第10話 お泊り保育と卒園とそして……
「お泊り……保育?」
聞きなれない言葉に、私は再度妻に聞き返した。
お泊り保育というのは、いわゆる「幼稚園の修学旅行」である。
園内お泊りと、園外お泊りの2種類があるようだが、娘の通っている幼稚園では園外であった。
「幼稚園でそんなことするんだっけ?」
渡されたプリントに目を通しながら、お泊り保育の記憶がない私は妻に聞いてみる。
「私はあったわよ。覚えてない?」
とんと覚えてない。ない所もあるようだし、私の幼稚園はなかったか、それとも単に覚えてないだけか。
「それはさておき、ちょっと心配だなぁ。さくらは大丈夫なのか?」
「大丈夫っていうか、今からすごく楽しみみたいよ。まだ半月も先だというのに」
それを聞くと親としてはちょっと寂しくなってしまうが、本人が楽しみなのならば親としては全面的に後押ししてあげるべきなのだろう。
「わかった。ところで、おねしょとか大丈夫なのか?」
「うーん、さくらのおねしょは最近減ってるから大丈夫だと思うけど、一応先生には言っておくつもり」
幼稚園の先生はその辺抜かりなく、きちんと保護者に聞き込みを行っているらしい。
おむつ必須なのか否かでもいろいろ考えられているようだ。
おねしょしてしまったからと、いじめられないように配慮はしているとのこと。
さすがにプロのお仕事である。
ならば安心かな。と、プリントのスケジュールを見ていると、妻が眠たそうに眼をこすりながら言ってきた。
「ごめん、なんかすごく眠いから今日はもう寝るわ」
いろいろ疲れてるのかな?と、先に寝室に向かう妻の背を眺めるのであった。
* * *
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい」
「楽しんでこいよ~」
お泊り保育当日、娘がいつも以上に元気な声で家を出ていく。
私はいつもは娘より先に出ていくが、今日は有給休暇を使って娘の見送りをしていた。
「わざわざ有給休暇使うとか……」
娘を見送ったあと、含んだ物言いをする妻を無言で制すると、いそいそと居間に戻る。
「なんか……静かだなぁ」
「さくらが出て行ったら、いつもこんなものよ」
そういえば、日中妻がなにをしているのか、あんまり気にしていなかった。
無理言って専業主婦をしてもらっているのだが、一人でこの空気はちょっとキツいかもしれない。
妻は朝食の後片付けをし、洗濯機に洗い物を放り込む。
居間で2人でテレビを見ていると、やはり妻は眠たそうにしていた。
「眠そうだな、ひょっとして体調良くないのか?」
「別に、風邪というわけでもないんだけど、なんかすごく眠いのよ」
「単なる疲れ?」
「そういうわけでもなくて、本当にすごく眠いだけ。あと、ちょっとだけだるい、かな?」
「じゃぁ、寝てていいんじゃないか?昼の支度は適当にするし、必要なら夜の買い出しもするよ?」
「そう?じゃぁ、お言葉に甘えちゃおうかしら…」
そういって、妻は寝室に向かっていった。私は若干の不安を抱えながら、その背中を見つめていた。
* * *
結局、昨晩も妻はさっさと寝てしまった。
日中はほとんど寝ていたにも関わらず。だ。
不安になった私は翌日も休もうかとも思ったが、妻は眠いだけで大したことないから、と私を送り出した。
電車の中でスマホをいじり、「眠くなる病気」で検索してみると、いろいろ出てくる。
過眠症、ナルコレプシー、睡眠時無呼吸症候群(SAS)等々。
少なくとも、突然寝てしまうわけではないので、ナルコレプシーではないらしい。
また、妻はスレンダーであるし、年齢も30代で若くはないが、SASの可能性も薄いだろう。
そもそも隣で寝ているのだ。呼吸が止まればわかるだろう。
ストレスから来た過眠症とか、その他の病気の可能性が高い。
いずれにしろ、素人判断はよろしくないので、しばらく眠気が続くようなら、病院に行くことを薦めてみるか。
結局その日は、あまり仕事に身が入らずに、理由を話して、少し早めに帰宅することにした。
「ただいま」
家に帰ると、いつものさくらの「おかえり」が聞こえないどころか、妻の声も聞こえない。
さくらはお泊り保育なので仕方なしとしても、妻はおかしい。
靴もあるし、鍵もかかってなかったから外出したわけでもないだろう。
急いで玄関を上がり、居間を見るが妻の姿はない。
灯りの消えた寝室を覗いてみると、妻が部屋着のまま横たわっていた。
慌てて近寄ると寝息を立てているのがわかったので、大事があったわけではなさそうだ。
とはいえ、病気なのではないんだろうか?と不安になる。
すると、ふいに、ピピピ…とアラームが鳴り、私がびくっと体を震わせると同時に、妻が目を覚ました。
眠たそうな目をこすりながら、ぼーっとこちらを見ているうちに、覚醒してきたのか、きゃぁ!とすごい声を上げた。
「うわ。びっくりした」
「え?あなた?なんでいるの??私、タイマー間違えたのかしら?」
「い、いや、今日は1時間早く帰ってきたんだよ」
「そう。びっくりしたわ。そんな逆光で暗い人影を見たら誰だって驚くわよ」
こっちも色々な意味ですごく驚いたのだが。
「まだ、相変わらず眠いのか?」
「うん、少し寝れば大分楽になるんだけどね。だから、15分だけ寝ようと思ってアラームセットしておいたの」
「明日病院行ったほうがいいんじゃないか?いや、頼むから行ってくれ」
「でも、明日はさくらが帰ってくるからね」
「さくらは夕方からだろう?そっちは引き受けるから、君は病院行って午後は休んでくれ。重大な病気だったら困る」
「そんなことは…ないと思うんだけどね。もともと、来週になったら行くつもりだったから」
苦々しく笑う妻を見て、何をのんきな…と思ってしまう。私は会社に連絡し、翌日休む旨の話をするのだった。
* * *
「大丈夫か?付き添わなくていいか?」
「子供じゃないんだから平気よ。それに突然眠りに落ちるわけじゃないから」
妻は付き添いを申し出た私にやんわりと断りをいれ、いそいそと病院に向かっていった。
今日は調子がいいのか、さほど眠たそうにしているわけではなかったが、油断は禁物だろう。
とりあえず、妻が帰ってくる前に、洗濯と、申し出ておいた朝食の後片付けくらいはしておかないとな。
とはいえ、そんなに時間のかかる作業ではなく、時間を持て余しながら、リビングでスマホをいじっていた。
昼少し前くらいになると、妻から「病気ではないです。そろそろ帰ります」と通知が入った。
とりあえず大事はなかったらしいとホッと胸をなでおろす。
「ただいま~」
「おかえり、大事なくてよかったね」
「後で詳しく話すけど、これ見て」
妻のその手には、最近ではダイレクトメールなどの広告でしか見なくなった官製はがきが握られていた。
「珍しいな。誰から?」
「さくらから」
「え?見せて!」
住所は確かにPCの印刷だが、差出人のところに、さくらの名前がひらがなで書いてある。
まっすぐに書けずに、微妙に斜めにずれて、大きさもまちまちなそれは、まさしく
裏返すと、ひらがなでこんなことが書いてあった。
おとうさん
おかあさん
ひとりでかみのけをあらつたよ
みんなでなガしこしてからたもあらつたよ
ああ、これ、見覚えがある。
こんなの、子供のころにやった記憶がある。
そうだ。確かにお泊り保育したよ。思い出した。
裏に書かれた文字も、やはり大きさは不揃いで、まっすぐ書けずに、斜めになっている。
それでも、娘が書いた文字だ。
空きスペースに、娘が大好きな桜の花びらの絵やウサギの絵まで書いてある。
「『つ』が、でかいままだなぁ。濁点もあるのとないのとあるし。がの濁点1つ足りないし。ながしこは流しっこの事かな?」
目を細めながらそういう私に、妻は
「ぶつぶつ文句言う割には、なんかうれしそうね」
と言い、二人で娘の成長を喜ぶのであった。
「それで……病院の結果なんだけど……」
そうだ。病気ではない。と聞いて安心していたが、その件もあった。
身構えながら聞く私に、妻は
「実はね……」
と切り出すのだった。
* * *
電話の呼び出し音が数回鳴って、通話が開始された。
「もしもし、母さん?」
「ああ、どうしたの、何かあった?」
電話の先は、私の母親だ。
「悪いんだけどさ、今年の暮れは実家帰れないんだわ」
「あら、何かあったの?」
「うん、もう一人子供がね、できたんだよ。暮れには六ヶ月くらいになるからいけないと思う」
「おめでとう。でも、そんなの今言われても忘れちゃうわよ。また近くなったら教えて頂戴」
「ああ、わかった。それと、さくらがお泊り保育いって、初めて娘から手紙もらったよ…」
「今はそんな言葉があるのねぇ。あんたの頃はそんな言葉じゃなかった気がするんだけど」
「だから覚えてなかったのかな」
「ふふっ。お母さんもあんたが旅先から送ってきた葉書まだとってあるわよ」
「げ、マジか」
何を書いたか、記憶にはないが、娘のはがきを見て思い出したのだ。
きっと似たようなことを書いたのだろう。
「受け取ったあんたも、わかるだろう。あれは捨てられないよ」
「ああ、わかるよ」
口角を上げて、私は微笑むのだった。
* * *
「本当に行くの?」
「そのためにレンタルしたんだから。あなたも手伝ってよ」
ゆったりとした紺のマタニティワンピースに身を包んだ妻が手を伸ばして助けを求めてくる。
三月、娘の卒園式に、妻は妊娠九ヶ月だというのに、卒園式には絶対行くといって聞かなかった。
大分おなかも大きくなり、動くたびに、息を切らしているので、かなり大変そうだ。
かといって共有できるわけでもないので、男親は黙るしかない。
卒園式では、園長先生が卒業証書を渡すとき園児一人一人に一言を添えていた。
すごいな、これ、全部暗記してるのか?いや、暗記というより、一人一人がどういう子供かということを熟知しており、スピーチの暗記など不要というようにも見える。
まるで、ドラマのワンシーンみたいなそれは、なんだか現実離れしていて、とても不思議な雰囲気を醸していた。
やがて、さくらの名が呼ばれ、卒園証書を受け取る。
お姉さんになる自覚が出てきたのか、キリッとした、家ではまず見ない娘の横顔をみて衝撃を受けた。
園長先生の言葉を聞き、こちらまでなぜかこみ上げるものがあり、ぐっと目頭を押さえる。
やばいなぁ。なんか涙腺弱くなってきたのかなぁ。とちらっと妻を見ると、やはり妻も涙目になっていた。
卒園式は滞りなく終わり、妻がママ友と少し談笑していると、そのうちの一人が、「写真撮りましょうか?」と提案してきた。
私はその提案をありがたく頂戴すると、スマホを渡す。
桜の花が咲く頃には、さくらも小学生になり、そして我が家にはもう一人家族が増える。
大変にはなるだろうが、このまま、この幸せな家庭が長く続くようにと願わずにはいられない。
「では、撮りますね」
シャッター音が響き、三人プラス、おなかの中の一人の幸せな時間はスマートフォンの中に納められたのだった。
旦那と奥さんの話 天地朔也 @sac0227
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