そのもの
「開成中央病院」
赤部は、スマートフォン越しに流れるしな子の言葉を反復した。
「一体、そこに何が」
開成中央病院と言えば、都内にある政治家や有名人御用達の高級病院である。確証はないが、松田幸作と何かしらの強い繋がりがあり、そこで何かをしようとしているのだろうと赤部は想像した。そこに、何故しな子を招くのかは分からない。
また、しな子は、再び接触したマヤが念象力を持っていたという驚くべき情報ももたらした。もし、それが本当なら、マヤはデュオニュソスを埋め込んだことになる。また、その力は、しな子の炎と、佐藤の読心術であると言う。デュオニュソスは、被験体となった者の力を記憶する。しな子と佐藤の両方の力を記憶した新型が、既に開発されているということらしい。
川北は、しな子を欲しがっているように思える。しな子を殺そうと思えば殺せたにも関わらず、それをせずに、誘うようなことばかりをする。開成中央病院に来いと言われても、どうせ何かしらの罠が待っているに決まっている.
「行くのか」
それを踏まえて、しな子に訊いた。
「行くわ」
としな子は当たり前のように言う。
「分かった。迎えに行く」
「別に、いい」
「そういうわけにはいかんだろう。待ってろ、すぐ車を出す」
こうして赤部は、しな子をホテルまで送り届け、自宅の駐車場に停めたアルファロメオに再び乗り込んだ。
しな子は、ホテルの部屋で、ぽつりとテレビを見ながら、赤部を待った。
待ちながら、一人、笑った。
川北に来いと言われれば出向き、赤部に待ってろと言われれば待つ。そういう生き物である自分が、おかしくなったのだ。
そのくせ、為そうとしていることは大きい。もうこれ以上、自分のように、奏太郎のように、そして佐藤のように、奪われてはならぬものを奪われる人間を作らない。それをこそ、しな子は為そうとしている。川北一人を殺したところで、もっと大きな闇が彼女を覆ってくるかもしれない。
それでも良かった。ただ、彼女は、戦いたいのだ。
今、彼女には、はっきりと分かる。
自分が為そうとしていることが、どういうことか。
それゆえ、彼女は、戦うのだ。
足を大きく開き、ストレッチをする。その小柄ながらしなやかな身体に刻まれた無数の傷の痕が、彼女の戦いの日々をささやかに物語っている。一度外したピアスを、再び左耳に。洗面台に足をかけ、腿を大きく伸ばしながら、メッシュの入ったおかっぱ頭をざっと撫でつける。弾丸を自ら摘出し、傷穴を焼いて塞いだ痕のある左肩をひとつ回し、首を鳴らす。
片足立ち。そのまま、挙げた方の足を、真っすぐに伸ばす。そうしながら、ペットボトルの水を一口飲んだ。身体をこうして動かしても、なんともない。眩暈もなければ、意識を失うこともない。段々、しな子の脳が、そこに寄生するデュオニュソスを制し、我が物とし始めているのかも知れない。
左手の疼きを感じながら、振動するスマートフォンに出た。
「俺だ。もう着く」
「降りるわ」
時刻は、午前二時。いつの間にか季節は進んで、もうこの時間なら外は涼しい風が吹く。眠そうな顔をしたフロントの従業員にに不審に思われながら鍵を預け、ホテルを出た。
「こんな時間から押しかけても、どうしようもないわね」
しな子が口を開いた。
「いいや。奴のことだ。何か、意味がある」
「わたし達のことを、監視しているわ」
それは、そうだろう。目的があり、しな子らが来るのを見計らって、何かをしようとしているのだ。そうでなければ、川北も深夜に病院に来いなどとは言わぬだろう。
「乗ってやる、っていうんだな」
赤部は笑ったが、声が上ずっている。それを隠そうとしたのか、カーステレオから流れるキース・リチャーズのギターソロの音量を少し大きくした。
「ええ、そうね」
助手席のシートに埋まるようにして深く腰掛けたまま、ぶっきらぼうにしな子は言った。
そのあとは、沈黙。何十回も聴いたストーンズ。今流れている曲のタイトルが思い出せない。
「ルビー・チューズデー?」
「お、よく覚えたな」
サビでそう言っているようだから当てずっぽうで言ったのだが、当たっていたらしい。そういえば、この日は火曜日であるから、紅の蓮が咲く火曜日に相応しいタイトルであると言える。そういう冗談を少し言おうとも思ったが、赤部が余りにも真剣な顔をしてハンドルを握っているから、やめた。
三十分ほどで、彼らは開成中央病院に到着した。近くのコインパーキングにアルファロメオを停め、乱暴にドアを閉める。深夜のことであるから、無論、通りにも病院の敷地にも人気はない。無人になっている病院の駐車場のゲートをくぐり、正面玄関へ。
「裏口から行ってもいいんだが」
赤部が、スーツの懐から拳銃を取り出し、いつでも撃てるように安全装置を外した。
「討ち入りは、正面からと決まっているわ」
「忠臣蔵の時期には、まだ早いぜ」
「忠臣蔵?」
「いや、雪の降る中、吉良邸に討ち入りを」
「ああ、そう」
しな子には、興味が無いらしい。
「静かだな」
薄暗くなった深夜の病院は、不気味である。大病院だから深夜でも開いていて、出入りは出来るものだが、それにしても、ロビーには守衛や医師の姿が見えない。
「なにか、おかしい」
赤部が、肌で違和感を感じている。
「赤部さん」
暗がりからそれが現れるより先に、しな子が気配で察知した。赤部がロビーから病棟へ繋がる廊下の先を見ると、パジャマ姿の男が一人、頼りない蛍光灯の光の中を歩いて来る。
「すみません、ちょっといいですか」
赤部が問いかける声が、残響になって廊下の向こうの闇に消えてゆく。
答えはない。
「すみません。ちょっと、お伺いしたいのですが」
赤部が、声を大きくした。
やはり、答えはない。男は、足を引きずっているように見える。
「おい、止まれ」
赤部の語気が、変わった。懐に手を差し入れ、男を制止した。
「止まれ」
拳銃を抜き、男に向ける。男は、なおも足を引きずるようにして、二人の方へ歩いてくる。
だんだんと歩調が荒くなり、乱暴に駆けはじめた。
「止まれ!」
撃鉄を起こす。
男は、俯いた顔を上げ、血走った眼で、赤部を見た。
「赤部さん!」
咄嗟に、しな子が赤部を突き飛ばし、自らも飛んだ。
その二人がいた場所に、爆炎。
「念象力!」
男は、うめき声を上げながら、跳ね起きて身を低くしたしな子を見た。
また、炎。
しな子のスニーカーがそれをすり抜け、バスケット選手がシュートを放つときのような甲高い音を立てる。
跳躍。
男の腿で蹴り上がりざま、顎に強烈な飛び膝。それで、男は失神した。おそらく、死んではいないだろう。
「なんなんだ、こいつ――?どうして、念象力を」
「デュオニュソスね」
それは、間違いない。だが、このパジャマ姿の男が、何故。
別方向の廊下。今度は、太った女と思しき影。
しな子は問答無用でそちらに駆け出す。
その間、倒れた男を踏み越えて、別の男が叫びながら赤部を目掛けて駆けて来る。
「何だってんだ、畜生!」
赤部が拳銃のグリップで男に打撃を加え、しな子も女を蹴り倒した。
「赤部さん!」
ロビーに繋がるあらゆる廊下から、パジャマ姿の人間が群れて出て来た。
「冗談じゃねえ、ゾンビ映画かよ」
赤部は腹を括ったのか、もう一丁の拳銃も取り出し、前方の二つの廊下に向けた。
そのとき。薄暗かったロビーの明かりが点いた。真っ白な光に、一瞬、視界が奪われる。
しな子が眼をかばった腕の、ジャージの三本ラインの向こう、吹き抜けの上。
そこに、川北がいた。マヤもその隣に。
「やあ、しな子」
「やあ、じゃないわ。この人達は、一体何なの」
「彼らは、念象力者さ」
「見れば分かる」
赤部が吹き抜けの手すりから身を乗り出すようにしている川北を見上げ、銃口の一つを向けた。
「川北、お前、まさか」
「そう、この人達は、この病院の患者さ」
「お前――」
「おっと、俺に怒るな、赤部サン。お上が、勝手にやったことさ」
「無関係の一般人に、デュオニュソスを」
「そうらしい。全く、大それたことをするよ」
「ここの病院はね、わたし達の雇い主と関係が深くてね」
マヤが、口を挟んだ。
「そいつは、一体、何をしようとしているんだ」
「さあね、赤部さん。自分で、確かめてみれば?」
「マヤちゃん」
「信じてたのに、って言いたいの?ごめんなさいね」
マヤは、こんなにも明るい口調であったろうか。もしかすると、頭に埋め込んだデュオニュソスの影響なのかもしれない。今、赤部としな子を取り囲むゾンビのような念象力者もそうなのであろうが、デュオニュソスとは、植え付けた者との相性により、その人格や行動を激しく変化させる。
「どうやら、注射の方が、効くみたいでね」
何がおかしいのか、川北が笑いながら言った。赤部の心を読んだのかもしれない。
「注射だと?まさか」
「そう、彼らは、手術で頭に埋め込む試作型ではなく、体内に注入するナノマシン型のデュオニュソスを持っている」
「馬鹿な」
それが実現したのだとしたら、世界は滅びかねない。誰でも簡単に念象力を手に入れることが出来る世の中。それは、灼熱の戦争により焼き尽くされることであろう。あらゆる場所、あらゆる時間において標的を抹殺し、いくらでも換えが効く。軍事転用されれば、世界の力のバランスは一夜にして塗り替えられる。
「どうやら、俺の雇い主は、それを望んでいるらしくてね」
赤部は、川北がここで二人を始末するつもりだ、と察した。川北のような職業の男が雇い主について話すことなど、普通ではあり得ぬからだ。拷問にかけられたとしても、それは話してはならないことである。
「そう。あんたには、死んでもらう。ただし、しな子は別だ」
「どういうこと」
「しな子。お前は、美しい。戦いの天才だ。神に与えられた力を、持っている」
「馬鹿にしているの」
「いいや。心から、俺はそう思っている。お前は今まで、幾多の死線を超え、その度に強くなってきた。その心と体を、戦いに強く順応させて来た。そして今、出来損ないのデュオニュソスを埋め込んだ不安定な状態ながら、それをもその精神で制し、俺の前に立っている」
「だから、何」
「忘れたか。デュオニュソスとは、記憶するのだ」
それは、しな子も嫌になるほど知っている。
「お前の心と体には、今までお前が積み上げてきたあらゆる戦いが、記憶されている。そう、お前はまるで――」
川北が、心底嬉しそうな表情をした。いや、それはもはや、しな子に対する畏敬とも取れる笑顔であった。
「――デュオニュソスそのものじゃないか」
見下ろしながら、大げさに両手を広げ、川北は言った。
「言いたいことは、それだけ?」
しな子が、構えを取った。赤部も、川北に照準を合わせた。
「おっと、赤部サン。邪魔をしてくれるな。狙うべきは、俺じゃない」
二人を取り囲む患者、いや、念象力者たちが、息を荒くしている。ざっと見て、百人はいるか。
「さあ、見せてくれ、しな子。お前の記憶を、俺に」
川北が、強く手を鳴らす。
それに反応し、念象力者どもが、一斉に二人に飛びかかった。
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