暴走
赤部。しな子が運ばれていった廊下の、同じ場所にいる。壁にもたれかかって、床のしみを見つめている。時々、物音がする度に、額を弾かれたようにして反応した。
深い、後悔。
しな子が自ら望んだことであるし、それを実現させるべく賛同はした。なにより、しな子がほとんど持たぬのではないかと思える自我が、見えたのだ。それを、赤部は硝子細工のように綺麗で、壊れやすいものだと思った。
だが、赤部は激しく後悔している。
デュオニュソスが、手に入ってしまった。いとも簡単に。赤部すらも知らなかった、紙で人を殺すような技を持つしな子にしてみれば、朝飯前だろう。
しな子を、もう少し、まともな女として、生かしてやることは出来なかったのか。傷を負っていても、その傷すらも慈しみ、大切にしてやる。そんな風に接してやることは、出来なかったのか。
無論、そのような余地はなかった。そもそも、赤部がしな子と出会ったのは、彼女を殺し屋にするためだった。念象力に眼をつけられ、政府運営の施設で育てられていたしな子を、命令とは言えライナーノーツに引き抜いたことに、赤部が無関係であるとは言い難い。
赤部は、むしろ積極的にしな子を殺し屋にした。出会ったときから髪も服も黒で塗り潰されていたが、無垢で、真っ白な彼女の行動や心まで、黒く塗り潰すようなことを勧めてきた。
「生まれたての、子供みたいなもんだった」
呟いてみる。
――あぁ、そう。
とは、誰も言わない。
「俺は、お前を、いつも、苦しみの中にばかり放り込んできたように思う」
――べつに、あなたには関係ないことよ。
「なあ、しな子」
――なあに、赤部さん。
「ごめんな」
――馬鹿ね。どうして謝るの。
「お前を、大切にしてやれなかった」
――わたしは、戦いたい。
「そうまでして、どうして」
――そうしないと、生きていけないもの。
「しな子」
――わたしが、生きてゆける世界。そこに、わたしのような人間は、要らない。
「お前の気持ちは、分かってる。だけど」
――だから、戦うの。ごめんなさい、赤部さん。
「どうして、お前が謝るんだよ」
そこで、手術室のドアが開いて、赤部は現実に引き戻された。知らぬ間に、時間は過ぎていたらしい。腕時計を見ると、しな子が手術室に入ってから一時間半ほどが経過していた。
「しな子」
眠っているから、呼び掛けに応えるはずはない。
「しな子」
ベッドごと運ばれ、近付いてくる。
毛布をかけられて眠るしな子は、麻酔のせいで体温が下がっているのか、青白い顔をし、眼の下に隈を作っていた。
以前、しな子の頭にデュオニュソスを埋め込んだときは、暫くの間人格にも影響が出ていた。虚ろで、何も見ず、呆けていた。それが、心の拒絶反応によるものなのだとしたら、今回は、しな子の力をしな子に再び植え付けるのだから、問題はないはずである。
保証はどこにもない。そう期待するしかないのだ。
だからこそ、しな子は、赤部を求めた。もしかしたら、丹羽しな子という人格を持って話すことが出来るのは、最後かもしれぬと思ったのだ。
それくらい、赤部にも分かる。
だが、彼は、それを受け入れることなど出来はしない。
彼は、ただ信じた。
しな子は、必ず戻って来ると。
念象力など、どうでもいい。
彼にとってのしな子は、ただしな子なのだ。
それが居なくなった世界そのものにも、意味などないと思った。
今さら思ったところで、どうなるわけでもないが。
しな子の後から、デュオニュソスを埋め込まれていたフードの男が運び出されてきた。
それも、どうでもいい。
どうせ、別のところに運ばれ、処理されて、捨てられるのだ。
赤部の世界には、今、しな子しかない。
それが、また、するりと抜け落ちてゆく。
病室の方へ。
暗く、悲しい気持ちが、赤部を覆い尽くそうとしている。
赤部は、それを振り払うように、一歩、踏み出した。
しな子が運ばれていった方へ。
しな子の歩き方を、真似てみた。
似ても似つかなくて、赤部は少し苦笑した。
また、夢の中。
何もかもが、混ざりあったような色。
たぶん、それは、黒。
その色に、塗り潰されている。
夜なのかと思ったが、夜ならば、もっと青くなければならない。
だから、これは、黒なのだ。
高速道路。アスファルト。夏の陽射し。横転した車。ぬいぐるみを抱え、傷だらけの少女。そして、紅い火の蓮。
それら全てが、黒く塗り潰されていた。
あの日の、あの風景であることは間違いないのに、全てが、真っ黒なのだ。
見えているのに、何も見えない。
感覚はあるのに、自分はいない。
火が咲いているのに、寒い。
悲しいのに、何も感じない。
「遠くに、いっちゃうの?」
少女の声。
「どこに、いくの?」
答える言葉を、忘れてしまった。
「せっかく、一緒にいられると思ったのに」
瞬きをして生まれる刹那の闇より深い闇の中、声だけが別の色を持って浮かんでいる。
「せっかく、嫌いにならずに、一緒にいられると思ったのに」
揺れている。
たぶん、心が。
「もう、お別れなの?」
崩れてゆく。
たぶん、世界が。
「見える?」
見えない。
「聴こえる?」
聴こえない。
「分かる?」
分からない。
「それでも、戦うの?」
戦う、とは、何と戦うのだろうか。
「あたしのこと、嫌い?」
また、同じことを訊く。
ひとつ、感覚がある。
熱い。とても。さっきまで寒いと感じていたような気がしていたが、どうも違うらしい。
それは、炎。
しな子を慕い、しがみついて来る。
熱い。
誰かの、声がする。
――おかあさん。
いや、違う。
――おねえちゃん。
奏太郎?
それを確かめる前に、その声は黒く塗り潰された。
そして、しな子自身も。
長い、長い時間が経ったことを、朝陽が知らせていた。その夜の闇が永遠に続くように思えて、しな子がこのまま目覚めぬかもしれぬという根拠のない不安に押し潰されそうになりながら、赤部はただ眠るしな子の脇に座っている。
ずっと、手を握りながら。
眠っているからどうせ分からぬであろうが、少しでもしな子が安らぐのではないかと思ったのだ。
いや、ただ自分が安らぎたかったのだろう。それを否定もせぬし、嘲りもせぬ。じっと手を握り、待つのみである。
「――ぶしい」
しな子の手に少しだけ力が入り、口が開いた。
赤部は立ち上がり、呼び掛けた。
「まぶしい」
しな子の声だった。
「眩しいか、済まん」
赤部は慌ててしな子の側を離れ、カーテンを閉めた。
振り向くと、しな子は眼を開いていた。
「しな子。分かるか。俺だ。気分はどうだ」
しな子は答えない。天井を見つめたまま、瞬きもしない。
「しな子?」
赤部が、しな子の顔を除き込んだ。
「しな子」
呼び掛けても、反応はない。
「おい、冗談だろ」
しな子は赤部など見えていないかのように、赤部を通り越したその先にある何かを見つめている。
「おい、何とか言ってみろ」
肩を軽く揺すっても、反応はない。
そこへ、医師が経過を見るために入ってきた。
「赤部さん。ずっと、付いていらしたのですか」
「おい、しな子が」
赤部の様子が尋常ではないことに気付いた医師は、しな子に駆け寄り、瞳を開いて光を当ててみたり、心音を聴いてみたりしている。
「おい、どうなんだ」
「分かりません」
「分からん、じゃない。どういう状態なんだ」
「状態としては、眠っている状態に似ています」
「眠っている?目覚めるのか」
「いえ、眠っているというのは、ほんとうに眠っているわけではなくて」
もう一度、医師はしな子の眼に光を当てた。
「まぶしい」
薄く、しな子は反応した。反対側の眼にも、光を当てる。
いきなり、医師の身体が半回転し、床に叩きつけられた。
そのまま、しな子は起き上がる。
腕に刺さった点滴の管や、胸に取り付けられた心電計を乱暴に外す。
そのまま、起き上がる。
ベッドから降りようとするのを、赤部は抱きついて制止した。
その赤部が呻き声を上げ、うずくまった。
強烈な頭突きを食らったのだ。
鼻から血液が垂れ落ちる。
その顔面を、しな子はサッカーボールのように蹴りつけた。
昏倒した赤部を跨いで、しな子は病室から出て行った。
「おい。おい、大丈夫か」
赤部は鼻を押さえながら起き上がり、背をしたたかに打ち付けた医師に手を貸してやった。
「どういうことだ、一体」
「分かりません。何かしらの拒絶反応が起きているとしか」
「歩けるか。俺は、しな子を追う。医療班のスタッフを、待機させておけ」
鼻血を垂らしたまま、赤部も病室を出た。
凄まじい蹴りを食らったから、まだ世界が回っているが、そんなこと気にしていられない。
廊下に出たところで、悲鳴が聴こえた。赤部が、駆け出す。
駆けた先に、しな子の姿があった。
分析官のマヤを組み敷いて、馬乗りになっている。
「しな子!やめろ!」
駆け寄って、赤部はぎょっとした。
しな子はマヤに馬乗りになり、その衣服を剥ぎ取ろうとしている。
「ねえ、おねがい」
うわ言のように呟きながら、悲鳴を上げるマヤのブラウスのボタンを飛ばす。
「ちょうだい」
乱暴に、マヤの手を捻り上げ、自ら開いた脚の間にあてがう。
「ちょうだい」
「やめろ!」
しな子の手を、赤部は取り上げた。
ふと、しな子が赤部を見た。
確かに、見た。
赤部は、咄嗟に飛び下がった。
鼓膜が揺れ、眼が眩んだ。
何かが、爆発したらしい。
しな子が持たなかった力である。
しな子は、対象を眼で見て、その像と、火の像を結びつけ、発火させる。だから、何もない空気中に火を起こすことは出来なかった。しかし、今、赤部は爆炎に吹き飛ばされている。大気中の酸素や、水素。圧縮するなどしてその濃度を変え、静電気などの火種があれば、あるいはこのようなことが可能なのかもしれぬが、耳の奥で甲高い音が鳴り続けている赤部にとってそれどころではない。
マヤを、救わなくては。
このようになってもしな子は人体の構造をよく把握しているらしく、マヤは身動き一つ出来ないのだ。
「おねがい、やめて、しな子ちゃん」
懇願するようにして、マヤが叫ぶ。
赤部は、また起き上がった。
駆け寄り、しな子の腕を乱暴に捻り上げ、マヤから引き剥がした。しな子の肩が外れる感触に、赤部は顔をしかめた。
痛むのか、しな子はやや大人しくなった。
「赤部さん」
虚ろな瞳を横に流し、言った。
「そうだ。俺だ。分かるか、しな子」
「いたい」
「よしよし、痛いな。悪かった。もうこんなことはしない。だから、大人しくしよう。な?」
大きなピアスの穴の空いた耳に唇をぴったりと付けて、赤部は言った。
それで、しな子の身体から、力が抜けた。
「いたい」
「悪かった。大人しく、眠ろう。そばに付いていてやる」
「いたい」
赤部は自分も崩れ落ちそうになった。落ち着いたらしい、と思い、ほっとしたのだ。
しかし、しな子が言った次の一言が、赤部を凍りつかせた。
「もっと、して」
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