其の肆 《鋏》

 翌日、津雲があらためて紫草屋を訪れたのは正午に差しかろうと言う時分であった。娘が嫁入りの直前ということもあり、両親からはやや胡乱な視線を向けられてしまった。若い男が嫁入り前の娘と度々接触しているというだけでも、良くない噂が立ちかねない。素性の判らぬ旅人であれば、なおのことだ。昨日の礼を伝えたいと頼んで、やっとお房を呼んでもらうことができた。されど奥から現れたのはお房ひとりではなかった。


「また会ったね、旅の御仁」


 芍薬模様の小紋がふたつ。

 お妲との再会を驚くまでもなく、津雲はふたりがならんだ様子に意識を奪われる。

 さながら、番の胡蝶だ。帯や帯締めなどの小物まで揃えて着つけた姿は鏡に映したかのよう。姉妹というにも違和がある。双腹の、祟られ児だと後ろ指を差されてもおかしくはない。されど、ここまで近づけているのに、ふたりの様相はまるでかけ離れていた。

 瞳が違う。お房はまなじりがさがっていて、柔らかい印象を受けるが、お妲はつりあがっている。頬骨のかたちが違う。お妲の頬骨は角ばって主張が強い。それに比べて、お房はなめらかなまるみを帯びている。眉が違う、髪の質が違う、顎のかたちが違う。そんな些細なことが、おなじ着物を纏うことで浮きぼりになる。

 ふたりは津雲の動揺に気づかず、互いに喋りあう。


「あら、ふたりはお知り合いだったの?」

「知り合いというほどのもんじゃないさ。お房が助けた旅の御仁だって訊いて、ちょんの立ち話をしただけ。まだ、おたがいに名乗ってもいないよ」


 津雲は「ええ、そうなんですよ」とだけ答えた。実際には女中との会話のなかで名前自体は覚えていたものの、名乗っていない名を勝手呼ばれるのはよい心持ちがしないだろう。


「私は妲だよ。普段は旗本屋敷で女中をしているのだけれど、久しぶりにお暇を貰ったから、ちょいとお房の仕事を手伝っていたのさ」

「そう言えば、先日お会いしたのは旗本屋敷の裏でしたね。あたしは津雲と申します。ひとところに留まれぬ流れ者ゆえ、短いつきあいになると思いますが、宜しくお願いしますね」


 お房がほがらかにお妲を紹介する。


「妲とは姉妹のように親しい間柄でして、昔からずっと一緒におります。妲はみてのとおり、お天道さまのような娘でございましょう? 側におりますと、私までほがらかになるのですよ」


 装いについては、お房は言及しない。されど偶然の一致ではなく、どちらかがどちらかを真似ているのはあきらかであった。気にしていないのならば、揃えているのはお房のほうなのか。或いはやはりそこには触れず、ただ頬を染めているお妲のほうなのか。


「褒めてもなにもでやしないよ」

「あら、ほんとうのことよ」


 それだけ打ち解けているのならば、身体の傷についてもお妲には話しているのではないかと津雲は思ったが、そうではないようだ。挨拶が終わると、お房は用事を頼んで、さりげなくお妲に席を立ってもらった。人払いが済んでから、お房は襷がけをしていない袂をまくりあげた。

 言葉などなくとも察しがつく。また昨晩も傷が増えたのだ。

 おしろいをはたいたようななめらかな前腕には真新しい傷が走っていた。増えた傷はふたつ。傷はならんで走り、ひじの裏側からはじまって手首のちかくでとまっていた。きわどいところにまでおりてきた傷を隠すべく、今朝は襷掛けもせずに働いていたのだろう。僅かに濡れた袖をみるにつけ、津雲はお房の憂いを想像する。


「その後はいかがですか?」


 お房が言葉少なに尋ねてきた。


「ええ、おおかたですが、すでに相手の察しはついていますよ。後は、本人にその自覚があるのかどうかですね」


 はてとお房が首を傾げる。確か、自覚のない事例がほとんどで、自覚がないが故に因果が縺れるといったのではなかったか。


「それはそうとお房さん、背に傷が走ったことはありますか?」

「背、ですか? 鏡で確認したかぎりではありませんでしたが、はっきりとは」


 廊下から足音がして、お房は慌てて袖をおろして傷を隠す。間一髪で襖から顔をのぞかせたのはお妲だった。お妲は眉を八の字に垂らして顎に人差し指を添える。


「ざぶとんが足りないのだけれど、在庫は蔵にあるだけかい?」

「いまちょうど、他所にかなりの数、貸していて……こまったわね」

「八枚くらいだったら、うちの長屋の蔵からも拝借できるはずだよ。すぐに取ってくるから、待っていて。ちょいと津雲さん、ざぶとんを運ぶのを手伝ってくれないかい? 八枚となると、結構重たくてさ」

「はいはい。あたしでも役に立つのなら、構いやしませんよ」


 お妲に連れられて、津雲は紫草屋の暖簾をくぐった。お妲は紫草屋の裏にまわり、路地木戸を抜け、裏長屋に至る。長屋のひとつにあがり、こっちよと津雲を呼び寄せた。


「ここがお妲さんの暮らしている長屋ですか」

「そう、ぼろいけれど、賃金が安くて案外暮らしやすいんだよ。まだ空きがあったはずだから、あんたが江戸に留まるつもりなら、隣人として歓迎するよ。あんた、なかなか粋な男だからね」


 甘さを滲ませて笑み、お妲は紫草屋の真裏にあたる住戸に入る。老朽化しているせいか、戸を開け閉めするだけでも下見板の壁ごと激しく軋んだ。裏長屋は表店の影になっているので、昼でも長屋のなかは薄暗かった。板の間に足を踏み入れた津雲が、息を呑んだ。


「どうかしたのかい? 早くあがっておいでったら」


 ことりと首を傾げて、お妲が先となにひとつ変わらぬ明るい声を投げかけた。下駄を脱いで、それには応じたものの、津雲はやはり落ち着かない素振りで床板に足を乗せる。


 なにかがおかしい。なんて、もんじゃあない。


 津雲は、この部屋の間取りに見覚えがあった。隅から隅まで、見知っている。

 四畳半のみがき抜かれた板張りに柔らかな桐で設えられた箪笥の角度。箪笥の上に置かれた一輪挿し、香を漂わせる梔子くちなしの枝に至るまで、なにひとつ違わない。ならべられた簪のかたちだけではなく順番まで、津雲の記憶とひたり、重なる。


 白無垢だけがそこにない。


 かわりに白襦袢が掛けてある。お房が暮らす一間をそっくり移してきたような異様な空間を、果たしてなんと言い表せばよいのか。微笑ましいではない。されど、恐ろしいとも言えず。

 ただ、執念。

 他にどんな言葉も及ばない。


 それがどちらの執念なのか。それを津雲は、確かめなければならなかった。


「寄せているのはどちらですか?」


 津雲は曖昧に、されど、相手には意を汲めるであろう表現を選んで、真相のふちに指を落とす。真実に触れるときには、漆を扱うのと同等の神経を遣わねばならない。扱いかたを誤れば、皮膚どころか骨までも焼く猛毒が溢れるのだから。


「……そうだった」


 お妲が口の端を持ちあげた。


「あんたは、お房の部屋に担ぎ込まれたんだったね」


 お妲は明朗さを崩さない。だがなにかが、ずれている。ずらしている。


「そうさ、私が、お房とおなじものを揃えたんだよ」


 幼稚な笑みを浮かべて、部屋を見せびらかす。どうだい、案外骨が折れたんだよと、尋ねてもいないことまで喋る。両親の遺してくれた金銭をはたいて、桐箪笥と小紋の着物を設えたのさ。お房だってそんなに豊かではないけれど、私のほうが貧しいからね。かしましく喋れば喋るほどに、不穏なものが増す。


「へえ……」


 津雲がその自慢に食いついてこなかったせいか、ふっと歓喜の火を消してお妲は普段と変わらない態度に戻る。


「それじゃあ、ざぶとんを取ってくるから、ちょいと待っていて」


 言い残して、お妲は蔵に走っていってしまった。おそらくはこの長屋では、家財道具をなくして入居するものの為に雑多の物を蔵から貸しだしているのだろう。お妲の後ろ姿を見送ってから、津雲は箪笥のなかの物にも目を通す。褒められた行為ではない。それと知りつつも戸の隙間から差す光を頼りに、あるものを捜す。

 箪笥の二段目に差し入れた指がふと鉄の質感にあたり、津雲が微かに眉の端を震わせた。それを取りだしたのが早いか、背後で誰かがざぶとんを落とす音がする。

 お妲が戻ってきたのだ。

 不躾な行為を咎められるより前に、津雲が言った。


「これはいったい、なんでしょうね」


 お妲にも見えるように津雲があるものをかざす。

 それは、有り触れた握りばさみだった。鋏の先端にはうっすらと錆が浮かび、それに比べて二枚刃は真新しい。歪な消耗をしているということを除けば、ただの鋏。ただの、糸を切るための道具だ。


「鋏じゃないのかい……?」


 尋ねられた意味が解からないと、お妲は首を傾げる。


「ええ、はずれだとは云えませんね。確かにこれは鋏です。しかしながらその答は嘘ですよね? あなたは、真はわかっている。故にあせっておられるのでしょう?」


 薄い微笑を崩さず、津雲は右腕をみずからの襟元に差し込んだ。

 抜いたのは一管の筆。

 筆柄は朱に塗られていた。故にお妲は一瞬、雅な棒簪ぼうかんざしと見違えた。されど視線を凝らすと筆柄自体は乾いた白で、朱の模様が柄を埋めつくしているのであった。筆に絡みつくように刻印されているのは、字の群だ。原形を留めないほどに崩れた字体は呪詛じみていて、おぞましかった。

 津雲がぐうるりと筆をまわす。お妲の視線が柄から、筆先に移動する。

 黒々とした筆鋒が、薄ぼんやりと差していた光を裂いた。墨に染まっているのではない。毛筆自体が黒い毛を束ねて、創られていた。馬や狸、鹿などの獣のものではなく、もっと他の。


「その筆は」

「ええ、人の髪を結って、創られたものです」


 髪を筆鋒とする。それは禁じられた行為ではない。誰に咎められることでもない。されど常識から考えれば、それは異質なもので、いまわしい物のような印象を抱かせる。


「そいつはいったい」

「筆というにはあまりにもたやすい。強いて云い表すならば、刀でしょうか」


 筆には敵を斬るやいばは備わっていない。ならば、何をもって、刀であると断言するのか。津雲は続けた。


「これは審神司さにわの魂なんですよ」


 ま、あたしの他には審神司なんて逢ったことも噂を聞いたこともありませんがねと、津雲はつけ加えた。


「さにわ……あんたは、何者なんだい」

「人の業念を質し、因果の縺れを解くものでございます。ああ、お奉行とは一緒になさらぬように」


 漆黒の筆が錆びた鋏をなぜる。乾いた鉄の表をなぜただけだ。

 それにもかかわらず。


「やはり」


 筆はしとどに濡れそぼっている。

 筆の先端からぽたりぽたりと、雫が落ちた。板にあざやかな赤が散る。


「ひぃ」

 

 血だ。板を濡らすのは流されたばかりの、血潮の雫。暗がりにあっても濁ることのない濃い赤が、床板の溝に沿って拡がる。傷から血が滲むようにじわりと。お妲は短い悲鳴をあげながら、着物の裳をまくって後ずさる。そうしているうちにも、筆は血を垂らし続ける。


「なんなのよ! これは! こんなの、あり得ないじゃないか!」


 お房がいかほどに強く現実を否定しようと、血潮は錆び臭さを漂わせながら、長屋に充満する。


「怖がらないでくださいよ」


 痩せた肩を竦めて、津雲が笑いかける。筆を撫ぜて指に血を絡めると、津雲はそれをわざと光に透かせて、見せつけるようにかざす。


「これは他でもないお妲さん、あんたの血なんですから」

「っ、馬鹿なことを言わないでよ、そんなこと」

「馬鹿なのは貴女ですよ。そんなふうに視線もさだまらず。真は、気がついておられるんでしょう? ねェ、貴女――」


 錆びた鋏が小刻みに動かされた。閉じては開き、またも閉じて。神経を逆なぜするような金属の音が、崩れかけた精神を斬り刻む。


「昨宵はいったい、どこを自傷なさったんですか? 胸ですか。足ですか。それともかろうじて人目に触れない、このあたりなんじゃあないんですか?」


 鋏の先端をみずからの腕にあてがえて、津雲が不敵な笑みを深めた。

 がくがくと下顎を震わせながら、お妲が自身の身体を掻きいだく。その癖すらお房の模倣だ。何故、それほどまでにひとりの同性に執着するのか。強迫的なまでに真似たのか。その理由をいま尋ねたとて、まともな言葉は返ってこないだろう。お妲は震える身体をいなすことができず、壊れたようにただ「どうして」や「違う」を繰りかえした。


「正直に申し上げて、貴女が自傷を繰りかえしていても、あたしにはなんら関係がありません。それは道に外れた行為ですが、貴女の勝手と言えば、勝手です。模倣も然り。ですが貴女の行為はもはや、個の勝手では収まらなくなっているのです。貴女の行為はいま、貴女の執着しているお相手を巻き込んでいるのですよ」


 お妲は我にかえったのか、驚いて、津雲を見る。


「お房さんは、身体に毎夜増え続ける傷に怯えておいででした。婚礼が間近に控えているということもあり、大層気に病んでおられ、あたしに相談を持ちかけてこられたのです。あたしはその真相を質すことをお約束しました」


 お妲が理解できないとばかりに声を荒げる。


「お房に傷だって!? そんなわけがない! 私が傷をつけているのは私の身体なんだよ? お房になんの関わりがあるってのさ!」

「生魑というものを、ご存知ないですよねェ、やはり」


 ため息をつき、津雲は肩を竦める。気をあらためて、語り始める。


「呪いというものがあります。これは意識して他者に施すものですが、生魑は無意識のうちで他者に影響を及ぼします。呪いと生魑は異なります。されど、人の業念が現実の身に危害を及ぼすという意味では、双方には通ずるものがある」

「呪いなんてただの絵空事じゃないかい」

「とんでもありません。呪いは実在します。事実、孝謙天皇こうけんてんのうの治世、養老律令ようろうりつりょうには蠱毒厭魅こどくえんみという呪術を禁ずる旨が書かれていました」

「……養老律令?」

「ああ、これもご存知ないですか。当時の法令ですよ。ほとんど形骸化してはいますが、まあ、現在でも継続しています」


 話題が逸れてしまったと咳ばらいを挿んで、津雲が続ける。


厭魅えんみというまじないがあります。これは、ひとがたを媒体とする、言わば感染うつりのまじないです。憎む相手に見立てて、ひとがたを傷つけることにより相手を死に至らしめます。藁人形を用いる丑の刻参りなどが、その代表格と言えるでしょう。ですが、あたしは厭魅の元祖とは単なる物になぞらえたものではなく、人の身を媒体とした模倣を本とした生魑であると考えています。すなわちは、貴女がおこなった、それ。着物、装身具、身のまわりに置くものなどを相手に限りなく寄せ、模倣することでみずからを媒体とし、その身に受ける傷をそっくりそのまま、相手に被せる」


 お妲は余程に衝撃を受けているのか、口を覆い、さきほどからしきりに肩を震わせている。覆った指のすきまから、なんとかといった様子で声をあげる。


「わわ、私が、お房を、呪ったとでもいうつもりかい? 冗談じゃアないよ、私は、そんなつもりは」


「ですからさきほどから繰りかえしているはずです。生魑は呪いとは異なるものであると。生魑とは人の強すぎる情念、業念が引き起こす現象を指します。

 巷では絵空事と断じられる不可解な現象。審神司は、その真相を質すことを生業としております。そうして昨日、お房さんからご依頼を受けました。毎夜増え続ける傷のもとを質してほしい、とね」


 お妲は理解できているのか、いないのか、視線をふらつかせながら、黙って首を真横に振る。津雲は一拍の間を置き、満を持して、核心に触れる。


「貴女はなにゆえにお房さんを模しているのですか? まじないの為ではないことは解かっております。まじないの為ではなかったが故に、生魑と転じたのですから。何事が、貴女をそれほどまでに急きたてたのですか?」


 お妲のが、変わる。


「私が、何故、お房を真似ているのか、なんて、そんなこと」


 ごくりと喉がはねた。口許を覆っていた掌が滑り落ちる。口角は未だ歪な痙攣を繰りかえしていた。鋏を見せつけられてからこれまで、ぶれ続けていた目線がとまる。津雲ではなく、その後ろにある、なにか美しい幻を睨みつけるように。


「そんなこと、決まっているじゃあないか! 私はあの娘にあこがれているんだよ!」


 身震いをしながら、お妲が言い放った。激しい熱をほとばしらせるお妲とは違い、津雲の視線は凍えるほどに情が無い。憐れなものを遠巻きに眺めるようにして、睫毛を傾け、細い声で尋ねる。


「あこがれ、ねェ……それは、真ですか?」

「ええ、ええ! そう、あこがれているのさ! いつなんどきだって、あの娘とおんなじでありたい。着物はもちろんのこと、簪や足袋だって違うものは身につけたくもないね。私は、あの娘とならび立ちたいんだよッ」


 それはあまりにも絶叫じみていた。琴線がきれるようにお妲は喉を荒げる。


「だけれど、私はお房ほど美しくは産まれなかった。おんなじ着物を身に纏っても、おんなじ簪を挿しても、おんなじ物にかこまれて暮らしても。どれだけうまく紅を乗せても、どれだけ装いを真似ても、どれだけ頑張っても頑張っても、あの娘にはなれない! 言葉遣いだって、倣ってみたことがあったんだよ。けれどいまの言葉遣いのほうが、私らしいとあの娘が云うから、だから、戻したのさ」


 いつの間にか、お妲は涙を流していた。止めどなく流れる涙でさえ、床を侵す鮮血を洗い流すには及ばない。それでもなお、透きとおった雫はお妲の頬を伝い、声を濁らせた。涙を拭おうともしないその様子は叱られた子どもを思わせ、不憫だ。

 ばっと、お妲は袖をまくりあげ、腕を曝す。

 腕には傷があった。お房の傷とまったくおなじものだ。かろうじて、手首に至らない程度の。皮膚のぬかるんだような血の滲みかたまで一緒だ。


「この身が、許せなかったんだよ。どれだけ頑張っても、お房に及ばないこの身が」

「だから傷をつけていたと?」


 お妲が頷く。その様子には鬼気迫るものがある。

 お妲の執着は尋常なものではないと津雲は思う。それは外からの視線を基準として、妬んでいるわけではないからだ。誰もが褒めそやす美女を妬むのは易い。誰からも好かれる器量よしを羨むのもまた。それらは有り触れた感情だ。強い影響を及ぼす生魑にはなりえない。生魑とは個人に起こるものだ。外の視線を基準に置いた嫉妬や羨望はある意味では無差別だ。その者が憎いわけではない。その者を取り巻く恵まれた環境が、いとわしいのだ。

 いっそのこと、その者でなくともよい。

 

 故に、津雲は他のものにはいっさいの嫌疑を被せなかった。


「鋏だけなんだよ。お房が持っていなくて、私が持っている物はそれだけなんだ」


 芍薬が崩れ落ちる。板の間に膝をつき、お妲が嘆く。着物のすそに血が浸みて、柔らかな鴇浅葱の絹が蘇芳に染まる。津雲はそれを見おろしていたが、すっと視線を逸らして、筆を握る指に意識を移す。


「解」


 筆を動かして、薄い闇の帳にひとつの漢字を書く。ぽたりと、血の雫が垂れたのを最後に、書かれた漢字は影も残さずに失せた。もとから紙に書かれたわけでもなく、かたちなどないものである。乾いた毛筆を懐に戻して、津雲は落ちていたざぶとんを拾いあげる。


「お房さんが待っているでしょうね」


 その場に垂れこめていた重い気配が薄らぐ。津雲は穏やかな微笑をたたえており、さきの張りつめた雰囲気は霧散していた。驚いたように顔をあげたお妲は津雲の呼び掛けに視線を迷わせ、喉を震わせた。


「あ、あ、このことは、お房には」

「言わないで欲しいと?」

「もうこんなことはしない、誓うよ。だから、私。お房に嫌われたくない」


 赤く腫れた目頭を押さえて、しゃくりあげる様子をみれば、言葉を偽っているとは到底考えられない。普段から気丈に振る舞い、実際にはねっかえりの強い性格をしている娘故に、憐れなものがあった。

 津雲は深々とため息をつく。喋らずとも竦めた肩からは致し方無しとの意向が伝わってきたが、敢えて津雲は言葉にする。


「お房さんにとりても、それがよいんでしょうね」


 引き戸に手を掛け、津雲は重い空気を払拭するように勢いよく開けた。真昼の光が室内に残っていたお妲の影を伸ばし、血の海を黒ずませる。振りかえることなく津雲が長屋を後にし、いまだ泣き続ける女の声は誰にも聞き咎められることはなかった。

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