無機質な光の中へ

 そのホテルの七階の一室に向かう。そこそこ高級なホテルだけあり、廊下の絨毯も清掃が行き届いており、エレベーターの中も良い香りがしていた。

 しな子は、小さく鼻歌を歌っている。

 あの歌であった。

「ここだ」

 ドアの前で赤部が立ち止まる。呼び鈴を鳴らすと、チェーンをかけたまま、中から男が覗いた。

「林さんですね」

 赤部の変名である。赤部健一郎という本名も、リトルウイングの代表として届け出ている森諭もりさとしも使うわけにはゆかぬから、森から木を一本抜いて林とした。

「そっちは、山田さん」

 しな子がこのとき用いた変名には、何の由来もない。

「どうぞ」

 チェーンを外し、二人を中に招き入れた男は、まだ若いらしい。

 夏であるが、黒いフード付きの薄いパーカーを着ている。

「あ、武器は全部、ここに置いて下さい」

 男がそう言うので、赤部はジャケットの下のホルスターからスミス&ウェッソン三八口径を、しな子はジャージの上着からバタフライナイフを取り出し、入り口の棚に置いた。

「足のやつも」

 男は、目ざとい。赤部は、言われてゆっくりと、くるぶしに仕込んでいた二二口径スタームルガーを外し、同じところに置いた。

 部屋の中には、もう一人、初老の男。これが、政府の者だろう。フードの男は、相当に戦い慣れているらしいから、この男が、念象力者なのだろう。量産されたデュオニュソスは、しな子のように闇の世界で生きる殺し屋などにこぞって埋め込まれているらしい。

「この度は、お世話になります」

 赤部が、ちょっとおびえたような様子を作り、中年の男の向かいのソファに腰掛けた。

「私どもでは、手におえず。護衛を付けて頂き、助かります」

 闇の世界との繋がりが深い興信所の所長と、それが雇っている助手。そういう設定である。

 赤部は、ジャケットから煙草を取り出した。

「失礼ですが、護衛の方の腕は、確かなのでしょうな」

 煙草を咥えながら、ライターを探している。

「疑うわけではないのですがね。あ、煙草、いいですか」

「どうぞ」

 中年の男が、はじめて口を開いた。そして、顎でフードの男に何か合図をした。

 しな子は、感じた。

 男が、のを。

 赤部の煙草の先に、火が灯った。

 赤部は、驚いた様子を見せている。

「これは」

「この男は、特別でね」

 フードの男の表情は変わらぬが、中年の男は得意気である。

「殺しの技のほかに、こういうもあるのです。万に一つも、あなた方には危険は及びません」

「驚いた。一体、どういう――」

「念象力、と言うそうです」

 フードの男が、ぽつりと言った。

 この男、戦いには慣れているが、念象力に関しては素人だ、としな子は思った。

 念象力者は、ふつう、滅多に己の力を人には見せぬ。敵味方に関わらず、手の内を知られれば、命の危険に繋がりかねぬからだ。

 見せるときは、相手を葬り去るときのみである。

 しかし、この男は、誇示するようにして力を見せた。まだ力を手に入れてから日が浅いらしい。そして、その力は、念炎パイロキネシス。しな子の力を写し取ったデュオニュソスが埋め込まれていると見て間違いない。

 そういう状況から判断できること以前に、しな子には確信があった。

 赤部の煙草に点った火。

 それが、懐かしいもののように感じたのだ。

 あれは、しな子の火だ。


 ルームサービスで注文した飲み物が届いたところで、本題に入った。

「それでは、説明をしましょう」

 が図らずも手に入れたというデュオニュソス――無論、でっち上げである――を、指定された地点まで運ぶ。その間の護衛として、フードの男が付く。

 その指定された地点の地図を、中年の男はプリントアウトしてきていて、赤部としな子に一枚ずつ渡した。

 それを、赤部は食い入るように見るをしながら、横目でしな子を見ている。

 しな子は、渡された地図をざっと見、A4のそれを正方形に切った。中年の男は気にせず話を続けているが、フードの男はしな子の挙動をじっと見ている。

 正方形になった紙を、三角形に。

 さらに、半分に。

「いや、このところ、あなた方が手に入れたものが流出するということが、相次いでいましてね。助かりますよ、林さん」

「それほどまでに、のあるものなのですか」

「一部では、ね。あなた方も、深入りする前に、届け出てよかったと思いますよ」

「それは、怖い話だ」

 赤部と中年の男がいかにも大人、というやり取りをしている横で、しな子は無心にその作業を続けている。

 三角形から、再び正方形に。それに、また折り目を付ける。

 おそらく、折り鶴だろう。

 折り目を付けて、また戻し、上手くいかないようである。

 やっと、正方形が細長い菱形になった。

 開き、形を崩さぬように、それでいて潰すようにして折り返すところが、しな子にとっては難しいらしい。

「この男もね、林さん。は長いんです。腕は確かですから」

「それは、心強い。私は銃を持っていますが、一緒に行動するのはいつも、この頼りない助手だけですから」

「無口なお嬢さんだ」

 しな子は、中年の男を無視し、作業に没頭している。

 尖った菱形の先を、折り返す。

 そこで、しな子の手が止まった。

 フードの男が、腕を組んだまま、じっとしな子を見ている。

「どうするんだっけ」

 しな子が、フードの中の眼をまっすぐに見て言った。

「分かる?」

 その子供のような眼つきと言葉に、フードの男は溜め息を一つ吐き、

「そこを折るんじゃない。貸してみろ」

 と腕組みを解いて、しな子に近づき、手を伸ばした。

 赤部の吐いた煙草の煙が、一瞬、流れた。

 しな子が、何かをしたのは分かった。

 手には、作りかけの折り鶴。

「ねえ」

 フードの男は、立ったまま。

「鶴って、折り方を途中で変えれば、入れ物とかやっことか、色々なものになるそうね」

 フードの男が折り鶴を受け取ろうとして伸ばした手が、喉に。

「知ってた?こんなものにもなるって」

 しな子が、立ち上がる。

「何をした!?」

 初老の男が慌てて立ち上がる。

 フードの男は、そのまま、うつ伏せに倒れた。背が、激しく上下していて、呼吸が漏れる音がする。

 中年の男の足元に、しな子は作りかけの鶴を投げ捨てた。

 その尖った部分で、喉に穴を開けたのだ、と男は始めて気づいた。

 そんなことが、可能なのか。

 いや、実際に、この女は、やった。

「お前、まさか――」

 しな子に、男は心当たりがあるのかもしれない。

 元ライナーノーツの凄腕の殺し屋で、念象力者。

 しな子の存在は当時から極秘であったが、政府の者で、特にこういう闇の案件を扱う者ならば、知っているだろう。

 金髪のメッシュの入った、おかっぱ頭。

 少女のような顔立ち。

 いつも着ている三本ラインのジャージと、武骨なリングピアス。

 しな子自身を飾るそれらは、しな子を隠すには、目立ちすぎる。

 それでも、しな子が闇の中でこれまで生きてこれたのは、彼女のによるものであろう。

 闇から伸びる、影。

 そして、足。

 その鶴を、踏み付けた。

 ふわりと、柔らかな女性の香り。

 白く、小さな手が伸びてきて、男の頬を包んだ。

 ぷっくりとした、色のよい唇が開き、そこから言葉が漏れた。

「さよなら」

 男の顔は鈍い音と共に真後ろを向き、倒れた。



「お前、まじかよ」

 赤部は、拳銃をしまいながら、呆れたように言った。

「殺すのが、早すぎるぜ」

「どうして?」

「もしかしたら、役に立つ情報が得られたかもしれないのに」

「退屈だったの」

「まったく、お前って奴は」

「それに、急ぐもの」

「急ぐって?」

「早く、を要請して」

「分かったよ」

 赤部はスマートフォンを取り出し、回収を要請した。

「しかしまあ、どこで覚えたんだか、あんな技」

「鶴の折り方、知らなかったから。練習しようと思っているうちに、思いついた」

 いつも、しな子なりに、こっそりと人並みの技術と知識を取り入れようとしていることは、赤部も知っている。人が持つものを余りにも持たぬし、人が知るものを余りにも知らぬのだ。それを、少しずつ補ってゆくつもりらしい。皮肉にも、今回、それが殺しに役立ったのだ。


 回収された念象力者の死体は、リトルウイング本部の手術室へ。中年の男は、別の部屋へ。おそらく、されるのであろう。

 しな子は、ベッドの上。薄いガウンに着替えている。

「じゃあ、赤部さん」

 細い声で、傍らの赤部に声をかけた。

「いってくる」

「ああ、ここで、待ってるよ」

「待っててね」

 そっと、しな子の白い手が、動いた。

 握れ、ということかと思い、赤部はそれを握ってやった。

「なに?」

 いつもの、しな子だった。

「いや、握れってことかと思ってさ」

「ああ、そう」

 医師がやってきて、しな子の横たわるベッドを手術室の方へと運んでいった。

 ベッドが動くと、しな子の手が、赤部のそれから、無機質なLEDの光の中へと、するりと抜けていった。

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