待ってる
こうなれば、組織の存続がどうのと赤部も言ってはいられない。国を相手に、極秘で進められているデュオニュソスの流通を阻止するのだ。国の下請けのような形を取りながら巧みに偽装していたリトルウイングの存在も所在も露見してしまっている。やらなければ、やられる。そういう所まで来てしまっているのだ。
「俺は、腹を決めたぞ」
と赤部が当たり前のようなことを言う。
「ああ、そう」
としな子はいつもの通り返す。
それだけで、決まった。
優秀な分析官であるマヤは居ない。別の者が、川北のことを徹底的に洗っている。心もとないが、やるしかないのだ。
待てば、それだけデュオニュソスは増えてゆく。佐藤のような者が、増えてゆくのだ。それは、何としても阻止しなければならない。
「赤部さん」
分析官の一人が、赤部に、川北についての報告をまとめて持ってきた。調べたところで、川北については何も分からぬだろうと赤部は思っていたが、その報告は驚くほど細かいものであった。
川北の略歴や生い立ちについては勿論のこと、今、松田幸作という与党議員とつるんでいることも調べ当てていた。それを、しな子に聞かせてやる。
「そう、誘っているのね」
としな子は述べた。
「調べ当てたんじゃないわ。教えてもらったのよ」
「わざと、自分について俺たちが探り当て易いようにしているということか」
「たぶん」
しな子は、ざっと目を通した資料を、ブリーフィングルームの机の上に放り投げた。
「横浜から、妙な荷物が大量に運び込まれて、都内に。例の筑波の研究所じゃないのね」
気になる点を、口にする。
「そうなんだ。そこは、特に気になる」
「都内の、どこへ?」
「そこまでは、分からない」
横浜から、都内への輸送。そこに、川北の護衛の痕跡があった。しかし、都内に入ると、その足取りはぷつりと途切れる。
「松田の方から、探ってみているところだ。奴らが、デュオニュソスを使い、何をしようとしているのか――」
「そんなの、決まってるじゃない」
しな子は、それだけ言うと、立ち上がり、出て行こうとする。
「どこに行くんだ」
「別に。ちょっと、身体を動かしてくる」
まだ自らの炎で負った火傷も癒えぬのに、しな子は上の階のジムに向かった。
様々なものが、明滅する。
ここは、あの高速道路か。
横転した車。その側で泣いているのは、見知らぬ子供。
――おかあさんが、死んじゃった。
そう言って、その子供は泣いている。
「お母さんは、どうして死んでしまったの?」
と訊いてやろうとして、やめた。
何故なのか、しな子は知っていた。
お母さん、というのが誰なのか、しな子は知っていた。
この子が誰なのか、しな子は知っていた。
うたを、うたう。
そうすると、子供ははっとした顔をした。
性別も、歳も分からない。まだ、こんなに大きくはないはずだ、としな子は内心苦笑いした。
しかし、その子供は、確かにしな子の前にいた。そして、奪われたことを悲しみ、泣いているのだ。
「泣かないで」
それだけを、しな子は言った。
手を伸ばそうとすると、横転した車から、蛇のように炎が伸びて来た。
――おねえちゃん、熱いよ――
見知らぬ子供は、奏太郎の姿になった。
「可哀想ね」
炎に巻かれる子供、いや、奏太郎を見つめ、縫いぐるみを抱いた幼いしな子が言った。いつの間に側にいたのか分からないが、じっと奏太郎が焼かれてゆくのを見ている。
「ねえ」
しな子は、幼いしな子に声をかけた。
「あなたは、どうするの?」
「それは、あなたが決めることよ」
そう言って、幼いしな子は、炎の方へ歩いて行った。
「待って」
呼び止める声に、幼いしな子が振り返る。
「これは、あなたの火。彼らは、あなた。戦うんでしょ」
炎は、なお強い。それを背に、幼いしな子は少し笑った。そして、消えた。
全身、汗にまみれている。ジムのVIPコーナーのトレーニングルームで一人、構えを取ったまま、しな子は微動だにしていない。
意識を、集中する。
刃物。
それが、襲ってくる。
左手で川北の手首を弾き、身体を開ける。そこに、滑り込むようにして打撃を加える。そういう様を想像した。しかし、想像の中の川北は、その打撃を外し、逆手に握り直した刃物でしな子の首の付け根を刺した。
川北は、心を読む念象力を使う。しな子がどう出るか、読まれてしまうだろう。だが、全てを読み切れるわけではない。戦いにおいて取る行動とは、ほとんどが無意識の反射によって行われるからだ。だから、出来るだけ、無意識の引き出しを増やすことだ、としな子は思っている。
目の前の、川北。振りかぶることなく、真っ直ぐに刃物を突き出してくる。
それを脇に通す。
気取られることはなかった。
しかし、川北の空いている手が、上着の内側に。
咄嗟に身を捻るが、川北の方が一瞬速かった。上着の内側から抜いたもう一本の刃物で、しな子は腹を抉られた。その熱い感触が、体内でぐるりと回るのを感じながら、それでも、その腕を捉えた。
捉えて、捻り上げる。前に倒れる川北の上体に交差するように、渾身の膝蹴り。
腹を食い破る刃物が、また別のものを破った。
吐瀉しながら前のめりになる川北に、組み付く。
そこで、念象力を使う。
結ぼうとした。
「しな子」
赤部の声で、しな子は我に返った。
返ると、川北もいないし、どこも刺されていないことに気付いた。ただ、あちこちに負った火傷の上を流れる汗が、ひりひりとした感触をもたらすのみであった。
「どうだ」
「どう、って」
赤部が、しな子を気遣い、様子を見に来たことはしな子にも分かる。しかし、どうだ、という質問ほど、答えに困るものはないのだ。
「今日は、もう帰ろう」
帰ると言っても、しな子に家はない。川北にマンションを探り当てられて——正確にはマヤが川北を引き入れて——以来、しな子はホテルを点々としている。荷物もお気に入りのスポーツブランドのリュックサック一つ分しかないし、それも赤部のアルファロメオで運ぶから、特に不便はない。しな子にとっては、とりあえず横になって眠れれば、マンションでも一流ホテルでもネットカフェでも変わりはないのだ。不便があるとすれば、せいぜい、お気に入りのアロマキャンドルを焚けぬことくらいか。
この日泊まったのは、都内の観光ホテル。外国人の宿泊客が多い分、人の出入りが夜でも多くあって目立たない。別に何を警戒するわけでもないから、赤部が返った後、しな子はふらりと部屋を出て、そのまま近くのコンビニに向かった。ホテルの歯ブラシが柔らかすぎて使いづらいので、それを買いに出ようと思ったのだ。
「しな子ちゃん」
その声に、しな子は即応し、身構えた。
街灯の光を避け、暗がりの中へ。
「そんなに、怖がらないで」
「マヤさん」
声の主は、マヤであった。
「色々、わたしたちのことを調べているそうね」
しな子は、答えない。街灯に照らされたマヤに向かって、姿勢を低くし直した。
「そのまま、続けて」
とマヤは意外なことを言う。
「あの人が、あなたを待っているから」
「川北のことね」
「あの人は、悲しい人。あの人は、あなたを欲しがっているわ」
「どうして、あの男にそこまで入れ込むの?」
「あの人は、ああいう風にしか、生きられない人。あなたもそうでしょう?」
しな子は、また口を閉ざした。
「わたしも、そう」
そう言って、マヤは暗闇の中で牙を見せる小さな獣のようになっているしな子を見た。
戦いとは、ほとんどが無意識の反射である。
それが、しな子を横飛びに飛ばせた。
同時に、しな子が居た闇に、火が咲いた。
念象力。
「マヤさん、あなた――」
マヤは、喉を少し鳴らして笑った。
「これで、あなたと同じね」
「埋め込んだの?」
デュオニュソスを。自ら望み、念象力を得たと言うのか。
また、炎。しな子が転がって避ける。
アスファルトに身体を擦られながら、マヤを見た。
今すぐ、焼き殺すか。
力は使わず、締め上げて川北の居所を吐かせるか。
一瞬、考えた。
「まだ、わたしを殺さない方がいいわ」
マヤが、言った。しな子が、舌打ちをする。
「いいものね、念象力って」
「あなたは、念象力を知らない」
「力を持ちながら、それを否定する誰かさんよりは、ましよ」
「川北は、何をしようとしているの」
赤部に対して、決まってるじゃない、と言った想像についての確証を得ようとした。
「あなたの、想像する通りよ」
とマヤは答えた。
「開成中央病院」
と、都内にある大病院の名を挙げた。
「そこで、待ってる」
マヤが殺気を放たぬので、しな子は、構えを解いた。
そのまま、マヤは歩いて夜の中に消えて行った。
川北。マヤ。松田幸作。
リトルウイングと、国家機関。
そして、しな子と、念象力。
それらを結んだその先に、しな子の求めるものがある。
そうしてはじめて、しな子は、生きられるのだ。
だから、彼女は戦う。
自らを導き、苛む紅の蓮と。
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