生魑 -いきすだま-

夢見里 龍

《厭魅之噺》

其の壱 《始》

 江戸の門口として賑わう内藤新宿に朝を呼ぶのは朝陽でも雌鶏でもなく、旅籠の女中が焚くかまどの煙である。棚引く紫煙の一本一本は細く頼りないが、五十件近い旅籠が一斉に薪をくべれば、たちまちに空が白む。立ち昇る細煙が朝霧となって降り注ぐ頃には、甲州街道を旅してきた人々が大通りにひしめくであろう。

 西の空は未だ夜の気配をうっすらと残しているが、そろそろと起き始めた人々の気配が昼の賑わいを予感させた。客引きとして働く飯盛女めしもりおんなは夢の余韻に浸りながら、訪れた今日という日の為に紅を引いている。

 飯盛女とは宿泊客の給仕をするという名目で旅籠に置かれた私娼である。公娼制度により、私娼の存在は正式には認められていない。しかし情報提供を主とした、幕府に対する協力の見返りとして、旅籠は飯盛女の雇用を半ば黙認されていた。


 朝陽に照らされた小路を、ひとりの娘が歩いていく。

 両手に提げた水桶から推測するに、旅籠で働く女中だろうか。淑やかに振る舞う娘は、女中だとしてもかしましい飯盛女らとは決定的に異なっていた。化粧はほとんどしておらず、派手な衣装を纏っているわけでもない。それでいて、娘はいかなる華にも劣らぬほど麗しかった。花貌とはこのことを言うのかと、誰もが唸らざるを得ない容貌をしている。

 江戸中を探しても、匹敵する女がいるかどうか。

 寝ぼけ眼をこすりつつ裏口から顔を覗かせた若い番頭が娘から挨拶を受け、慌てて居住まいを正す。すれ違ったものはみな一様に娘を振り返って、感嘆の吐息を漏らした。

 当人である娘は、己の魅力には微塵も気づいていないようだ。頬を染めた男衆から無愛想な老人にまで、娘は分け隔てなく朝の挨拶を投げかけた。後ろ姿を眺めるだけで胸を焦がす男の気持ちなど知らずに、笑みを振りまく。


 そうしているうちに目的の場所が見えてきた。後は花を終えたばかりの、紫陽花の垣根を越えれば水道枡だ。だが下駄の片方を飛び石に乗せたところで娘は立ち止まった。反対側の下駄が取り残され、小粒の玉石を踏む。娘が見詰める先には水道枡があり、枠組みにもたれるようにして派手な羽織をまとった人物が倒れていた。

 前髪に隠された容貌はよく分からない。

 羽織のあざやかな色だけが娘の瞳孔に飛び込んできた。

 乱菊文様の羽織から女性であると見当をつけた娘は水桶を置いて、走り寄っていく。


「どうかなさいましたか? どこか具合でも……」


 助け起こそうと手を伸ばした娘が何かに驚き、言葉を途切れさせた。

 その人物が肩にかけている羽織は確かに女物であったが、瞼を薄く開けたその面差しは男以外の何者でもなかった。よくよく見れば、濃い紫に染められた着流しは、女のものではない。男は線の細い顎を持ち上げて、焦点が合っていない眼に娘を映す。


「すいませんが……水を、汲んで頂けませんかねェ。どうにも……頭が、ぼんやりしていて」


 血色を欠いた唇から漏れた声は低くかすれ、その渇きを如実に表していた。事態について行けず、呆然としていた娘だったが、男の切羽詰まった様子に我を取り戻す。

 急いで水道枡に釣瓶を落とし、冷や水を汲み上げた。

 それを飲みやすいように柄杓ですくい、男に差し出す。


「あの、大丈夫ですか?」


 男から反応がない。心配になって覗き込むと、瞼がすっかりと塞がっていた。死んでしまったのではないかと、娘は一瞬震えたが、熱を帯びた息遣いが聞こえてきて胸をなでおろす。だが、こんな状態で放置するわけにはいかない。

 その時点で娘のなかに選択肢などなかった。水を汲みに来たことも忘れて、来た路地をすみやかに引き返す。助けを求めて娘が声を張り上げれば、先刻の番頭が駆けつけた。騒ぎを聞き及んだ幾人かの町民が集まり、気絶した男を娘の家へと運んでいく。

 太陽が昇り始め、江戸の街は徐々に賑やかさを増す。

 雲間を塗り潰す藍色の深さが、やけに眼に染みる晴天だった。

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