ゆっくりと

「あなた、いい加減にしなさいよ」

 言ったが、喉が渇き切って、声が口に張り付くようだった。身体のあちこちに打撲や火傷の痛みがあるらしいが、それはまだ感じないらしい。ただ、息が重い。いくら呼吸をしても、身体に酸素が入らない。そんな風にしな子は感じていた。おそらく、力を使い過ぎており、身体よりも脳が疲れているのだ。

「ああ、にしよう」

 川北は、ジャケットを脱ぎ捨てた。手品のように、その両手に刃物が現れた。

「矛盾ね。わたしをジャンヌ・ダルクにすると言いながら、わたしを殺すの?」

「英雄、聖女の類は、いつも非業の死を遂げるのさ」

「あなたが神に近いと思っているわたしを殺すことで、あなたもまた神に近付こうとするの?」

「驚いた。心が、読めるのか」

「馬鹿にしないで。心が読めなくても、あなたが何を考えているのか想像くらい出来るわ」

「なら、お前もまた、狂っているということになるな」

「だから何」

 川北は、構えない。ただ刃物を持って、普通に立っている。

「さあ、来いよ、しな子。俺と戦うんだろう?それだけ傷付き、悲しみに苛まれてもなお、戦うんだろう」

「わたしは、あなたを殺す」

「いいだろう」

 ようやく、川北が腰を沈めた。左手は前に、右手は後ろに。肩を、やや上げている。

「始めよう」

 きらりと、川北の手から光が放たれる。その風を、しな子は聴いた。そのまま腕を捉え、へし折ってやるつもりなのだ。しかし、川北は巧みに体を返し、逆にしな子の腕を捻り上げた。

「駄目だな、そんなんじゃ。見え透いている」

 しな子が、苦痛に顔を歪める。

「おいおい、そんな顔をするなよ。皆が、がっかりするじゃないか」

「ふざけないで」

「ふざけてなんて、いるものか。俺は、いつでも大真面目さ」

 そう言いながら、川北は捉えたしな子の腕に顔を寄せ、唇を少し付けた。

「ここにも傷。こっちにも、青痣。これは、銃で撃たれた痕か」

 愛でるように、それらを観察している。

「どれも、美しい。どれも、お前がこの世で最高の存在であるという証明」

「そんな、いいものじゃないわ」

「いいや。これは、お前の」

 川北が、別の方向に力を込め、しな子の肘が外れる。激痛が走るが、しな子は低く呻くのみである。

「何を堪える。何を、秘める。解き放つんだ。お前の、全てを」

 しな子は唸り声を上げながら、地を蹴った。

 身体が宙に上がり、逆さになる。

 川北が片手でそれを受け流すが、捉えていたしな子の腕も逃がしてしまっている。

 着地。

「わたしの、すべてを」

 しな子が、少し俯いた。

 また、自我を失うかにも思えた。しかし、再び上がった瞳には、強い光が宿っていた。

「わたしの全てを懸けて、あなたを否定する」

 それを聞いた川北が、口笛を一つ、吹き鳴らす。

 対峙。それは、静寂。

 また、しな子の耳の中に、自らの脈の音。

 すぐ隣ではいつもの少女――幼い頃のしな子――が、同じように川北を睨み付けている。


 しな子が念象力に目覚めたのは、彼女が五歳のとき。それ以前の記憶は殆ど無いが、少しずつ蘇りつつもある。おおよそ年頃の女の子とはかけ離れた青春時代を過ごしていたが、たった一人、心を許せる者があった。

 土井紗和どいさわ。彼女はしな子が倒し、試験的に埋め込まれていたデュオニュソスを取り出され、使い捨てられた。

 彼女と再会するまでの間にしな子はライナーノーツにスカウトされ、赤部と出会い、一人前の殺し屋になった。何人、を葬ったか分からない。

 その間に出会った、奏太郎。無垢な、守られるべきその命は、父である高松議員の売名のために使い捨てられた。それを焼いたのは、他でもない、しな子の炎。今、高松議員はテロで息子を失った悲劇のヒーローとして、国民から支持を受けている。

 佐藤加奈子。同じライナーノーツの構成員である念象力者であったが、パートナーである男を失い、その間に出来た子を、戦いの中で出産した。正直なところ、その姿に、未来の自分を重ねていた。もしかすると、自分のような人間でも、人の親になれるかもしれない。そういう期待が未来に対して、ほんの僅かに持てたような気がしたのだ。

「その赤ちゃんに、教えてあげて」

 としな子は、奏太郎に教わった歌を、佐藤に伝えた。佐藤は、それを子に伝えることなく、死んだ。

 皆、奪われてはならないものを、奪われた。望まぬものばかりを、与えられて。

 その連鎖は、人が続く限り、永遠に途切れることは無いのだろうか。

 否、としな子は思う。

 子に歌を教えるのは、しな子にも出来るはずである。

 その生きて来た道を、これから誰かと共に生きることで、伝えること。それは、選ばれた者のみに許された特権などではなく、ごく普通の、アスファルトの隙間に咲く花くらいにどこにでもあることであるはずだ。そして、そういう花の美しさを知ることもまた、喜びなのだろうとしな子は思う。

 だから、彼女もまた、その瞳の中に花を咲かせている。

 この場合は、大輪の。川北を包むようにして舞う、紅の蓮。

 いつも、彼女を導き、そして苛んで来た。ようやく断ち切ったと思えば、デュオニュソスという媒体を通じ、彼女を慕うようにして追ってきた。が何なのか、しな子には分からぬ。だが、もしかすると、これは、しな子自身、あるいはその一部なのかもしれない。


 川北はシャツを乱暴に脱ぎ捨てたが、上半身にひどい火傷を負っている。だが、その表情は変わらず、涼しい。

「あなた、一体」

 普通なら、のたうち回っていてもおかしくないほどの苦痛に襲われているはずである。しかし、川北は、火傷など全く受けていないかのように、ただ立っている。

「俺にも、人を超えるはあってな」

 半分焼け潰れた顔を歪め、川北は笑った。黒く変色した皮膚が突っ張り、それは笑顔とはまた別の何かになった。

「俺は、視覚と聴覚以外の全ての感覚を、持たない」

 川北が、自らの焼けた皮膚に、刃物を少し突き立てた。

「昔、この稼業を初めて間もないころ、手ひどい返り討ちに合ってな」

「同情はしないわ」

「同情?自慢話さ。聞いてくれ。これは、神が俺に与えたものだ。酒の味も分からず、風の匂いも、風が吹いたことすらも分からぬ代わりに、あらゆる苦痛を超え、俺は敵を屠ることが出来るようになったんだ」

 確かに、痛みを感じなければ、のたうち回ることもなければ苦痛のために運動が止まることも無い。そういう意味では、川北は戦うことに誰よりも身体なのだろう。だが、しな子は言う。

「それに、何の意味があるの」

「おや、これはご挨拶だな。お前ほどの戦士が、この価値が分からないとは」

「何の意味も無いわ」

「そうか。お前にそう言われれば、とても残念だな。自慢の身体なのにな」

 川北は、そのまま、一歩ずつしな子の方に歩いてくる。

 一歩進む度に、しな子の側で炎が上がる。

「俺はこの、苦痛を超えた先にある肉体と、デュオニュソスによる念象力を併せ持つ至高の存在になったんだ」

 また一つ、爆炎。

 しな子は、眉一つ動かさない。

 次の炎が、倒れているマヤのむくろを焼いた。

 しな子が、ちらりと横目で見た。

「女神がはじめにそこにあり、男神と出会う。そうして、人は新たに作られる。そういう神話が、どこかにありそうだと思わないか?」

 しな子が、踵を一度踏み鳴らした。正直、息も上がっているし、身体のあちこちが痛みという悲鳴を上げている。左肘は外れたままであるし、立っているのがやっとという状態である。それでも、彼女は。

「前言撤回よ」

 と、低くした姿勢から、見上げるように、川北を睨み付けた。

「あなたは、かわいそうな人。心から、同情するわ――」

 蹴った。床を。

「――下衆野郎!」

 川北の炎が蛇になり、しな子目掛けて襲い掛かってくる。

 それを、しな子は見た。

 見て、結んだ。

 痛みの中にある、左手の疼き。

 それを、結んだ。

 炎が、炎に巻かれ、舞う様を。

 しな子の呼んだ紅の蓮は、川北の蛇を吹き飛ばし、周囲の壁や床にもひび割れを生じさせた。

 川北は、それをいた。

 身を大きく横に投げ出し、空中で体勢を整えようと腰を捻る。

 しな子は、更にそれを読んでいた。

 跳ぶ。

 熱炎を超えて。

 怒りも、悲しみも超えて。

 空中で、川北の頭部を掴み、自らに引き寄せる。

 入った。

 必殺の。

 膝が折れたのか、しな子は地にそのまま転がり、起き上がることが出来ない。

 川北は、仰向けになって、両手両足を投げ出している。

「――しな子」

 川北が、口を開いた。死んでいない。疲労のあまり、蹴りが浅かったか。

「お前なら、神をも超えられる」

「興味、ないわ」

「釣れないな」

 川北の声には、力が無い。

「しな子。行くといい。お前の示す道が正しいことを、証明してみろ」

 川北は、その雇い主と、居所を告げた。都内にある民間の航空機が発着する、小さな飛行場。

「早くした方がいいぞ。ナノマシンは、何も血管に注射するばかりではない」

「どういうこと」

「ここで行われていたのは、その試験。今、松田幸作は、別の試験に向かっている」

「まさか」

 しな子はうつ伏せのまま、目を大きく開いた。

「やはり、察しがいいな。空中散布するのさ」

「そんな、馬鹿なことが」

「もともと、ナノマシン型のデュオニュソスは、埋め込み型よりも宿主の適正が強く問われる。今の技術じゃ、より多くの被検体が得られなければ、この病院で生まれた生ける死者のような念象力者もどきが量産されるだけさ」

「無差別に、空中から――」

「ナノマシンとは、要するに、タンパク質の塊だ。細菌のようなものさ。それが感染し、デュオニュソスを体内に運ぶんだ」

「止めなくては」

 しな子は、起き上がろうとした。しかし、どうやっても全身に力が入らない。

 息も薄い。しな子は、自分がここで死ぬのではないかと思った。

 川北。

 起き上がろうとしている。

 落ちた刃物を、拾い上げて。

「さあ、しな子。俺を超えて――」

 起き上がった。

 そのとき、また轟音。

 脇腹を抑え、右腕をだらりと提げ、左足を引き摺った赤部の姿が、炎が呼ぶ陽炎かげろうの向こうに揺れていた。

 左手で三八口径を、真っ直ぐに構えている。

 川北が、膝をつく。

「貴重な情報、ありがとよ」

 血の混じった唾を、吐き捨てた。

「ここまで登ってくるのに、苦労したぜ」

「赤部、お前」

「死ね」

 発砲。五発。

 いかに痛みを感じぬ川北とて、胴体と頭部に五発の銃弾を受ければ、即死する。赤部はそれに目もくれず、しな子のもとへ。

 痛みを堪え、ゆっくりと、抱き起こしてやる。

 ゆっくりと。

「しな子」

「赤部さん」

 二人は、歩き出した。

 全身と心に、大きな痛みを抱えながら。

 それでも、ゆっくりと。

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