其の弐 《奇》


 男が意識を取りもどしたのは正午のことだった。

 ぱたぱたと騒がしい足音が徐々に浅くなっていた男の眠りを破り、目覚めをうながす。派手な羽織をまとったその男――津雲つくもは瞼を開いた。男にしては長い睫毛を絡ませ、瞬きをする毎に意識の霧を払う。

 かれは四畳半程度の一室に寝かされていた。

 痛む個所は特にないが、額に濡れた感触があった。何かが乗せられているようだ。

 何が乗っているのか確かめようと伸ばされた指先が、湿った手拭いに触れる。気を失うまでの記憶は曖昧だったが、この様子だと誰かが自分を助けてくれたのだろう。現状をそう結論づけ、津雲は頭に乗せられていた手拭いを外す。

 熱はすっかり引いていた。ただつい先刻まで高熱があったせいか、眼が正確な焦点を結べない。ぼんやりと虚空を見つめていた津雲だが、はたと手を懐に差し込み、指の感覚だけで何かを捜しはじめた。羽織の紐が切れているようだが、幸い目当てのものはすぐに見つかったようだ。

 安堵の息をついたのも束の間、襖が静かに開く。


「ああ、目を覚まされたのですね」


 桜花を想起させる優しい微笑を湛えて、うら若き娘が姿を現す。単衣仕立ての袖が揺れると、ほのかに香の匂いがした。鴇浅葱に染織された小紋の柄は細かな胡蝶だったが、遠くから眺めると大輪の芍薬が浮かびあがった。蝶の群に象られた芍薬は、華やかでありながら派手ではない。染め物師の繊細な技と雅を愛する心意気が如実に表れている。娘は襖のさんを跨ぎ、布団の傍らに正座した。


「体調はいかがですか? もしまだ優れないのでしたら、お医者様をお呼び致しますが」


 盆を一度脇に置き、湯飲みを差し出す。津雲も身体を起こし、深々とこうべを下げた。


「いやァ、おかげさまですっかり治りましたよ。ご迷惑をお掛け致しました」

「そんな。お気になさらないで。大事にならず、結構でございました」


 湯呑みの白湯で喉を潤して一息ついたのか、津雲は改めて窓へと視線を向けた。開け放たれた障子の外は表通りとは反対の方角だったが、賑やかな喧騒が風に乗って聞こえる。陽は天の中程まで昇っているようだ。


「あたしは一体、どれほどの時刻、眠っていたんですかねェ?」


 津雲が尋ねた。


「三刻ほど。熱もさがったのでしたら、懸念はいりませんね」

「あァ、実は生来身体が弱いもんでして、たまにあるんですよ。こういうふうに高熱を出して、倒れちまうことが。流行り病とは無縁なんですが、全くこまったもんです」

「それは、それは。生まれつきでしたら、さぞやお辛いでしょうね。旅の御仁とお見受け致しますが、どちらから江戸へと参られたのですか?」

「甲斐国より甲州街道を通り、江戸まで参りました。各国を転々としているもんでして」


 津雲が白湯を飲み干すと、すかさず娘が空になった湯呑みを受け取った。おかわりはいかがですかとの問いに、津雲は首を横に振って応じる。喉はもう潤ったようだ。

 その間にも襖を挟んだ向こう側では物音が絶えることはなかった。戸の隙間から漏れてきた声の調子などから察するに、食事処や旅籠ではなさそうだ。


「こちらはどういった趣のたななんですかね?」

「ああ、大変申し遅れまして。うちは紫草屋むらさきやと言う看板を挙げて、代々損料屋そんりょうやを営んでおります。私は紫草屋の一人娘、ふさと申します」

「ほォ、損料屋ですか」


 損料屋とは旅籠や茶屋に様々な物品を貸し出す商売である。各地を転々としている津雲にはあまり馴染はなかったが、どういった商売かくらいは知り及んでいた。


「生憎あたしは旅から旅の流れものゆえ、利用したことはありませんが。江戸は火事が多いので、損料屋は繁盛するのでしょうねェ」


 娘――改めお房は掌を真横に振り、苦笑いを零した。


「いえいえ、見ての通り小さきたなですから、繁盛とまでは参りません」


 お房のものとおぼしき部屋は狭く、布団が敷かれている以外には箪笥が一竿置かれているだけだった。箪笥の上には一輪挿しが飾られ、簪や櫛が綺麗に並べられている。畳は敷かれておらず、確かに繁盛しているとは言いがたかった。だが貧しくもない。長屋暮らしよりは上等だ。

 家具が少ないせいか、壁面に掛けられた一枚の着物が眼を引いた。窓から吹き込む初夏の風にあおられて、白無垢の長い袖が揺れる。光沢感を宿した絹が、陽光をはねた。一点の曇りもない純白は清らかなものを表し、また幸福の象徴でもあった。


「こちらの花嫁衣装はお房さんのものなんですか?」

「はい、婚礼の儀が迫っておりますので」


 言いつつ、お房はうつむきがちになった。横顔に影が差し、伏せられた睫毛が愁いを帯びる。唇だけは微笑みを保っているから、よけいに悲しげな印象を受けた。


「なにか、気懸りがあるのですか? 望まぬ縁談だとか」


 津雲が尋ねると、お房はわずかに視線をあげた。


「そのようなことはございません。非常によい縁談を頂いたのです。御相手の殿方はこのあたりでも三本の指に入る旅籠の若旦那さまなんですよ。何度かお会いしましたが、様子の良い殿方でした。私のような損料屋の娘が見初みそめて頂けるなんて、勿体ないくらいで……ただ」


 なにかを言いかけて、言葉をつまらせる。


「いえ、旅の方に話すようなことではありませんでしたね。申し訳ございません」


 話しすぎたことを恥じて、お房は柳眉を垂らす。奥歯に物が挟まったようなお房の物言いに津雲は目を細めた。


「何か込み入った事情がありそうですね。通り一遍の旅人にだからこそ、気兼ねなく相談できることもあるかもしれませんよ?」


 津雲の柔和な笑みからは悪意は伝わってこない。派手な羽織の色合いといい、胡散らしい印象を与えがちな津雲だったが、表情は至って穏やかで人好きのしやすいものがあった。


 お房は襖を振り返り、家族が慌ただしく仕事をしている様子を確かめる。声の調子を落として、決して家族には聞こえないように喋り始めた。


「実は、婚礼が決まってからというもの、毎夜覚えのない傷が増えていくのでございます」


「ほォ」

 津雲がひとつ、相づちを打った。お房の言葉はにわかに信じがたかったが、その瞳は真剣そのものだ。嘘偽りなど僅かもまざってはいない。


「それは実に奇態な」

「信じて、いただけるのですか?」

「ええ、信じましょう」


 津雲が続きをうながす。


「はじめて傷が現れたのは縁談が纏まり婚礼が決まった、丁度その晩のことでした。着物を脱ぎ、はたと見ますと、二の腕に覚えがない切り傷があったのです。浅い傷でございました。このようなところを何故と思いましたが、血もほとんど流れておりませんでしたので、さして気にはとめておりませんでした。ですが、傷はひとつではなかったのです。夜毎に切り傷は増え続け、近頃は浅い傷だけではなく、血がとまらぬほどのものや青痣まで現れる始末。もしひどい痕となってしまったら。そう思いますと、不安で仕方がなく」


 言葉を重ねても伝わりにくいと思ったのだろう。不意に言葉を途切れさせたお房は横一文字に唇を結んで、袖をまくりあげる。


「どうぞ、実際にお確かめくださいまし」

「……わかりました。ちょいと失礼しますよ」


 津雲が柔肌に視線を落とす。透き通った肌には赤い傷が幾筋も交差していた。血が滲んでいる個所もあった。娘は切り傷といったが、傷の様子を確かめたかぎりでは、鋭利な刃物によるものではない。爪で皮膚を裂かれたような傷だ。かといって、人間の爪ではこれほどまでに傷つけることは難しい。鈍った懐刀で斬るか、野生の獣をけしかければ、こうした傷をつけることもできるのだろうが、お房はまるで覚えがないという。自傷の痕のようにもみえたが、それならば、こうして相談を持ちかけるはずもない。まして、婚前だ。このような状態では、無垢なる白が血で汚れることは避けられない。


「腕だけではないのですよ? 傷は肩や足にも及び、昨夜はとうとう胸にまで」


 お房は胸もとのあわせを握り締めた。

 器量がよくとも、身体に傷や痣がある女は疵物と嘲られ、一方的に夫婦の契りを断ち切られることも考えられた。夫の方が妻の実家より身分が高ければ、なおのことである。出戻りを余儀なくされた女が次の嫁ぎ先を決めることは容易ではない。


「もう、どうしたらよいのか」


 薄紅に染まった頬を一雫の涙がこぼれた。

 その様子を見るに、娘はこれまで家族を含めた誰にもこのことを話していなかったようだ。話すことができなかったのは嫁ぎ先に知られることを恐れていたのか、信じてもらえないだろうと諦めていたからか。覚えのない傷とそれが増え続ける恐怖を、お房はひとりで抱えて、袂に隠していたのだ。

 どれほどの心細かっただろうと想像すると、津雲も胸が痛んだ。


「私が葵屋あおいやに嫁げば、母さまや父さまの暮らしも楽になるものと喜んでおりましたのに。どうしてこんなことになってしまったのか。怪我をするようなことはなにもしていないはずですのに。私は何かに憑かれているのでしょうか? 狗や狐であるならば、高等な住職さまに見て頂けば解決するのでしょうか?」


 お房に縋られて、津雲が言った。


「狗も狐もおなじものですよ。おなじ生魑いきすだまの所業だ」

「いきすだま?」


 耳慣れない言葉にお房が聞き返す。


「えェ。生魑ですよ。幽霊というのはご存知ですよね。これは、既に死去したにもかかわらず、この世を彷徨う《存在》を指します。一方、生魑とは生者の強すぎる情念が現世に影響を及ぼす《現象》を言うんですよ。分かりやすい例えを出すならば、呪いなんかがその筆頭ですね。藁人形なんてより顕著だ。憎しみや嫉みといった強い想念が媒体を通して相手に飛び、危害を及ぼす」

「呪い、ですか」

「より正確に言えば、生魑は呪いとはまた異なるものなんですがねェ。ともかく、今貴女が仰られた狗神憑きや狐憑きは、実際にそうした動物の霊が取り憑くわけではなく、獣の性質を持った生魑が起こったときにそう形容するに過ぎないのです」


 狗や狐にとっては迷惑な話ですよと続けて、津雲は人差し指を立てた。


「あたしの経験上、不可解な奇病や突然死には大抵この生魑が関与しています」


 にっと唇の端を持ちあげた。うすら寒いものを感じ取って、お房がふるりと身震いをする。


「生魑の面倒なところは、お役人や住職でも手に負えんところですよ。実際に危害を加えているわけじゃありませんから、お役人にしょっぴいてもらうわけにもいきません。霊魂という実体すらありませんから、念仏や札で斥けることもできません」


 それは、普段であれば、誰もが耳を傾けることさえしないような戯言の類だ。まして素姓も解からない旅人の。されどお房はいま、例え細い藁だろうとたぐり寄せたいほどの、危機に瀕していた。


「それでは如何にすれば、この傷はなくなるのですか」


 お房が神妙に尋ねた。


「もとを質すのですよ」


 意味がくみ取れず、お房が眉根を寄せる。


「生魑が起こるにはかならず、そのもとになった想念があります。嫉みか、恨みか、如何なるもとからそのあらわれに転じたのか。果たして誰が、貴女にそれほどまでの念をむけているのか。それを確かめねばなりません」

「そのようなことができるのですか」

「できます。あたしは、そうしたものに通じております故」


 津雲は言いきった。


「生魑には実に妙な傾向がありましてね。その現象をひき起こしている当人がみずからの情念に気がついていない、という事例がままあるのです。これが巷で知られている呪いとは決定的に異なるところです。呪いは故意にするものですが、生魑は違う。当人の真意、胸にかかえる真の欲望に直結していながら、表層の意識から乖離し、展開する。自覚なき生魑は道理をねじ曲げ、因果の糸をもつれさせてしまうことがあります」


 ただならぬ空気を振り撒きながら、津雲は語り続ける。お房は圧倒されたように黙って、いまひとつ理解できないなりにも津雲の語りに耳を傾ける。


「生魑のひき起こす現象とは時を違えず、そのもとを握る当人に廻っていくものです。これは、道理。しかしながら、因果の糸が縺れると道理すらたやすく踏みはずしていきます。そうなるとやっかいだ。素性の知れなくなってしまった念をとめるすべはありません。故に、誰が誰を憎んでいたか、恨んでいるのか。それがいかなる執念だったのか。生魑の素性を暴き、もとを質すことで、糸の縺れを解くのです。さすれば、おおかたの生魑は収束にむかいます」


 津雲は薄い微笑んで、ぴたりと言葉をとめた。


「助けていただいたご恩返しと云ってはなんですが、あたしが質して差し上げましょうか?」


 首を傾げるとさらりと長い髪が流れる。前髪のすきまから覗く瞳は鋭い。凛然とした視線で射抜かれて、お房はごくりと喉を震わせた。


「貴方さまはいったい」

「あたしは旅の審神司さにわでございます」


 津雲は言いながら、さにわといったその漢字を指で書く。煙のように空に書かれた漢字はお房には読み取れなかったが、唇で言葉だけを繰りかえす。理解には至らない。かといって、それはなにかともお房は尋ねなかった。お房はひしりと男の手を取り、すがるように握る。


「貴方さまが、私を、救ってくださるのですか?」


 津雲の眸に一瞬、暗い影が差す。救うというその語。諦めのような憂いを滲ませて、津雲はするりと乱暴ではない所作で手を解き、薄く笑った。

 

「いいや、残念ながら、あたしは誰も救いやしませんよ。あたしは、神でもほとけでもございません。最善の結果をもたらせるかどうかですら、やってみるまでは分かりません。それでもよろしければ、お力添えしますよ」


 どうしますかと言葉の端を結んで、津雲は、お房の決断に委ねた。

 揺れ惑うお房の目には微風にはためく花嫁衣裳が映る。あれは、私が晴れの門出に纏うものだと、お房の思考がよぎる。優しい母親が大金を積んで仕立ててくれた白無垢に文金高島田を結い、女としての幸福をかなえ、妻としての新たな人生を歩み始めるのだ。花嫁衣裳に袖を通すのに、血のにじむ身であってはならない。苦痛で歪む面に紅を差すのは、正しくお門違いだ。

 深々と頭をさげ、お房は一度は止まった涙を再び零した。


「お願いします。なにゆえにこのような傷が現れたのか、どうか突きとめてください」

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