其の伍 《累》

 婚礼は遂に翌日にせまった。

 お房は白無垢の絹をその柔らかな指の腹でなぜながら、僅かな緊張をまじえた表情を浮かべて、親友たる女に祝いの言葉をねだった。それにどう答えたのか、女はよく覚えていない。おそらくは当たり障りのない祝辞を述べ、懸念はいらないよと励ましたのだろうと思う。お房は親友の言葉を受け取って、ふっと緊張を解き、嬉しそうに微笑んだ。なにげなく触れた袖のなか。女がはからずとも親友の身にきざんだ傷は、癒えはじめていた。


 女は仕事を終えて家路につき、住み慣れた長屋の戸をくぐると乱暴に下駄を脱ぎ捨てた。障子を閉じきった部屋には月のあかりは差し込まない。闇の幕を通して、家具の輪郭がうっすら浮かぶのみだ。頻闇しきやみが渦巻く視界はまるで、無数の羽蟲がうごめいているかのようだった。喉が渇く。酒を飲みたいとせがむ喉をいなして、女は暗い板の間を進む。


「あ……!」


 僅かに浮いていた板のふちに蹴つまずき、女は蹈鞴を踏んだ。

 思わず伸ばした手はかろうじて、箪笥の縁にかかった。箪笥にしなだれついて、女は何事かに思い至ったのか、緩やかに唇の端をめくりあがらせた。暗い笑みをたたえて、桐の質感を確かめるように箪笥に指を這わせる。二段目に差し込まれた指は間もなくして、金属の感触を探り当てた。

 糸を切る為の道具。されどそれは。


 幾度となく膚を斬りつけたはさみを握って、女はぶつぶつとつぶやく。


 曰く。女は彼の娘にあこがれていた。

 彼の娘のようになりたかった。

 それは、娘が他者から羨望されるが為に非ず。娘が恵まれているからに非ず。ただ娘が娘であるが故に、女は娘に焦がれた。娘の瞳、頬、額、眉、髪、肢体、声、振る舞いに至るまで。

 それは愛ではなく。まして恋慕とも違っていた。


 故に、彼の娘になる為には、如何なる努力も惜しまなかったのだ。揃いの着物を着て帯を巻き、おなじ間取りに暮らして、どこまでも娘に近付けるように尽力していた。だが、所詮は他人。否、姉妹であっても、おなじ人間にはなれぬ。そうと知ってなお、女はあの娘との同化を望まずにはいられなかった。

 それは、妄執であった。

 他人になることがみずからを殺すだとしたら、女は喜んで、喉に鋏を刺すはずだ。我を忘れ、我をかなぐり棄てるほどに強い願望はそれこそ、業念と称す他にない。世人からすれば滑稽な、されど誰が否と云おうとも、当人が是と云うならばそれは是なのであった。

 此度の婚礼を期に、双方の距離が遠く離れてしまうことは疑いようもない。娘は妻となるのだ。いずれは母になる。女は変わる生き物だ。身をもって変わりゆく。

 婚礼を間近に控えて、女は生きた心地がしなかった。

 されど、我が身を娘に寄せるのはこれが限界だ。真は理解していた。顔の皮でも剥ぎ取らぬかぎり、いや、皮を剥いだところであの娘とおなじにはなれぬ。頬骨のかたちが違う、目の場所が違う。ならば、如何にすればよいのか。


「ようやっと、わかったのさ」


 板の間に垂れる血潮ほどにねばついた声音が、静寂を破る。

 震える人差指が鋏をなぜる。錆びた鋏が皮膚を裂き、赤い珠が指の腹に浮かびあがる。痛みに歓喜しながら、女は緩慢な動作で握り鋏を握る手を掲げた。


「私があの娘に追いつけぬのならば、あの娘が私のところまで落ちてくればいい」


 鋏が震える。歓喜に。

 あの時。自傷がまじないとなり、彼の娘の身を蝕んでいると聞き、初めは驚いた。続けてこみあげてきたのは言い知れない喜びであった。この身の傷が、彼の娘に感染る。なんという僥倖。話のなかばからは、笑っていることを覚られないようにするのに苦心した。


「なんで、いままで思いつかなかったんだろうねえ? 私ばっかりあの娘の後を追いかけて、頑張って、……そんなのひどいじゃあないか。不公平だよ。ねえ?」


 あの津雲とかいう旅人には、感謝してもいいとさえ思った。あれから会うことはなかったので、もしかすればもう内藤新宿からは旅立っていったのかもしれないが、今度会えたら礼をつくそう。あの旅人のおかげで、この行為が呪いになると解かったのだから。


 女は笑いながら、鋏の切先をみずからの顔面にむけた。

 先端を額にあてれば、破れた肌からとろり、熱い雫があふれて睫毛を濡らす。流れた血の跡をなぞるようにして、鋏が目蓋の真上を走り抜けた。


 激痛が爆ぜる。


 額から頬骨までの皮膚が裂けて、夥しい血潮が噴きだす。皮膚が薄いせいか、傷からは骨があらわになっていたが、すぐに濡れて赤に紛れる。熟れてぬかるんだ傷は、割れた柘榴を思わせた。多数の種子から芽や莟の段階を踏まずに咲き乱れる花總は、生臭い香りを漂わせてぼたぼたと地に落ちる。


 あまりの激痛に溢れかけた悲鳴を飲んで、女がその場に崩れ落ちる。唇からは唾液と一緒に、壊れたような笑い声が垂れた。額の青筋がびくんびくんと震え、膨張と伸縮を繰りかえした。

 気が触れてしまったかのように、女が歓喜の声をあげる。


「ねえ、どう!? お房! 痛いでしょう? ずうっと、私だけが痛かったのだとばかり思っていたけれど、あんたも一緒だったんだね。やっと、おなじになれた。? あはっ、ははははははっ」


 戸まで這い、開け放って、女は麗しい娘の醜い悲鳴が聞こえるかと耳を傾ける。この長屋は紫草屋むらさきやの真裏にある。正確には、お房の暮らす一室の真裏だ。夜の静けさの中ならば、声も聞こえるし、障子越しの影も見える。女は、今か今かと待ち焦がれた。されど、それらしき騒ぎは、聞こえてこない。それどころか、女の耳をかすめたのはお房とその家族の穏やかな談笑であった。

 お房は笑っていた。朗らかに、何事もなかったかのように。

 いや、違う。何事もないのだ。


「なんでえ……まさかッ」


 女が目を剥き、声を荒げた。


「生魑だなんて、嘘だったのッ」

「いいえ、真実ですよ」


 静かな声が割りこんだ。

 いつからそこにいたのか。痩せた男がひとり、夜風に吹かれて立っていた。月の光を受けた端正な横顔、肩に掛けた羽織の派手な彩、痩せすぎた脚に高下駄。どれも女には見覚えがあった。


「あ、ああ、ぁあんたは確か……」

「ええ、審神司さにわの津雲――ですが、いまはそのようなことはどうだっていいんじゃありませんか? 私が貴女に説いた言葉にはなにひとつの偽りもありません。ですがお伝えし忘れていたことがあったので、こうして戻って参ったのです」


 津雲は傷の真相を解いた後、「これにて解決致しました故、懸念はいりませんよ」とお房に云い、内藤新宿から立ち去った。だが実は他の宿に移り、事のなりゆきを見張っていたのだ。あれほど強い妄執を宿す女が、すぐに諦めるなどとは津雲は僅かも考えていなかった。それを踏まえて、お妲がなにかしらかの行動を起こすならば、お房の嫁入り前夜であろうと目星をつけていたのだ。

 案の定、女はこうして再びに鋏を取った。


「貴方とお房さんを繋げ、かさねていた因果の糸はひどく縺れていたので、あたしが解かせていただきました。それにそちらの鋏。血を吸いすぎた鋏もいけなかった。故に鋏から血を抜いたのです。もはや、かさなりようもありません」


 はくはくと、お妲は陸にあがった鯉のように赤く濡れた唇を動かす。あるいはまな板の鯉か。幾度繰りかえしても、嗚咽以外はあがらなかった。絶望が女から声を奪ったのか、さきほどまでの狂乱で声を使い果たしてしまったのかもしれない。

 女の手から滑り落ちた鋏が、持ち主の代わりに悲鳴を上げた。


「嘘を吐いたのは貴女のほうだ。真に以て、救えない御方ですね、お妲さん」


 男が常に浮かべていた微笑はいまや、どこを捜しても見当たらない。墨を流したような瞳の奥で静かな焔が燃える。鷹とも狼とも例えがたいそれは、龍眼と称するのがふさわしかった。すがりつく瀬もない。あの眼が恐ろしいと、女は震えあがる。されど、如何に顔を背けても視線からは逃れられない。歯と歯がぶつかる硬い音を背景に、審神司さにわは喋り続ける。


「貴女は、お房さんにあこがれているのだと云った。故にひとつになりたかったと。それは愛執にちかく、されどそれだけならば、決して不純ではなかったのでしょう。しかしながら貴女は、お房さんがみずからとおなじではないことに不満を覚え始めた。それは、もとの願望とはまったく真逆の欲望だ。それにさえ気がつかなかった。その果てに貴女はいま、こう云った。『あの娘が私のところまで落ちてくればいい』……とね」


 身を縮めて、震えるばかりだったお妲がおおきくかぶりを振るった。


「違わないでしょう?」


 言葉にもならない否定を斬り捨てる。


「貴女は、『』と云ったのです。真ならば、『貴方と一緒になれた』というべき時にあって、真逆の言葉しか云えない。それが、貴女の執着が既にあこがれではなく妬みと転じていた、動かぬ証拠でしょう」


「あ、」となにかを理解したような息を落として、お妲が凍りついた。弁解する言葉すらなくしたお妲は、急に身もだえ始める。興奮が醒めて、顔に奔った裂傷の激痛が急に押し寄せてきたのもあるが、それだけではない。襦袢も着物の生地も濡らして、夥しい血の染みが袖や胸もとから浮かびあがる。剥きだしになっていたふくらはぎから血が流れた。一斉に傷が開いたのだ。

 夜ごとに繰りかえしてきた業の華が、狂い裂く。着物は蘇芳すおうを越して、臙脂えんじに染まり、袖や裳はしぼれるほどの血潮に浸った。


「たすけっ、ねぇ助けて……! 痛い、くるしッ……ねぇッ!」


 板の間を這いずり、女は死に物狂いになって津雲へと手を伸ばした。血ですべるのか、幾度も倒れそうになりながら、距離を縮める。着物はすっかりと着崩れ、襟のあわせからは傷だらけの胸もとが覗いていた。

 憐れだ。されど審神司はすがりつく手を握らない。


「貴女は一生かかっても、お房さんのようにはなれませんよ」


 絹が破れる音がする。

 踏まれた裳から正絹の生地が裂ける。芍薬が、散る。ただの胡蝶の群になる。否あれは、胡蝶ですらない。手負の蛾だ。お妲が、悲鳴というには重すぎる絶叫を放った。さきほど取り落とした鋏を乱暴につかみ、振りあげる。錆が浮かんだ鉄の先端は津雲ではなく、声とも言えない声に震える喉めがけて振りおろされた。



 不意に無音が訪れた。



 指が激しく痙攣し、鋏を握った状態で右腕が力を失う。半開きになった口腔から真紅の芍薬が溢れる。地に落ちた芍薬は柘榴の種になり、板の間を転がる。そのいずれも芳香を持たず、ただ錆の臭いだけを漂わせていた。


 津雲は下駄を脱がずに玄関から板の間にあがり、お妲の頬に触れた。

 自害という結末に女を急きたてたのは、望みがかなわぬという真実にたいする絶望だったのか。みずからのあこがれが不純な妬みであったことに失望したのか。死人は語らない。苛烈な妄執が、いずこから湧きいずるものだったのかも、遂には津雲には解からなかった。理解が及ばない。それは他人だからだ。

 女の顔は血に塗れ、醜く歪んでいた。されど笑っていた頃の顔は芍薬とは言えずとも、確かに菖蒲だったと津雲は思う。


「真に救えない女だよ、あんたは」


 節くれだった指が、死んだ女の瞼を下ろす。

 菖蒲は芍薬になれない。だが、芍薬になる必要すら真はなかったのだ。菖蒲は菖蒲のまま、芍薬の側にならび咲けたのに。


「ああ、真にもって憂鬱ですね」


 間もなくすれば、いまの騒ぎを聞きつけたお房がやってくるだろう。津雲は窓枠に足を掛けると、ややあやうげな足つきで裏通りに着地する。路地に紛れつつ、袂から取り出した煙管に火をつけた。銀に龍の彫刻がされた大層な品だ。ため息をまじえて吐いた煙は細く、宵闇をしらませるには及ばない。


 なにひとつ知らずにいたお房の泣き声が草臥れた背を追いかけてきたような気がして、津雲は一瞬だけ振りかえる。あの娘は泣くだろう。血に汚れることも気にせず、冷たくなった身体を抱き寄せるに違いない。けれど意外に気丈な面を持った娘であったから、親友の分まで幸せになろうと、強く誓うのかもしれなかった。いや、あの娘ならばきっとそうするだろうと根拠もなく津雲は考える。それが死んだものにたいして、あまりにも独り善がりな誓いであったとしても。


 津雲はふと、空を振り仰いだ。


「こんなに憂鬱な宵にも月は綺麗だ」


 生魑はおぞましく、されど悲しき現象だ。

 それは、人間が悲しき業に塗れた生きものであるが故に。

 業は、ぐうるりと廻る。縺れた糸の先端にともされた火種のように。相手を燃やすつもりでいても、廻り廻って、それはかならずやみずからを焼きつくすのだ。


 月に掛かった紫煙が消える様を眺めて、またひとつ、審神司は深いため息をついた。

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