誘い、導く
あさ。時間で言うと、七時前。
しな子は、眼を覚ました。
彼女のすぐ目の前には、赤部。
整えているはずの顎髭の周りに、また前のような無精髭が生えはじめている。
部屋の中が、煙草臭い。
しな子が起きた気配で、赤部も眼を覚ました。タオルケットはくしゃくしゃに蹴飛ばされ、ベッドから落ちている。恐らく、しな子の悲惨な寝相によるものだろう。
「おはよう」
「おう、起きてたのか」
「赤部さん」
赤部は、充血した眼を細めた。
「手、離して。もういいわ」
「ああ、済まん」
「シャワー、使う?」
「ああ、悪いな」
赤部は、何事もなかったかのように起き出し、風呂場に入った。
しな子は、どうやら、気付いていないらしい。
念象力が、戻りつつある。
今、闇の中に出回っているデュオニュソスは、しな子の力を写し取ったもの。
それを、しな子に、また戻す。
デュオニュソスを埋め込んだ際に起きる人格の変化が、心の拒絶反応によるものだとしたら、しな子の心の一部をしな子に戻す場合、それは起きないということになる。
全ては、仮説ですらない、想像である。
シャワーを終え、リビングに戻ると、しな子はベッドに腰かけて、朝のテレビを見ていた。
「しな子」
赤部は、ベッドサイドのテーブルの上の煙草に手をやり、口にくわえた。
「だから、部屋で煙草は――」
「――
「なに?」
「煙草、点けられるか?」
「念象力のこと?」
「ああ」
「無理よ。そんなの」
「やってみろ」
言われて、しな子は、訝しい顔のまま、赤部の煙草の先をじっと見た。
頭の中で、結ぶ。
しかし、赤部の咥える煙草の先に変化はない。
「出来るわけ、ないじゃない」
「いや、しな子。お前は、出来たんだ」
「なんのこと」
「ゆうべ、一度起きたろ」
「そういえば」
「その後眠ってすぐ、お前は、俺の煙草に火をつけた。もしかしたら、力が」
「そう。あなたと、手を繋いでいたからかもね」
しな子が、くすりと笑った。
「どうする?力を出すため、わたしと手を繋いだまま戦う?」
念象力は、脳内物質やホルモンと密接な関係にあることが分かっている。念象力者が力を使うとき、エストロゲン、プロゲステロン、アドレナリン、オキシトシンなどと呼ばれるそれらが、脳内や体内を駆け巡っている。
赤部が手を握り続けたことにより、しな子の脳内にあった念象力の片鱗が、ほんの僅かに呼び起こされたのかもしれない。
「どのみち、あれはわたしの力よ。わたしの力をわたしに戻したところで、何の影響もないはず」
「しかし」
赤部は、一瞬期待したのだ。もしかしたら、しな子が、デュオニュソスの助け無しでも念象力を使えるのではないかと。
そして、しな子の念象力そのものにも、期待している部分があることを自覚した。
「しな子。やっぱり」
「駄目よ、赤部さん」
「俺は、お前に」
「いい加減にして」
赤部は、叱られた子犬のような顔をした。
「あれを、放っておくの?あなた、様子を見ようって言ったわよね。それは、何もしないということ?一日放っておけば一日分、念象力者が増える。彼らの力が、誰かに利用されたら?」
「分かってる。世界のバランスは、書き換えられる」
「松本を、覚えてるでしょ。そんなことを、彼も言っていたわ」
「しかし」
「赤部さん」
しな子の口調が、柔らかなものになった。
「あなた、念象力、使える?わたしのように、戦える?」
「いいや。俺には、銃をぶっ放すくらいしか、出来ない」
「じゃあ、戦うのは、わたし」
「そうまでして、どうして」
わたしのためよ。としな子は言おうとして、やめた。その代わり、困ったように笑った。
「行きましょう」
「どこへ」
「本部へ」
「何をしに?」
依頼は、今、入っていない。
「念象力者を、おびき出すの」
「どうやって」
「それは、あなたが考えて」
「おびき出して?」
「奪うの」
デュオニュソスを。
「それしかないのか――」
「ない」
しな子の意思は、固いらしい。
「赤部さん」
部屋の中であろうが、構わず赤部は煙草に火をつけた。
「それほどまでに、わたしを大切に思ってくれて、ありがとう」
赤部が見るしな子の姿が霞むのは、自ら吐いた紫の煙のせいか。それとも、また溢れそうになっている涙のせいか。
「だから、やるのよ」
「分かった」
二人は、本部へ。分析官のマヤと、三人で作戦を立てる。三人と言っても、例のごとくしな子は椅子に深く腰掛けて、腕組みをしているのみである。
赤部とマヤが、話し合っている。
「情報を、流す」
「情報とは?」
「
「どんな?」
「匿名で。デュオニュソスを手に入れた。それを、強奪しようとする奴がいる、と」
「護衛の、要請ですか」
「そうすれば、奴ら、必ず念象力者を出してくる」
「それを」
マヤが、心配そうにしな子を見た。
しな子は、何も言わず、マヤの方を見返した。
「赤部さん、さっき言ってた、丹羽さんに力が戻るかもしれないというのは――」
そこではじめて、しな子が口を開いた。
「期待しないで。出るのか出ないのか、分からないもの」
「そう。なら、やはり」
「やるしかないのよ」
どうやら、マヤもしな子に再びデュオニュソスを埋め込むというのは気が進まないらしい。
「大丈夫。わたしには、まだ力の欠片が眠っていることが分かったもの。デュオニュソスを埋め込んでも、きっと平気。前のように、出来るわ」
赤部は、しな子の表情を、じっと見ている。
「これ以上は、もう言わない。しな子。やるんだな」
「わたしは、はじめからそう言っているじゃない。それを、あなたが」
「悪かった。やろう」
「ありがとう」
赤部の作戦の通り、政府側に、依頼をした。無論、匿名で依頼をし、リトルウイングからのものだとは分からぬようにしてある。
更に、巧妙なことに、赤部は、リトルウイングらしき組織が、それを強奪しようとしている、と言うのである。これで、強奪したのがリトルウイングであることを隠すと共に、後で関係を否定してしまえば、誰が奪ったのか分からぬままになるというわけだ。
いや、奪ったのがリトルウイングであるということが露見したとしても、政府は、まさかしな子に埋め込むために奪ったとは思うまい。
今はまだ、小さくとも眼に見える機械である。かつて、松本が試作品として体内に持っていたような、手術も要らず、注射一本でことが済むナノマシン化されたものがあちこちに出回れば、世界は文字通り壊れてしまうであろう。
そうなる前に。
一年余り前、卵のうちにどうにかしようとし、しな子や赤部は戦った。戦って、卵の間にどうにか出来たと思っていたら、これだ。知らぬ間に卵は
ならば、せめて、それが成体へと変態を遂げる前に。
赤部の
だが、そのしな子自身が、この人類にとって災厄にしかならぬ虫を駆除出来るのは自分しか居ないと思い定めているのだ。実際、そうだろう。
そして、自分のように、紗和のように、奏太郎のように、あるべきものを奪われ、理不尽に与えられ、苦しみながら生き、あるいは死ぬ人間を、これ以上増やしてはならぬと思い定めているのだ。
赤部は、そういうしな子を大切に思っているからこそ、その意思を汲んだ。
行かないでくれ。
危険なことは、させたくない。
笑っていなくてもいい。今のままでいい。ただ、俺のそばに居てくれ。
それらを、言わずに。
四日後。
この日は、一日雨が続いている。
しな子と赤部は、またアルファロメオの中。
政府側が、誘いに乗ったのだ。
かつて、しな子と赤部が高松議員の護衛をしたときのような具合であろうか、護衛を担当する者と会い、打ち合わせをすることになっている。
「しな子」
ミック・ジャガーの悲しげな歌声に合わせるような声の色で、赤部は言った。
「注意しろ」
「なにを?」
助手席を倒し、深く腰掛けているしな子が、ダッシュボードに足を載せた。それを、赤部は咎めず、付け加えた。
「念象力者が来る。注意しろ」
「馬鹿ね。今まで、何人殺してきたと思っているの?」
念象力は、驚異的な力である。だが、それを使うのは、あくまで人間。サイボーグではない。殴れば痛むし、銃で撃てば死ぬ。銃などなくても、しな子の大砲のような飛び膝で、彼らは頭蓋の中を破裂させ、死ぬのだ。
「手術の用意は、大丈夫?」
「ああ」
赤部は、今度は感情のこもらぬ声で答えた。
「すぐに、取りかかれるようにしてある」
「ああ、そう」
アルファロメオのエンジンが、止まった。
打ち合わせ場所に指定したホテルに着いたのだ。
「音もなく、一息に。武器は使えない。いけるな、しな子」
しな子は、もう何も答えない。
乱暴にアルファロメオのドアを閉め、ホテルのエントランスへ向かって歩きだした。
虫の多くは、光に対して、正の走性を持っている。光とは、しな子の火。
今夜もまた、一匹の虫が、誘われ、やってきた。
いや、もしかしたら、しな子自身も、誘われているのかもしれない。彼女を苛み続けたその光に、導かれるようにして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます