煙の臭いに誘われて

 とりあえず、上がって話そう、ということで、赤部は車を駐車場に回し、二人はしな子の部屋へ。

 しな子は、先に上がった。

 あとから、赤部が上がってくる。

 以前住んでいた下北沢の部屋は引き払い、今はしな子は港区に住んでいる。赤部が住んでいるのも港区だから、二人の家はわりあい近い。

 しな子も聞かないし、赤部も言わないから、しな子は赤部がどこに住んでいるのか知らない。

 このマンションの鍵は、赤部には分かりやすいらしく、以前のマンションのように、ガチャガチャと鍵を回したり戻したりすることなく、すんなりと扉を開けた。

「おい、しな子。入るぞ」

 答えはない。

「おい」

 呼ばわりながら、上がり込む。彼女の歳には不相応な広さの部屋だが、多すぎる上に使い道のない収入には見合っている。

 リビングに、しな子はいた。

 ジャージを脱ぎ捨て、タンクトップ一枚になって。真っ白い足は、そのまま剥き出しになり、タンクトップで隠しきれぬ白い下着がちらりと見えている。

「馬鹿、お前、下くらい着ろ」

「どうして?」

 しな子は、そのままの姿で赤部の方に近付いてくる。

「どうせ、脱がすのよ」

「馬鹿、やめろ」

 赤部は、寄り掛かってくるしな子の身体を、引き離そうとした。自然、両肩に手がかかった。

 しな子の眠そうな眼が、何かを乞うように、閉じた。

 その唇に、赤部はそっと触れた。

 指で。

 その指は、そのまま柔らかな頬へ。

 眼の上に残った、切り傷にも。

 しな子の呼吸が、少し荒くなった。

 そして、左耳へ。

 それを穿つ、武骨なピアスに触れた。

 しな子の身体が、僅かに反応を示した。

 そして、首に。

 透けた血の管を確かめるように、なぞる。

 鎖骨を通り、肩へ。そこには、弾丸による傷の痕が残っている。

 赤部は、掌を開き、腕を撫でてやった。

 しな子の頬が、みるみる赤くなってゆく。

 大きく、がさがさとした掌で、左腕の火傷の痕に触れた。そこで、止まった。

「――赤部さん?」

 しな子がか細い声を上げながら、うっすらと眼を開いた。そこにある赤部の顔は、しな子が予想していたものとは違った。

「どうして、泣いてるの?」

「この傷のひとつひとつまでが、愛しい」

「あぁ、そう」

「全て、お前が苦しみ、それでも諦めず、戦ってきた証だ」

「だから?」

「俺は、何もしてやれなかった」

「ずいぶん、偉そうね」

「偉そう?」

「わたし、あなたに、何かをしてもらおうと思ったことなんて、ないわ」

 珍しく、しな子は笑っている。

「俺は、お前に、何かをしてやりたいと思っている。俺は、お前のようには、戦えない。だけど、お前は、俺が守りたいんだ」

「あぁ、そう」

 赤部が、一度、鼻を啜った。

「お前が、お前でなくなるなんて、俺には耐えられない」

「だから?」

「お前がお前であるうちに、抱いておくなんて――」

 赤部は、一度言葉を切った。

「――俺を、馬鹿にしないでくれ」

「馬鹿になんて、してないわ。そうしてほしいと思ったの」

 しな子が、悲しそうな顔をした。

「だって、あなたを見ても、あなただと思えなくなるかもしれないじゃない?」

「勝手に、決めるな。誰の頭に、デュオニュソスを埋めるって?」

「わたしに、決まってるじゃない」

「それを、勝手に決めるな」

「いいえ、わたしのことは、わたしが決める」

 赤部の掌が、しな子の左腕から、そっと離れた。

 離れた代わりに、しな子の身体を、強く抱き締めた。

「頼む、しな子。おまえのことが、大切なんだ」

「あなたにとって、わたしが大切であるように、わたしにも、大切なものがあるの」

「それが何なのか、教えてくれ」

「だから、わたしは、戦わなければならない」

 抱き締められたまま、しな子の小さな手が、赤部の頭を、そっと撫でた。

「ねえ、泣かないで。わたしが、守ってあげる」

 赤部は、ただ涙をこぼしている。

「誰からも、奪わせはしない」

 しな子の手は、なお赤部の頭を撫でている。

「もう、わたしや、あなたのような人を、増やしたくはないの。それが出来るのは、わたしだけ」

 赤部は、奥歯を噛み締めた。

 ぱっと身体を放す。

 しな子の柔らかな唇に、短い口づけをした。

「なに?」

「今は、これで精一杯だ」

「どういう意味」

「お前として、戦え。俺は、それを助ける。続きは、それが終わったら、だ」

「馬鹿ね。そのときにはもう、わたしの気が変わっているわ」

「そうだろうな」

「いいの?それで」

「そのとき、改めて、申し込むことにしよう」

「願い下げよ、そんなの」

「しな子」

 赤部の顔は、真面目なものになった。

「忘れないでくれ。俺は、いつもお前の側にいる。お前を、何より大切に思っている。世界一つと同じくらいに、お前を」

「何それ」

 しな子は、思わず吹き出した。

「下手くそね。他の人に言うときは、もっと上手じゃない」

「馬鹿野郎」

「ほんとうの気持ちだから、言いづらいものだ、って言うんでしょう?」

「お見通しか」

「当たり前じゃない」

「しな子」

 なあに?という顔を、しな子はした。

「お前、可愛いな」

「あぁ、そう」

 しな子は赤部から離れ、ジャージの下を履いた。

「ねえ」

「なんだ」

「一緒に眠って。手を、繋いでいて」

「なんだよ、今日は」

「わたしの頭の中で、力を呼び起こす物質――」

「オキシトシンか」

「名前なんて、どうでもいい」

「それくらいなら、いいぜ」

「もう、期限切れよ?変な気を起こしたら、殺すわよ」

「わかってる」

 二人、笑った。

 笑うと、止まりはしても溜まったままになっていた赤部の涙が一筋、また流れた。

 それを、しな子は指先でそっと拭ってやった。




 深く。眠りの中へ。

 また、足音。

 そして、あの高速道路。

 横転して炎上する車。

 傷だらけで佇む少女。

「おねえちゃん、どうして、また戻ってきたの?」

 ――あなたに、会いに来たのよ。

「おねえちゃんは、わたしのことが、嫌いでしょ?」

 しな子は、答えず、笑った。

「それなのに、どうして、会いに来るの?」

 ――どうしてかしらね。

「ねえ」

 ――なあに?

「おねえちゃんは、わたしのことが、嫌いでしょ?」

 今度は、しな子は、答えてやった。

 ――ええ、大嫌いよ。

「やっぱりね」

 少女は、寂しそうにした。

 ――わたしは、あなたから始まっているから。わたしは、わたしが大嫌い。あなたではないわたしに、憧れていた。

「ごめんなさい」

 ――でもね。

 少女の悲しげな顔が、上がった。

 ――無いものをねだるより、今あるものを、守りたいと思ったの。

 しな子は、一歩、少女に近付いた。

 ――だから、あなたに、会いにきたのよ。

 少女は、真っ黒な瞳を瞬かせた。

 ――だから、お願い。力を、貸して頂戴。

 少女は、横転した車を指差した。

 激しく燃え、黒煙が上がっている。

 熱。

 そして、そこに咲く、紅の蓮。

「焦げ臭い」

 少女は、自ら傷だらけになりながら、何故かそのようなことを言った。

 ガソリンや、樹脂の焼ける臭い?

 いや、違う。

 この臭いを、しな子は、よく知っていた。

 この臭いは。


 ――ラッキーストライク?



「部屋で煙草、吸わないでって言ったでしょ」

「なんだ、しな子。起きたのか」

「赤部さんこそ」

「悪い。外に吸いに出るわけにいかなくてな」

「どうして」

「だって、ほら」

 しな子は、自分の腕の先に付いた手を、赤部がしっかりと握っているのを感じた。

「馬鹿ね。わたしが眠ったら、放っておけばいいのに」

「さあ、しな子。まだ三時だ。朝まで、眠れ」

 赤部はそう言ってラッキーストライクを空き缶に入れて消し、しな子にタオルケットをかけ直してやった。

 それに深く潜り込み、しな子は、また眠りに付いた。

「なんだ、こいつ」

 赤部は、とても優しい顔で、しな子の寝顔を見守っている。

「笑いながら、泣いてるのか」

 こんどは、赤部が、しな子の涙を拭いてやった。

 今度こそ、しな子は深く眠ったらしい。

 起きぬだろう、と赤部は踏んで、もう一本、ラッキーストライクをくわえた。

 赤部がオイルライターを手に取る前に、その煙草の先に、ひとりでに火が点いた。

「――しな子?」

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