第二章 ふたたび、咲く
戦いたい
「ふむ、リトル・ウイング」
年老いた声が、その名を呟いた。
「NPO法人を名乗っていますが、元ライナーノーツの残党の寄せ集めです」
「そうか」
「ご存知ありませんでしたか」
「あまり、細かなことにはこだわらないものでね。ああいう手合いは、いつ、どこにでも現れるものだな。亡霊のようだ」
「旧世代の制度が産んだ、亡霊です」
「川北君。君は、どう思う」
「その亡霊が、国のバランスを保つということもあります。KGB然り、CIA然り」
川北と呼ばれた男は、まだ若い。あまり酒は得意ではないのか、一杯のハイボールをちびちび飲んでいる。
「君は、スパイ映画に憧れて、その仕事に就いたと言っていたね」
「はい。お陰で、今こうして先生のお側に」
「太鼓持ちはいい。それで、君は、彼らのような者をどう思う」
「必要悪です。表に出してはならぬことを、影のなかで葬り去るには、影の中に生きている者が適任です」
年老いた方の男は、くくと喉を鳴らして笑った。こちらは酒が好きなようで、美しい色合いのウイスキーをダブルで注文し、二杯目である。
「それは、
「はい」
川北は、即答した。
「この国は、変わらんなぁ」
「変わります」
「あれのことか」
「ええ。あれは、量産体制に入っています。さらにナノマシン化が進めば――」
「国どころか、人は生まれ変わる」
「その母体になったのも、ライナーノーツの念象力者です」
「だから、必要悪だと言うのかね」
「いいえ」
年老いた方の男が、自らの疑問を面白がるように、眼で川北に投げ掛けた。それを察し、
「興味があるのです」
「その母体に?」
「ええ」
川北は笑いと、ハイボールの残りを口に含んでテーブルにグラスを置き、
「暫く、泳がせます。小さな組織とは言え、侮れない。では」
と言って、夏物のジャケットを羽織り、出ていった。
しな子。赤部と、分析官のマヤの三人で、デュオニュソスのことについて話している。正確に言うと、赤部とマヤが話している場で、座っている。
「回収したデュオニュソスは、国立生態研究所へ」
今は、得た情報を、はじめから整理しているところだ。
「政府から付けられた護衛がいて、政府の運営する機構に運び込まれる。国が絡んでいると見て間違いない」
「しかし、表立っては行われない。当たり前ですが」
「だが、隠していては、意味がない。もし、奴らの目的が、しな子――」
言葉を選び直して、
「――念象力者の量産と、その技術の販売にあるのなら、セールスが要るはずだ」
「目的が、販売じゃなかったら?」
しな子が、腕組みを解き、口を開いた。右足の火傷が痛むのか、足を組んで左足に乗せている。
「どういうこと?丹羽さん」
マヤが、しな子の方を見た。しな子は相変わらず眠そうで、無表情だが、その眼はマヤの方を向いている。女性らしい曲線を描く白いブラウスが、好きなのだ。
「販売って、たとえば、海外に、その技術を売るってことでしょ?」
「そうだ」
「それは、発想の飛躍よ」
「どうしてそう思う?」
「たとえば、彼らの目的が、販売じゃなく、量産そのものにあるとしたら?」
「どういうことだ」
「その力を背景に、何かを企んでいる人がいるとしたら?」
「何かって、何だよ、しな子」
マヤの顔が、青ざめてゆく。
「――クーデター?」
化粧をしていても、眼の下の濃い隈が分かる。ちゃんと家に帰れておらず、休養が取れていないのかもしれない。それを、しな子はじっと見た。
「それこそ、発想の飛躍かもしれないけど」
それきり、しな子は何も言わなくなった。窓の無い地下の施設を照らすLEDの硬い光の下で、退屈そうに座っているだけだ。
「まさか、な」
赤部は、否定を乞うようにしな子を見たが、しな子は相変わらず、眠そうな眼をして、椅子に深く腰かけているのみであった。
「とにかく、様子を見るしかない。こちらから下手に出れば、足元を
結論にならぬ結論を出し、赤部は場をまとめた。
また、日常に戻った。
しな子は、何をするでもなくマンションの一室でつまらぬテレビを見ていて、腹が減ったらコンビニに行き、適当な食事を買い、戻ってくる。しな子が、珍しく「怖い」と言ったことを気にかけているのか、赤部が時々様子を見に来る。
部屋に入れてやり、二人でやはりコンビニ飯を食うのみである。だから、この日は、赤部がしな子を食事に誘った。
「また、いつもの居酒屋に行こう」
「別にいいけど」
明らかに億劫そうにしな子は立ち上がり、ジャージの上着をタンクトップの上に羽織り、白い肌に無数に付いた古い傷跡を覆った。
左腕の火傷の痕。しな子が念象力を持つきっかけになった、幼い頃の事故の傷。左の肩には、弾丸による傷を受け、自らそれを摘出し、傷穴を焼いて塞いだ痕。その他にも、切り傷や打ち身の跡が黒ずんだものなど、数えきれない。
その傷を見る度に、赤部は悲しそうな顔をする。だが、しな子がその傷を見せるのは、赤部のみ。見られていることに気付く度、
「なに?」
と怪訝な顔をしてみせる。そうすると、赤部はいつも、
「いいや」
と笑い、冗談を言ったりして誤魔化すのだ。
このとき、もしかしたら、赤部がコンビニで買ってきたカップ麺を作らず、居酒屋に誘ったのは、それかもしれない。
ともかく、二人はいつもの居酒屋に行った。この
「いらっしゃい!久しぶり!」
と看板娘の
「あら、しな子ちゃん、どうしたの?元気ないじゃない」
女性だけに、朱里はよく見ている。しな子の心の僅かな揺らぎを、感じたのかもしれない。
「はは、ちょっとな。朱里ちゃんは、また可愛くなった?」
赤部は笑って、しな子が困らぬよう話を逸らしてやった。
「やだ、赤部さん。しな子ちゃんが、怒るわよ」
「おいおい、ちょっと待て。なんで、しな子が」
やはり、朱里の方が一枚上手らしい。
その夜、しな子は、カシスオレンジを口にし、出汁巻きを食べたくらいで、あとはほとんどものを口にしない。
「ほんとうに、大丈夫?具合、悪いんじゃない?」
朱里が気にかけて、頼みもせぬ小鉢を一つ出してきた。
「ありがとう、大丈夫よ」
しな子は、それだけを言い、やはり手を付けようとしない。仕方がないので赤部が、それらを残さず平らげた。
「朱里ちゃん、ごめん。しな子、やっぱり具合が悪いみたいだわ。帰って、休ませる。お勘定頼む」
朱里は何も言わず、にっこり笑って、伝票を用意した。
「お待たせしました。お願いします、赤部さん」
「ああ、ありがとう」
赤部は財布から一万円札を取りだし、朱里に渡した。一度引っ込み、お釣りを持って戻ってきた朱里が、しな子に声をかけた。
「しな子ちゃん、元気が出ないときはね、自分に正直になってみるの」
しな子は、眠そうな眼を上げた。
「大丈夫。しな子ちゃん、可愛いわ」
「――は?」
「失敗しても、間違えても、大丈夫。赤部さんや、他の周りの人が、あなたを必ず助けてくれる」
「――ああ、そう」
赤部はともかくとして、他の周りの人など、誰もいないではないか、としな子は内心思った。あるのは、自らを苛む記憶と、自らの手を離れてなおしな子を苦しめる、紅の蓮のみ。しな子を責め、追い詰め、苛み続けるこの世界のどの部分が、しな子を助けるというのか。
「だって」
朱里は、困ったように微笑みながら、しな子の肩にそっと手を置いた。触れられて、しな子の身体が、ぴくりと反応した。
「あなたは、きっと、誰よりも、周りの人を助け、周りの人のために、戦っているもの」
無論、朱里は、しな子や赤部が何者なのかは知らない。だから、戦って、というのは、比喩的な意味だろう。
だが、しな子は、意外な驚きを見つけたような顔をしている。
――自分が、世界のために?
――ちっぽけで、この世のどこにも棲む場所のない自分が?
――誰かのために?
――馬鹿ね。わたしは、わたしのために戦うの。理不尽に奪われるのは、嫌。どうして、わたしだけが、辛いの?
――わたしには、何もない。
しな子の目が閉じ、闇を映した。
とん、とん、たとん。
アスファルトを踏む、足音。
いつもの自分のものより、随分軽い。
そうか。ここは、あの高速道路。
足音だと思ったのは、あの日見た、祭りのお囃子。
「おねえちゃん」
全身傷だらけ、左腕にひどい火傷を負った黒髪の少女が、話しかけてきた。
「おねえちゃん。辛い?痛い?」
――べつに。あなたほどじゃないわ。
しな子は、何故か強がった。自分がなぜそう言うのか、分からなかった。
「辛いね。痛いね」
――わたしは、平気よ。
少女は、急いでどこかへ走り去り、薬箱を持って、すぐ戻ってきた。
聴こえる。
足音に混じって、あの歌が。
「おねえちゃん」
少女は、奏太郎になった。
――もういちど、会いたい。
奪われるべきでなかったものが、奪われた。
――今からでも、それを奪うものを全て薙ぎ倒し、救い出したい。
――あの子は、まだ、わたしを待っている。
――わたしは、まだ、あの日にいる。
――戦いたい。
ふと気付くと、しな子のマンションの前だった。
「ほんとに、大丈夫かよ。熱、あるんじゃないか」
赤部の声。
「いいえ、大丈夫」
しな子は、アルファロメオの助手席から、降りた。ドアを乱暴に閉めても、さすがに今日は赤部は咎めない。
「赤部さん」
合わせて降りてきた赤部の方を向いた。
向いて、ボンネットを回り込み、赤部の前に立った。
「話が、あるの」
「どうした」
赤部は、しな子の尋常ではない様子に、ちょっとたじろいでいるようだった。
「わたしに、デュオニュソスを、埋め込んで」
「何言ってるんだ、出来るわけないだろう、そんなこと」
「いいから」
しな子の身体が、赤部のそれに、重なった。
「お願い。戦いたいの」
「しな子」
「お願い。わたしを、自由にして」
「おい、落ち着け。デュオニュソスを埋め込めば、人格や精神にも影響が出るかもしれないんだぞ」
「それでも、いい」
だから、としな子は続けた。
「一度だけでいい。今日のうちに、わたしを抱いて」
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