其の参 《糸》

 お房の嫁入りまで日数はほとんど残されていなかった。いまの傷が癒えることさえ間にあうかどうか。一刻も早い事態の解決が求められていた。

 まさか婚前の娘がいる場所を宿とするわけにもいかず、津雲はその後すぐに紫草屋を後にして数日旅籠で宿を借りることにした。内藤新宿には数えきれないほどの旅籠が軒にならべている。宿を選ぶに不便はない。江戸に至るまでの道中で路銀を大方使い果たしていた津雲は葵屋を諦め、いくつかの手頃な旅籠の中から選ぶしかなかった。三夜のうちに依頼を果たすという願掛けも兼ねて、旅籠には三夜の滞在を伝えた。


 人や馬が頻りに行き交う大通は今日も今日とて活気づき、賑やかな呼び込みが空の青さを引き立てていく。踏みかためられた礫土の端には馬糞が積まれていた。これだけ人通りが盛んだと、本道の土全てが馬糞を均したものではないかと思えてくるほどだ。

 四谷新宿馬の糞の中で菖蒲あやめ咲くとはしほらしい――とは新宿を詠った狂歌だが、言い得て妙だと唸る他にない。歌人にあやめと詠まれた飯盛女たちは少々姦しいものの、何れも百花にも劣らぬ艶やかさだ。そんな女の群すら霞ませてしまうお房の美貌は、咲きほこる菖蒲をも項垂れさせる芍薬に例えようか。


 砂埃が巻きあがる通りの脇に立ち、行き先を考えあぐねていた津雲だが、地道に回るしかないという結論に至った。


「さあて、どこから始めますかね」


 女が女を恨む事由など両の指では足らぬほどに思いつく。好いた男を盗られたか。美貌を疎んだか。玉の輿という慶福が妬ましかったか。あり得るのは逆恨みの類ばかりではない。お房が男には見せない裏の顔を持っているという可能性も念頭に置いておくべきだ。

 一方男が美女を恨む動機など、恋に破れた他にはそうそう思いつかない。お房の口振りから察するかぎり他に思い合う男がいた訳ではないようだが、どうだろうか。


 津雲はふらりと蕎麦処の暖簾をくぐった。畳が敷かれた座敷を見まわす。客は三人。時分時ではないからか、さほど忙しくないようで好都合だ。


「何になさいますか?」


 席について間もなくやってきた女将が愛想よく笑いかけてきた。子供が数人いてもおかしくはない年齢の女人で、荒れた手から相当な働き者であることが窺える。

 品書きには目を通さずに、津雲がもり蕎麦を一枚注文すると「もり一枚でござんすね、お待ちを」と言い残して店の奥へと戻っていく。

 古ぼけた外装に相応しく、内装もずいぶんと年季が入っていた。畳にささくれだったいぐさを見つけた津雲は爪で押し込めたが、他にもあちらこちらが擦り切れている。畳の縁にはそばつゆを零した跡がはっきりと見て取れた。畳を敷き直すだけの金子がないのか。さして気に止めていないのかもしれない。


「お待たせしました」

「あ、ちょいと御時間いいですかね?」


 掌を振って呼び止めると、女将はこころよく応じてくれた。


「紫草屋の娘さんについてなんですけど」

「おやま、お客さまもお房に懸想しておられるんですか」

「いえいえ、別にそういう訳じゃないんですがね。ちょいと店に立ち寄ったら、あまりにお美しい女人でしたので、近所でも評判なのではないかと思いまして」

「そりゃあもう。内藤新宿に暮らしていれば、お房の噂を聞かぬ日などありません。見目麗しいばかりではなく、気立てのいい娘ですよ、お房は。小さな頃から損料屋の手伝いをして笑顔を絶やさない子でしたがね。いまでも親孝行を第一に考える、本当にできた娘ですよ」

 実の娘を自慢するように、女将は喜々としてお房を褒めちぎった。

 こうした商いを営む家々が密集した地域ではよくあることだが、育児はその時々手が空いていたもので行うのだ。どこの子どもかは関係なしに面倒を見るので、女達は周辺の子はみな自分の子どもであるような感覚を持つ。

 津雲が何気なく探りをいれる。


「時にお房さんが誰かから恨まれたり嫌われたり、ということはありませんかね?」

「おかしなことを訊く御方ですね。お房を嫌う人なんて想像がつきませんけれど」


 真にたまげた様子でそう言うので、津雲は慌てて弁解する。津雲の様子に尋ねられた意味を察したのか、からからと女中が笑った。


「内藤新宿にお房と競うようなものもおりませんよ。あの娘はそういうのじゃないんですよ」


 そうこうしているうちに蕎麦は伸びてしまった。竹の簀にひっついた蕎麦を箸で突きながら、ある程度は候補をしぼれたと津雲は考える。

 嫌う人など想像がつかないとは極端な主観であって、頼りにはならないが、お房が普段から裏表のない人物像であることは分かった。どれほど器量よしでも性格に問題があれば、なまじ容姿端麗であるからこそ嫌われるだろう。そうでないならば、お房を取り巻く現象は逆恨みからという線が濃くなる。


「お房のことは諦めた方が良いと思いますよ」


 腹ごしらえを終え、津雲が高下駄を履こうと身を見屈めていると、空いたざるを取りにきた女将が背中を叩いた。


「あんないい娘が他にいないのは分かりますがね。葵屋の若旦那さんとの婚礼が五日後にまで迫っているんですよ。ああ、その日は男衆の涙で玉川上水が氾濫しないか、いまから心配で」


 さすがに二度目となると、そんな気はないと繰りかえすのも憚られて、津雲は曖昧に笑うしかなかった。「並んだ姿だけだったら、お客さまとお房はお似合いだと思うんですがね」と最後に言われた時もまた、同様だった。



 蕎麦屋を後にし、様々なところで地道な聞き込みを続けたが、結果はいずれも変わらなかった。

 お房は町でも評判の娘だ。気立てがよくて、愛想もよい。絵から抜けだしてきたような美貌は他のものと比べるのも愚かだ。競うなんてばからしい。子供や老人にも優しく、誰からも好かれている。親孝行だ。あれほどせがれの嫁になってほしい娘もいないが、せがれとはつりあわないだろう――。

 誉めそやすものばかりで悪態をつくようなものはひとりもいなかった。

 まさに新宿の寵児だ。


 嫁入りを悔やむ声はあったが、よい縁談であることは周知の事実であり、もとから高嶺の花と割りきっているので、暗い未練を残すものはいない。手に入るなどと期待していないから、絶望もしない。ならば、男からの愛憎という線も取り敢えずは消して構わないだろう。


 聞き込みに疲れ、どこかで休息を取れないかと津雲は表通りを見回した。

 人波途絶えない大手筋ではまともな休息はとれそうにない。いったん旅籠に戻ってもいいが、ここからは半里ほどの距離がある。雑踏に埋め尽くされた半里を歩くのは骨が折れる。休息を取る為にそれだけの労力を払うのは無駄だ。

 さて、どうするかと腕組みをしかけたときに後ろから袖をひかれた。


「旦那、うちの茶屋に寄ってかないかい?」


 派手な着物に身をつつんだ茶屋女が津雲の袖をつまんでいた。単に茶を飲むならばよいが、新宿にならぶ茶屋は大抵が色茶屋、遊郭の一種であった。茶屋女の着物をみるかぎりでは、九割九分が色茶屋の客引きだ。津雲は柔らかな微笑をもってやんわりと断る。


「ちょいと用があるので、また今度寄らせていただきますよ」

「あら、残念。今度は寄って頂戴ね」


 さらりと諦めてくれる遊女はよい。しつこく言い寄ってくる客引きをあしらうのは面倒だ。もしかすると津雲の顔色が優れないのをみて、茶屋より町医者にでもいくべきだと思ったのだろうか。

 また客引きに袖を取られる前に大通りから離れたほうがよさそうだと判断し、津雲は一本、路地を曲がった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 涼やかな風が吹き抜ける裏通は、表とは違って人の影がまばらだ。梔子の香が漂う路地をいくのは竿竹屋だけだった。路地の両側に軒を連ねるのは大層立派な門構えばかりだが、それもそのはず、内藤新宿は旗本屋敷が密集している土地としても有名だ。格子の門から見通せる庭は綺麗に整えられていた。露を蓄えた青苔が石畳を縁取り、奥には立派な松が植わっている。どこからか、心地のよいつくばいの音が響いてきた。静けさに身を委ねるようにして、津雲が竹垣にもたれていると、小枝がさざめくほどの話し声が耳元をかすめた。

 娘らの談笑が細竹の編み目をかいくぐって、鼓膜を掻く。


「お房さんの婚礼まで、あと五日だとさ」


 意外な名が出て、津雲は面を上げた。


「ほんとうになんであんな顔だけの、愚かな女が選ばれたんだか」

「綺麗なのは認めるけど、お房なんてそれだけじゃないか。別段いい生まれでもなく、習いごとに秀でてるわけでもない。葵屋の跡取りなんてどうやって垂らしこんだんだか、卑怯な手管を使ったに違いないよ」

「飯盛女と変わらない売女の癖して、かまととぶっているのがなおのこと、腹立たしいね」


 喜色をはらんだ憎げ言が集う。そこにはいない人を悪し様に噂する人間の声からは、ねっとりと絡みつくような陰の気が漂っていた。

 やはりそうかと、津雲は別段驚きもしない。いかに大衆に愛されていようとも、否愛されているが故に、日が差さないところで疎まれ、こうして悪意の標的にされる。解かりやすい陰口の数々に嫌悪を擁くには悪意に慣れすぎた津雲だったが、ため息をつくのは禁じえない。竹垣の裏に足を踏みだした次の瞬間、下駄の音と怒号があがった。


「だアれが売女だって? 私が通るようなところで、お房のことを悪くいうなんていい度胸しているじゃないか」


 竹垣から顔をのぞかせた津雲の視線のさきにあったのは大輪の芍薬。お房の姿が一瞬、その芍薬に重なり、すぐに剥がれる。華やかな意匠はお房とおなじものだったが、それに袖を通していたものの様子は、お房とはまるで違っていた。


「ひがみ根性を持ちよって噂をするのはずいぶんと楽しいようだけれど、正午の暇はとうに終わったんだよ」

「すみません、おたちさん!」

「お妲さん、気がつかなくて! さぼっていたわけじゃあないんです」


 たすき掛けを解いた女中らが驚いたように顔を見合わせる。


「奥様に言いつけられたくなかったら、さっさと持ち場に戻んな」


 お妲という女人は鴇浅葱ときあさぎの小袖を振り、女中を追い払った。ばたばたと散っていく女中の背を睨んでから、お妲は近づいてきた津雲を振りかえる。


「どちらさんかは知らないけれど、みっともないもんをみせちゃったね」

「いえ、お房さんのことを悪し様に言う人なんてはじめてだったもんで、驚いただけです」

「ああいう人間には、表立ってお房を罵る度胸はありゃあしないんだよ。殿方の前なんかではお房と仲がいいように振る舞ってうまく繕うんでしょうよ、まったく」


 言い捨て、唇をとがらせる。

 相当に頭にきているようで、他人の前でも不機嫌を隠さない。

 そのせいか、着物の意匠が一緒だったからといって、一瞬でもお房と重なったのが津雲には嘘のように感じられた。淑やかなお房とは異なり、お妲は男勝りというか、ずいぶんと鼻っ柱が強い印象を受けた。着ている着物は柄から染めまでまったくおなじものだったが、他は真逆だ。どちらかと言えば、菖蒲あやめのような女だと津雲は思った。

 ややつりあがった眼を津雲のほうにむけて、お妲ははてと首を傾げた。


「ときにあんた、お房の知りあいなのかい?」


 どのように言えば、後々有利か、津雲は考える。仕事を頼まれていまして、と言えば詳細を尋ねられた時の返事に窮し、言葉を濁せば、おそらくはよい顔はされないだろう。数秒考えて、津雲は真実の一部だけを明かすことにした。


「知り合いというほどのものではありません。今朝、水道枡の近くで倒れていたところをお房さんに助けてもらったんですよ。どうにも立ち眩みと頭痛を起こしやすい体質でして、お恥ずかしいかぎりで」


 総髪をかきあげ、津雲は苦笑いを浮かべた。お妲は納得したようだ。


「そうかい。見ない顔だから、いったいどちらさんかと思ったよ」

「生来の根無し草なんですよ。一ヶ所にはどうにもいられなくて、旅から旅を続けています。江戸には何度か足を運んでいるんですが、留まるにはちィっと賑やかすぎますので」


 津雲自身の話題は切りあげて、津雲はお妲に尋ねた。


「そういう貴女は、お房さんとはどのようなご関係で?」

「私は、お房の幼馴染だよ。昔からずうっと一緒にいるの。お房は綺麗な娘でしょう? 私のあこがれなのさ」


 恋に焦がれているかのような物言いでお妲は語る。瞳には確かな熱がともっていた。女の身で美しくつつましやかな娘をみて、擁くものは妬みばかりではないようだ。お妲はしばらくぽうとしていたが、あらためて津雲をみて、眉を曇らせた。

 

「あんた、顔色があまりよくないよ。旅の疲れが残っているんじゃない? 宿はもう取っているの? 街をみてまわるより、まずは休んだほうがいいと思うけれど」

「あァ、顔色が悪いのは普段からずっとそうですからねェ。ご心配には及びませんよ」


 疲労が色濃いと思われる程度ならば、問題ない。鏡などという高価な品を持たない津雲は、他人の反応からそれを学んでいた。酷い状態になると、誰もが死人のようだといい、すぐに医者を勧める。


「お妲、どこにいったんだい!」


 屋敷の奥から、お妲を呼ぶ声がした。


「いけない! 私も仕事に戻らないと。じゃあ、また縁があったら、ね」


 手を振り、お妲は走り去っていく。小袖がひるがえるさまは蝶を彷彿とさせたが、それでいて、他の生物とも重なった。されどそれはお妲の様子とは程遠いものだったので、津雲は頭に浮かんだものを振り払った。

 旅籠に戻るか。散策を続けるか。用事もなく、あちらこちらを歩きまわるのはさすがに飽きてきた。ついでに買い物でも済ませるかと津雲は考えをめぐらせる。

 そういえば、羽織の紐が切れたのだと思いだす。

 呉服屋がどのあたりにあるのかは、知っている。さきほどお房に言ったように、内藤新宿に訪れたのははじめてというわけではないのだ。津雲は路地を曲がって、もと来た道を戻り始めた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 徐々に西へ傾きかけているものの、初夏の陽は未だ衰えることを知らない。天の恵みとは言えども、これほど日差しが強いとあまり喜ばしいものではなかった。賑やかな風景に馴染めない羽織の紫がふわり、男の背後でたなびく。立ち話をしていたおかげで目眩がやわらぎ、足取りに危うさがなくなっていた。

 人にぶつからないようにふらりふらりと通りを進んで、たどり着いたのは一件の呉服屋だった。玄関先の柱には火事の跡が残っていたが、それ以外は新しい店構えだ。昔からある老舗だとすると、建て替えたばかりなのだろう。戸を開くと呉服屋特有の香りが鼻先をくすぐった。染料と絹の香りが混じった、どこか懐かしい匂いだ。


「おや、これは珍しい。津雲の旦那じゃありませんか」


 出迎えに現れた呉服屋の主人は目じりの皺を深くして、久しく訪れていなかった常連客を迎えた。壮齢の頃には贅肉がでっぷりと帯に乗っていた主人だが、老年期に差しかかってずいぶんと痩せたようだ。体調が優れないのではないだろうかと思いながら、津雲は尋ねることはせず、用件だけをいう。


「羽織紐が切れてしまったんですが、他の店ではどうにも買う気が起こらなくて。丁度江戸に戻ってきたので、寄らせていただきました。見せてもらっても構いませんか?」

「どうぞどうぞ、ゆっくりなさっていってくださいまし」


 店内には所狭しと箪笥が置かれており、あざやかに染められた反物が丁寧に仕舞いこまれていた。床の間に並べられた鼈甲や珊瑚の簪は旗本ほどの俸禄があって、手を伸ばせるほどの高値なものだ。

 呉服屋の敷居は高い。米蔵の残量を案じているようなものが立ち寄れるような場所ではない。町民にとっては、反物から着物を仕立てるというのは生涯に数度、片手の指で数えられるかどうかという大した贅沢である。よって町民はみな、衣類を買い求める際には古着屋を利用するのが常だった。客の要望に応じて着物を仕立て上げる呉服屋とは異なり、古着屋はなんらかの事情で質に流された着物を主流に扱っていた。時には呉服屋で売れ残った新しい品を扱うこともあったが、大抵は見知らぬ誰かが着古したものばかりが店先に並ぶ。

 津雲はその時々によって懐の暖かさに差があり、いまは持ち合わせがないものの以前この呉服屋を訪れた際には一両ほどかけて反物から羽織を一枚仕立てた。一両とは大工の月収の約半分にあたる。呉服屋の主人の愛想のよさからも津雲の普段の羽振のよさが窺える。


「ねえ! お房が仕立てていった着物より高直な品を教えてちょうだい」


 呉服屋の畳にすわり、多種多様な反物を広げては連れ立った侍女と相談を繰り返していた女が突如大声を発した。呉服屋の主は眉を垂らして、首を傾げる。


「お房さん、ですか?」

「紫草屋のお房だよ。大金をはたいて訪問着を頼んだそうじゃないか」

「はあ。確かに昨日参られましたが。仕立てをご依頼なさったのは葵屋の若旦那であって、お房さんは苦笑して遠慮なさるばかりでしたよ」

「そんなことは訊いていないよ。早く高直な品を並べとくれ」


 苛れがましく掌で畳を打ち、女はふんと鼻を鳴らす。

 なんとも品がない女だと呉服屋の主は内心毒づいたに違いない。女は立派な着物に見るからに高価な帯を巻いていたが、趣味がいいとは言い難かった。肉づきが良すぎて、遠方から歩いてきたら壮年の男性とも見違えそうだ。脂ぎった頬を赤らめて、女はなおも呉服屋を急かす。


「お絹さま、こちらの紅藤色などはいかがでしょうか?」


 つき添う侍女が五両よりまだ値が張る反物を差しだす。女は裕福な生まれなのか、金子の上限など気にしていない。横柄な客を相手にする呉服屋は気の毒だが、それがせめてもの救いであった。

 津雲はと言えば、まったくの無視を決めこんで、黙々と羽織紐を選んでいた。

 羽織にせよ着物にせよ、柄や手触りが好みであれば古着でも構わないが、羽織紐だけは新しい品物を購入するというのが、津雲個人の原則だった。古いものは安いが、既に相当消耗しているので、意外に早く使い物にならなくなるのだ。それを見越せば、長く持つ新品を買うほうが賢い。

 津雲の目にとまったのは紫紺の紐に金糸が織り込まれた羽織紐だった。


「紫の羽織紐なんてのも、たまにはいいですかね」


 値札に目を落とせば、予算を超えない程度の値だった。

 これは、と譲れぬ品が見つかり、津雲はやや気分をよくして帰路に着く。

 呉服屋は見送りに出ようとしてくれたが、女がまだ何ごとかを騒いでいたので、羽織の背を追ったのは「またお越しください」との声だけだった。


 高下駄がからんからんと、乾いた音を鳴らす。

 夕焼け雲が漂う中天は、すっかりと茜に染まっていた。斜陽に影を伸ばす町並みは風情豊かだ。旅籠は早々に提灯を燈し、どこからかちぎれ三味線の音色が流れてきた。夕刻を過ぎれば、内藤新宿は吉原にも引けを取らない花柳街へと様変わりする。それでいて、旅籠特有の竈の煙に混じった飯の匂いが、喧騒の渦中にあっても心を穏やかにしてくれた。

 蜘蛛の巣が描かれた着物を纏い、身を飾り立てた飯盛女が津雲の脇を通りすぎていく。はじめてその柄を目にした際は、ずいぶんと珍しい意匠だと思ったが、進むごとに蜘蛛の巣模様の着物ばかりが視界を横切り、どうやらいま流行の意匠のようだと思い至る。絡めば抜けれぬ蜘蛛の檻。それは女郎の身上でもあり、男を呼び寄せる罠とも通じる。


 糸か。人生とは織物であると何者かが唱えた。

 幾多の撚糸が縦横に絡まり、重なって、人生という織物が紡がれるのだ。糸とは意図であり、想念でもある。想念は多様なる因果を産む。善因からの善果もあれば、逆もまた然り。悪因からの悪報もある。されど織りこまれるのは当人の糸に限らず、他者の糸も絡む。因縁の糸。乱雑に張りめぐらされた糸を織りこむうちに、当然のことながら織物はねじれ、れる。

 人生がねじれ、縒れるのだ。


 お房の身を縛る鉄の糸。柔らかな皮膚を裂き、血をほとばしらせる鉄線の先端は、果たして誰に繋がっているのだろうか。


 津雲は既に、質すべき縁の糸を握っている。

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