげ、ふとった影に襲い掛からんとしていた。もうひとりの影は女か。肥えた影の背に隠れて、震えている。その構図から、おそらくは妻を盗られた農夫が生き神に復讐しようとやってきたのだろうと、津雲は判断した。


「生き神がなんだァ!」


 また、怒声があがる。


「おらの嫁をかえせェ!」


 間違いない、農夫が押しかけてきたのだ。

 遂に我慢の限界がきたのだろう。働いているうちだけではなく、晩にまで出掛けていった妻が許せなかったか。あるいは津雲に話すことで、決心をかためてしまったのか。きっかけがなんであれ、いつかはこうなるのが決まっていた。


「かえせとは何事だ! この娘が勝手に、儂を慕ってきたのだ! なァ、そうであろうが! そう言ってみよ、ほれェ!」


 農夫の妻はがくがくと震え、這いずるように後ずさりながら、首を横に振る。されど細い喉からは、無理矢理に声がひきだされた。


「わ、わわ、わたしは、ほほ、んとうさまをしっ、慕って」


 その言葉だけは、言ってはならなかった。いや、言わせてはならなかった。

 妻の真意ではなく、生き神さまの御業によるものであろうが、その一言が農夫の最後の留金を粉微塵に砕いたのが、津雲にはありありと分かった。激情に駆られながらも踏み越えてはならぬとしていた一線を蹴り散らして、農夫が絶叫しながら、鍬を振る。


 ざくっと、耳障りな音があがった。


 驚いたホントウ様がしりもちをつき、鍬が畳につき刺さったのだ。

 鍬が抜けなくなったのか、農夫の影が力んで震えた。隙を衝いて、ホントウ様が身を乗りだす。ふとい腕が柄をつかんだ。ホントウ様は鍬の柄を握り、農夫からそれを取りあげようとする。


「話せばわかる、な、なっ! ほれェ、手を放せェ!」

「っ……」


 火でもついたように、農夫の掌が鍬から剥がれた。

 勢いよく、鍬が畳から抜ける。ホントウ様が思いきり引っ張っていたので、鍬は回転しながらあらぬほうに跳んだ。障子紙を走る鍬の影は、その場から逃げようと座敷の隅を這っていた農夫の妻の背に刺さる。

 一瞬の沈黙を置いて。


「ぎゃあっ」


 声が響きわたった。

 背からしぶきが噴きあがり、障子紙がよごれる。


「お稲ェ!」


 農夫が慌てて妻に寄る。


「お稲ッ、お稲ッ」


 懸命に呼びかけるが、妻はなにも言わない。

 背を強ばらせ、縮こまるように膝をまるめて、畳にごろりと転がっている。

 農夫が荒い息をあげ、妻の背から鍬を抜き、ちからのなくなった体をおぶった。細い手の影はだらりと垂れ、すでに息絶えているのが窺えた。縁側の障子が乱暴に開き、妻をおぶった農夫が飛びだしていく。


「お稲が殺された! 生き神さまに殺されただァ!」


 叫びながら、農夫は集落のなかに消えていった。

 取り残されたホントウ様は、呆然としていた。


 しりもちをついたままで動かない。どっかりと畳に腰を置いた様は、どことなく間が抜けている。なにを思ったのか、みずからの手指と投げすてられた鍬とを見比べるように視線を動かす。飛散った血潮が脂肪のついた手を濡らしている。目の動きはぎこちなく、事態を把握することもできていないのではないかと思われた。


「違う、儂はァ」


 ホントウ様が言いかける。

 だが喉がつかえて、なかなか、普段のように言葉にはならない。

 首を紐でくくられているような、ひずんだ声が喉を震わせた。


「あの娘は死んでおらぬぞォ、おらぬ……おらぬぞォ……」


 うめくように繰りかえす。だがそこには、起こってしまった現実をいつわるだけのちからはない。

 

「……ほどけましたね」


 津雲は静かに事態を傍観していたが、踵をかえして立ち去る。


 因果は勝手に巡り、集束した。津雲がするべきことはない。

 それが最悪のかたちであっても、為るべくして為った結末に態と手を加えるほど、津雲は愚かではなかった。津雲の本懐は人助けではないのだ。縺れた糸は解くのが理だが、おのずと解けたならば、万事よしだ。


 後には、途方に暮れる男だけが残される。

 親をなくした童のような後ろ姿には、生き神と称えられる風格はなかった。あの、なにもかもが思いどおりになるのだという気概は、絶えている。息をやめて縮こまった体に、母親の死に姿を重ねたのか。

 無駄なものばかりがついた背を、夜風だけが走り抜けていった。

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