視力検査
姉川正義
第1話
その前に何の話をしていたのか忘れたが、若林の視力がとても悪いらしいという話になった。木曜の放課後のことである。
夕陽の差して山の端いと近うなりたるに、運動部の生徒はグラウンドで光る汗を流し、俺達しがない帰宅部の生徒は教室で行儀悪く無駄話に興じていた。
出席番号17番、若林。
出席番号18番、若柳。
出席番号8番、長野。
出席番号7番、戸塚。
出席番号6番、俺。
行儀悪く机に尻を乗せた学生服の影は妙に足が細長く見えるから笑えた。とてもとても黒くてくっきりした影で、今にも「やあ」とか喋り出しそうだった。
全員がしがない帰宅部の生徒だったわけだが、とりわけ若林は俺達のエースだった。チビで眼鏡で黒髪で一見すると真面目な学生に見える若林。その実は内職の帝王で、宿題サボりと遅刻を目立ちすぎない程度に繰り返し、その度にもっともらしい言い訳を作ってくる。
つまりはこう見えて、教師をおちょくるのがうまい奴なのだった。
その若林の眼鏡の度がキツいと騒ぎ出したのは俺だったか戸塚だったか。とにかく想像以上の強さで、かわるがわるかけてみた裸眼組はかわるがわる目を回した。
「うえー若林こんなんつけてんの!?」
「よくこれで歩けるなお前」
「いや、むしろそれがないと歩けないんだけど」
ようやく取り返した眼鏡を顔に納め、若林はふうと息をついた。見慣れた顔に戻ってくれたので俺達もなんとなく落ち着いた。
「外してるとやっぱあれ、電柱にぶつかったりするわけ?」
「外した状態で外に出ないから分かんない」
それはそうだろう。
「ちょっともっかい貸して」
長野が若林眼鏡を片手に持ち、目から近づけたり離したりして遊び始めた。
「視界がぐにゃぐにゃするでござる!」
「もういいだろ、返せよー」
必需品を玩具扱いされて持ち主が不満を訴えるも、興が乗った男子高校生はそう簡単に新しい玩具を手放したりはしない。
「これって近視? 遠視?」
「近視と乱視。遠いとぶれる」
ふと、若柳が腕を上げてピースサインを作った。
「これ何本?」
「ごめん指以前に腕が4本生えてる」
その距離、机ふたつ分。笑いが弾けた。
「うっそだろこんな近くで見えてねえの!?」
「視界ぶれすぎ若林!」
「腕が4本! やべえ若柳は人外か」
「そうそう俺って実はうちゅーじんでーす」
笑いながら机を降りた若柳が更に机ふたつ分の距離を取る。
「これは?」
「あー、頭がふたつ」
ぎゃはははは。俺と長野はそろそろ笑いすぎて息ができない。戸塚が廊下側に駆けて行った。掃除道具入れの前に立つ。
「これはこれは!? 俺ふたり見える!?」
「ふたりっつーか、残像拳?」
ぎゃはははは。あはは苦しい。横隔膜が。
「いて、いてて」
若林が若柳にヘッドロックをかけられていた。
「宇宙人の正体見たからー、若林君は連れていかれまーす」
「うっお、やべえ逃げろー」
「待て、逃げる前に眼鏡返せ!」
それから鬼ごっこが始まり、誰が鬼だか分からなくなり、ごちゃごちゃの団子になりながら俺達は三々五々帰宅した。とてもとても黒くてくっきりした影が足元から伸びていた。
あれから1ヶ月。
若林の姿を見た者はいない。
「じゃあ男子の最後の奴、17番若林……いないんだったか。んじゃ7番の戸塚で」
「ええっセンセひどくねえ!? そこは女子の1番で相田じゃねえのかよ」
「あーうるさい」
そろそろ寒くなってきた。影はもうあまり黒くない。俺は視力がとても良いので、影には腕が4本生えているものかどうか、分からない。
影しか見ていないのだが、これも正体を見た内に入るんだろうか。
視力検査 姉川正義 @anegawamsjs
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